第7章 聖地 6
鐘が打ち鳴らされると、あたりにはようやくこの窮屈な状態から解放される安堵とも、待ちに待った聖地のその中心で神への祈りを捧げられる期待ともつかない呻きにも似た吐息が重なり合った。
青蘭もほっとしつつも緊張を新たにする。
はるかな古は知らぬが、少なくともこの数百年間、大神官と王族がじかに対面した例はない。
どういう理由でかはもはや分からぬが、建国のはじめより都は聖地から遠く離れた六華と定められた。それ以降、王族は母でもある女神の墓所ともいえる聖地を訪ねたことはなく、その女神を崇める総本山の大神官は、六華で行われる国事でもある祭事には一切関与しない。
神殿は母である女神には仕えるが、その末裔である王家とは一定の距離を置きつづけてきた。だからといって、彼等が国政にまったく関わってこなかったわけではない。
歴代の王の選定に息のかかった貴族を関わらせ、時にはそれが因となって国は乱れた。
百年前の東葉建国のきっかけとなった、双子の女王とその王弟の諍いにも彼等が噛んでいたという。
その後も小規模ながら内紛は続き、何人もの王族が東葉へ逃れた。そのすべてが神殿のせいではないが、常に少なからず絡んでいることは、西葉貴族の間では憶測ではなく当然のことと認識されている。
こんな風に王女自らが慣例を破って聖地を踏み、大神官にその支持を求めるなど、はじめから付け込んでくれと云っているようなもので、それは青蘭も分かっている。
だが、兵力もなく味方も少ないこの状況で、素早く東葉まで巻き込む力を得るには王統家と神殿の支持は欠かせない。蒼杞との対決に片がつき、あらためて明柊率いる東葉とことを構えるには絶望的な兵力差がある。
特に東葉においては、葉王家直系の王女である青蘭に加えて神殿の威光までちらつかせれば、かなり有利になる。権力と金に群がる神官の実態を目の当たりにすることのない東葉の人々は、貴族であってもまだ神殿への敬虔な姿勢が残っている。
停滞していた人々の列がようやく動きはじめる。
沈思していた青蘭は、碧柊に腕を解かれて我にかえった。
「やっとですね」
やれやれとでも云いたげにわざと明るくぼやく。
「ああ、ようやくだ――もし、一対一での会見になっても大丈夫だな?」
青蘭はそっと振り返る。そう問いかける彼は、独り立ちする元小姓の少年を案じるような、保護者の表情をしている。力量不足を危ぶんだりするような明確な理由のある心配ではなく、ただひたすら親が子を案じざるを得ないような。
青蘭は綾罧が云っていたことを想起し、思わず笑ってしまう。綾罧は、共に育った乳兄弟であり主でもある彼のことを、案外世話好きだと評していた。
「何故、笑う」
「いえ――あなたは心配性な父親になりそうですね」
思わず口をついて出そうになった綾罧の名前を飲み込んで、その分、青蘭は無邪気に笑ってみせる。
碧柊はわずかに眉をひそめた後で、あっさりと首肯した。
「おそらく、そうなろうな――そのためには、まずはあなたに吾の子を産んでいただかねば」
にやりと口を端を歪める。すぐにそういう話題にすり替えて、青蘭の動揺を誘おうとする手口にもそろそろ慣れてきた。
「そうですわね。そのためにも一人でもなんとか善処いたしますから、御安心ください」
艶やかに笑う頬にこぼれ髪がかかる。
男装のために思い切りよく切ってしまった髪は、髢を使わなければ少年のように短い。少なくとも女性の長さではない。神殿参詣のためにそれすら不要と、自前の髪だけを束ねている。その短さは人をぎょっとさせるには十分だった。
おくれ毛をすくって耳にかけてやりながら、碧柊は惜しむように見事な髪を見つめる。
「元のように伸びるにはずいぶんとかかろうな」
「――じきにのびます、すべてが治まる頃には」
いったいどれほどかかるのか。本当にそんな日が来るのか。それは誰にも分からない。けれど青蘭は確定の未来を語るように静かに言い切った。
