第7章 聖地 4
山の端が白々と浮かび上がる。珍しく雲一つない天は東から明け果てていく。
聖地の朝は遅い。山の背の懐深く抱かれたその地では、太陽が中天近くまで昇るまで陽射しを拝むことはできない。
対岸が見えないほど遠くにある湖面も暗いが、それでも漁師たちは舟を出す。
葉の各地からやってきた人々は、暗いうちから宿を出て神殿の前に集まる。聖地の決まりとして日帰りでの参詣は禁じられている。舟は朝から昼前までの決まった時間しか運航されず、宿の決まっていない者が聖地を踏むことは禁じられていた。
谷あいの土地は狭い。神殿まで続く参道の両脇には宿だけでなく土産物屋や食堂も軒を連ね、石畳の道には人が溢れかえっている。
王統家や上級貴族などはそれぞれに館を構えているが、そもそも狭隘な土地のため広い敷地を有することはできない。小さな館をかまえるのがせいぜいだった。
嵜葉家も館を有しているが表だって利用するわけにいかず、青蘭達は巡礼の宿を利用していた。館を持てない貴族の利用する格の高い宿だった。
宿からは参道を見下ろせた。斜面を広く削った敷地に建てられたもので、廊下側の窓には崖が迫っている。
朝早く目覚めた青蘭は、窓辺に椅子をよせ眼下の参道の賑わいを見つめていた。
「ずいぶんと人が多いのね。昨日の夕方も賑やかだったけれど、これほど多くはなかったわ」
参道は人々の頭でほぼ埋め尽くされている。それも一様に神殿へ向かっているため、その流れはしばしば停滞する。
「人生で一度は聖地を訪れるべきだと云われておりますから」
侍女は嵜州公の城から伴われてきた。生まれも育ちも嵜州だという。
目覚ましの香草茶が目の前に置かれる。茶器を手にした青蘭は湯気とともに立つ香りを深々と吸い込み、「いい香りだわ」と目を細めた。それに侍女は嬉しげに頭を垂れる。
「あなたもはじめてなの?」
「はい、今回がはじめてです――それが姫さまのお付きで叶うなど、夢のようです」
侍女は青蘭よりいくつか年下のようだった。はにかむ顔はあどけない。
「それでこれほどの人がいるのね。けれど随分と狭いところだから、一日の参詣人には限界がありそうね」
「たいていは対岸の港町で順番が回ってくるまで数日宿泊します」
「やはりそうなるのね」
青蘭は少女に浅く首肯し、また窓の外へ視線を向ける。
女神の末であるはずの王族は聖地に参ることはない。王城にはいくつか社があり、すべての祭礼はそこで行われる。聖地へ使者を遣わしたり、逆に神官が出向いて来たりすることはあるが、王族が自ら赴くことはない。
聖地には女神が眠る。
この地でかの神は亡くなったという。命を落とし、神となった。それなのに何故末裔である王族はこの地を訪れないのか。そんなことは考えたこともなかった。
ふとした思いつきだったが、その疑問はなかなか消えなかった。
神殿に詣でるには身分にかかわらず規則があるという。
衣は麻。男女ともにできるだけ肌の露出は避けるが、頭を覆ったり顔を隠したりしてはいけない。武器の携行も基本的には禁じられている。
王城の社ではそのような決まりはない。だが、神事の際は必ず真新しい白絹の祭服を着用する。
基本的な考えは同じなのかもしれない。
同時に、聖地からの遣いである神官が、世俗の富裕層も顔負けの豪奢な衣装に身を包んでいたことを青蘭は思いだす。祭りでもない平時にこれだけの参詣者があるということは、神殿に落ちる喜捨は相当な額になるのだろう。
巡礼らしく慎ましい身なりで部屋を出ると、すでに人待ち顔の碧柊が廊下の壁にもたれかかっていた。
扉が開く気配を目ざとく察し、青蘭が気付く頃には目の前にいる。不意打ちにも似た接近に、呆気にとられているうちにさっと手をとられる。
「身をやつしていても愛らしいな」
耳打ちされて赤くなる。それを面白そうに眺められ、むっとしつつも愛らしく笑ってみせる。
「少々言動が明柊殿に似てこられたのではありませんか? さすが従兄弟でいらっしゃいますね」
この言葉はてきめんに効果を表した。
碧柊はさも嫌そうに顔をしかめる。青蘭はせいせいした気分で彼を促し、階下に向かう。階段を降りる間も碧柊は黙って彼女の手をとっていたが、階下につくと大真面目に青蘭に尋ねた。
「まことにそのように思うか?」
その口ぶりの切実さに青蘭は思わずふきだしてしまった。
「冗談です、あんまり楽しそうに私をからかわれるから――心にもないことを無理に云っていただかなくてもけっこうです。そういうことは碧柊殿には似合いません。だから、明柊殿の真似はあなたには無理です」
「云っておくが、吾は心にもないことなど口にはせぬぞ」
きっぱりと言い切られ、青蘭は一瞬ぽかんとしたが、じきに先ほどよりもさらに赤くなる。
「と、ともかく、明柊殿のようなことは仰っていただかなくてもけっこうです」
「だが、それではまたあなたがどんな誤解をするか分からぬだろう」
「もう誤解なんてしません」
「そうはいかぬから問題なのだろう。だいたい誤解はするしないと云い切れる類のことではない。それが防げるなら、それに越したことはない」
言動を控える気はないということらしい。
青蘭は断固やめてもらうべくさらに云い募ろうとしたが、袁楊に気づいて口をつぐむ。彼は二人を遠巻きにしていたのだが、話にけりがつきそうにないことを悟り、腰を折ることにしたらしい。
「お話し中申し訳ありませんが、里桂殿がお待ちです。そろそろ参りましょう」
彼の言葉に青蘭はばつの悪い思いだったが、碧柊はまったく気にもしていない。
彼は青蘭のことを鈍いだの誤解しやすいだのというが、自分だって人のことを云えた義理ではない。だが、それもおそらくいくら言葉を尽くして説明しても通じないだろう。彼は鈍いとなるととことん鈍くなる。
その点、正せる自分のほうがまだましだと思う。それと同時に五十歩百歩という言葉が思い浮かび、青蘭はひそかに溜息をついた。
「では参ろう」
碧柊が重々しく云うと、袁楊は首肯して宿の扉を開く。
扉の向こうには、柱廊玄関の柱に退屈し切った様子で凭れかかった里桂の姿があった。彼は青蘭の姿を目にするとじきに姿勢を正して立礼する。
「おはようございます、姫」
碧柊を無視しての恭しい挨拶に、青蘭は朝の言葉を返す。碧柊はそんな彼の態度を歯牙にもかけていないようだった。
「しかし朝からずいぶん待たされたものだ」
里桂が袁楊に愚痴をこぼすと、袁楊はちらりと二人の王族を一瞥し、曖昧に微笑した。その仕草に里桂も納得したようで、諦めまじりのにやついた笑みを浮かべる。
青蘭はまた赤面して視線をそらしたが、碧柊はまったく気づいてもいないようだった。