第7章 聖地 5
宿から続く細い石段の両脇には、似たような作りの格式の高い宿や貴族の館が並んでいた。
いったん参道に出て人ごみに飲まれてしまうと、もう身分など関係ない。
押し合いへしあいする人々の、毒づく声や小さな苦痛や悲鳴はあちこちから聞こえてくる。
青蘭と碧柊を中心に守るように、嵜州公に仕える武人が警護についているのだが、ほとんどその意味をなさないような混雑ぶりだった。
「ともかく吾の手を放さぬように」
碧柊はたとえどれほどの混雑だろうと他人に触れさせる気はないと宣言するように、華奢な体に腕を回している。
なかば背後から抱きすくめられるような形なのだが、立錐の余地もない混雑ぶりにそれも仕方ないと青蘭は観念していた。と云うのも、四方から聞こえてくる悲鳴のなかに、どさくさまぎれの痴漢を罵倒するものも少なからず含まれているからだった。
たとえ周囲を厚く守られているとはいえ、どんな隙に付け込まれるか分かったものではない。油断も隙もないという意味では碧柊も似たようなものだが、一応彼のことは憎からず思っているわけで、全くの他人に付け込まれるよりはましだった。
参道は向かい合う軒と軒が接するほどに狭い。
昨日の夕刻もすれ違うのが難しいほど混みあっていたが、物珍しげに店々をひやかしてまわれる余裕はあった。むしろその賑わいが気分を弾ませるほどで、青蘭は珍しく少々はしゃいでしまった。酔ったわけでもないのに珍しいなと碧柊は笑ったが、彼も同様に楽しそうだった。
だが、今はそんな余裕はまったくない。神殿側が一日の参拝者数を限る理由を、身を持って知る羽目になった。この上に日帰りの参拝者まで受け入れることはそうとう難しいだろうし、こんな状態では一生に一度といわれる参詣のありがたみもあったものではない。
間もなく人の波はまったく停滞してしまった。
そこからは神殿の屋根すら見えない。人々の動きがとまると、次第に人々のざわめきも静まっていく。不思議な静謐に、唾を飲み込むことさえためらわれるほどだった。
青蘭はそんな人々を見渡し、次になにが起こるのか静かに待った。
落ち着いてみれば、昨日ひやかしてまわった店はすべて閉まっている。朝のこの人出を考えれば当然だ。
「これでは会見がいつになるか分からぬな」
耳元で碧柊が囁いた。彼はいささか退屈顔で、それでも青蘭を防御する姿勢だけは頑として崩さないつもりらしい。
「そうですね――あくまで里桂殿の名前しか出していないし、それに、参詣時には身分による優遇はないとも聞きました。順番が回ってくるのを待つしかないでしょう」
「それしかあるまいな――この会見が無事にすめば、いよいよ階を一段上がることとなる。少しは緊張なさっているか?」
青蘭は我慢しきれず、さり気なく顔をそむけた。体が密着しているので、彼の言葉と共にその吐息が耳朶にかかるのだ。彼に他意がないとわかっている分、それを訴えるのも気恥ずかしい。
大神官は今年に入ってから急に代替わりした。大神官の代替わりは、その死をもってしか行われない。聖地を直接押さえている嵜州公里桂のもとには、先代の死因は老衰だと伝えられたという。新たに大神官の地位を襲ったのは五十代の神官で、歴代のなかでも異例の若さらしい。
前の冬は春先に戦火を交えた東葉との戦いに備えて、どの貴族も準備に追われていた。里桂もその一人で、新たな大神官の就任式の時には嵜州を留守にしていたため、未だに顔を合わせたことはないという。
大神官には次席の神官が繰り上がったのではなく、もっと下位の者が抜擢されたらしい。年功序列が原則にもかかわらず登用されたということは、切れ者であることは間違ないだろうという、これも憶測に過ぎないあてにならない情報しか得られていない。
なにもわかっていないだけに、青蘭も昨夜は緊張して眠りは浅かった。だが、この状況でそれもいつの間にか治まっていた。
「今はまだ大丈夫です。この状態では緊張も続きません。でも、いざ直前になればきっと」
「なに、大丈夫だ。吾が傍にいる故な」
「けれど交渉するのは私です。しっかりしろと気合いを入れて下さらなければ――碧柊殿は私に甘すぎます」
苦笑まじりにたしなめると、まわされた腕に力がこもる。抱きすくめられるような体勢に、青蘭はその腕を軽く叩いて抗議した。
「碧柊殿」
「確かに吾は甘い。だがな、そうでも云わねばそなたは弱音を吐かぬだろう?」
「そんなことは――」
「この先、そなたは一人ですべてを背負わねばならぬ。失敗は許されぬ。当然周囲からの評価も辛くなる。要求されることも多くなり、それも高くなる。不安でも自信がなくとも、たとえ死地に臨んでも、そなたは悠然と笑っていなければならぬ。だからこそ、吾くらいは甘くてちょうどよい」
「……」
青蘭はうつむいて碧柊の腕を強くつかむ。
「手放しで甘やかすわけではないぞ。ときには誰よりもきつい諫言もしよう。ただ、一人でなにもかも抱え込まずとも良いということだ」
腕を掴む手にそっと手を重ねられ、青蘭はしばらくじっとしていた。
その言葉には、王太子という立場に長年あった実感が込められている。
人の上に立つということがどういうことなのか、はっきりいって青蘭はまだ実感できていない。それでもその台詞を裏付けるだけの彼の実感はうかがい知れる。女王として立つつもりなら、それだけの覚悟をしなければならないということだった。
軽い気持ちで即位を決意したわけではないが、当初の心づもり以上の厳しい覚悟の必要性を実感する。
それでももう今となってはたとえ碧柊が相手であっても、自分に出来るでしょうかなどと云う言葉は吐けない。
一人ではないけれど、一人である覚悟と責任も必要とされる。もし今、改めて即位するか否かを尋ねられれば断るかもしれない。だが、もはやそんな選択肢はありえない。
「……傍にいて、私を支えて下さい」
「とっくに承知しておる」
当然だという気楽な口ぶりに、青蘭も沈鬱な想いから抜け出せた。
「とりあえず、当たって砕けろ、ですね」
「――当たるのはいいが、砕けるのはまずいぞ」
言葉のあやを解さない生真面目な言葉に、青蘭は思わず小さく笑ってしまう。
いくらか気が軽くなったそこへ、神殿の開門を知らせる鐘が高らかに響いた。