碧柊は黙って細い肩を軽く叩いた。
ゆるゆるとした人の流れに任せるままに神殿の門をくぐる。その頃には先に参拝をすませた者が門の脇から同じ参道に出てくるため、混み具合はほとんど変わらない。
門は白い石柱だった。仰ぎ見るほどに高く、その奥に聳える神殿はさらに壮大だった。一階部分は優美な円柱の列柱玄関が厳かな美しさで人々を圧倒し、さらにその上には流麗な弧を描く屋根が幾重にもかぶさりあっている。実際には何階建てなのか見当もつかない。
「かのような所まで、よくぞこれだけの石材を運ぶことができたものだ」
碧柊が感心したように呟く。青蘭も同じように当たりを見まわしながら小さく首を振った。
「これは岩場を削りだして造られたものです。その際に出た石材で参道や建物などが整備されたそうです」
「――これが削り出されたものとは……」
その規模に碧柊も呆気にとられたようだった。
「これが神殿の総本山です」
青蘭の平板な声音に、碧柊は表情を引き締める。神殿は国から一切の援助受けていない。それでもこれだけのものを築くことができる。
東葉では神殿の勢力が問題となるほど大きなものとはならなかった。それだけに碧柊には、青蘭や里桂たちから聞かされた神殿の持つ力の大きさや、それ故の問題に実感が伴わなかった。だが、それもこうして視覚に訴えられるとこれ以上の証はない。
碧柊はあらためて隣に立つ青蘭を見つめる。彼女は冷静な眼差しで人々のようすを観察している。
こういうときは、東西の葉のそれぞれの国内事情の違いを思い知らされる。それぞれに問題を抱えているが、生まれ育ったものでなければ理解しづらいこともある。その逆に外から見るからこそ分かることもある。
思えば東と西の王家のそれぞれに、年頃の直系の王族がいたことは幸いだった。大きな年の差があってもおかしくはなかった。数少ない直系の王女に釣り合う年齢の碧柊がいて、心を通わせるだけでなく目的を共有することもできた。このめぐり合わせに意図的なものを感じるのは、感傷が過ぎるだろう。
そこへ、神官と話しこんでいた里桂が戻ってきた。
「我々はこちらへ」
まっすぐに進めば拝殿がある。里桂と話していた神官は列柱玄関を脇へ逸れて案内してくれるようだった。
「まずは参拝せずとも良いのか?」
誰も異議を唱えずについていくため、碧柊は声を押さえてこっそり青蘭に尋ねた。
「王族は神殿には詣でません――東葉では違うのですか 」
「いや、東葉でもそういう習慣はない。しかし祭祀の詳細は神殿と傍系王族の女性祭主に任せておった」
百年前、西葉から追い出された東葉王家の主は祭祀権を得ることはできなかった。その後も直系の王女が産まれなかったこともあり、王家が行う国事である祭事について詳しいことは伝わらないままだった。
「そういえば、王家の祭祀は女が司るが、神殿は男なのだな」
「……元々は神殿も巫女が中心だったのですよ」
連綿と女系相続で受け継がれてきたの王家以外では、徐々に何事も男性中心の社会へと変じていった。それは次第に神殿にも及んでいった。
「――吾も知らぬことが存外多いようだな」
「東と西では仕方のないことです――ですから、神殿のことは私にお任せください。碧柊殿がこの問題を理解なさるには、今は時間が無さすぎます」
どのような交渉になるか見当もつかないが、それでもいくつかの場合に応じて里桂・袁楊・青蘭の話し合いで留意すべき点は明らかにされていた。それに碧柊も臨席していたが、理解しがたい部分はいくつかあった。
「ああ、承知している。いずれあなたにゆっくり教示していただこう」
「――私も東葉のことは知らないことばかりですから」
「お互い様だ」
青蘭は碧柊と目を合わせると嬉しげに口元をほころばせ、じきに表情を改める。表情を消し、静かな眼差しでさりげなくあたりへ注意を払う姿は王女のものだった。