第7章 聖地3
それは見事な紗だった。三重に重ねてもまだ向こうを透かして見られるほどに。さらにごくごく細い銀糸で草花文様の刺繍が施され、盛夏の午後の陽ざしに煌めく。
「美しいものでございますね」
「そうね。西葉では模様を織り込んでしまうけれど、こちらではさらにひと手間かけるようね」
それは婚儀の際に雪蘭が用いる被布のために調えられたものだった。婚儀はしきたりどおり行われるが、それを途中でいくつか変更する予定だと明柊は話していた。雪蘭にとってはどうでもいいことだった。肝心なのは彼に疑念を抱かせず、出来るだけ早く婚儀をあげてしまうこと。
「あの方はそろそろ西葉にお入りになられたでしょうか」
「何事もなければ」
膝の上には何枚もの絹や錦の織物が置かれている。すべて婚儀に備えて誂えられ、さきほど届けられたものばかりだった。
贅をつくした品々に感心はするが、それ以上の感慨はない。夫となる人の顔を立てるために一通り手にはしてみたが、さほど興味は惹かれなかった。
明柊という人物が夫としてどうかはまだ分からないが、わざわざ喜んでみせる必要のないことは楽な点だ。
本来、“青蘭姫”は入城した翌日には婚儀を上げることになっていた。その支度の一切を手配したのは碧柊だが、明柊はそれを流用するような真似はしなかった。
改めて彼の指示のもとにすべてが新調されつつある。そのため婚儀はずれこんでいた。雪蘭にしてみればそのようなことはどうでもよいから、一日も早く婚儀を上げてしまいたいところだが、こればかりは口に出すわけにはいかなかった。
わざわざ新調された調度の礼をさも嬉しげに述べたが、明柊はにこやかに笑った。
「心にもないことはけっこうですよ」
「――それでは、同じ言葉をお返ししなければなりませんわ」
「心外なことをおっしゃいますね。俺は常に愛を言葉にしなければ、想いが溢れて死んでしまいそうになるんですよ。俺を助けると思って耳を傾けて下さらなければ」
「聞き流してもよろしければ」
「本当につれない方だ」
本気で嘆いているように聞こえるのに、どうしてもふざけているとしか思わせない彼と云う人に、改めて感心したというような経緯もあった。
明柊がなにも知らないまま身分を偽った雪蘭と結婚したとしても、いつでも離婚できる。雪蘭のつとめはあくまで時間稼ぎにすぎない。どのくらい明柊を謀ることができ、そしていかに機を逃さずにすべてを暴露するかと云う二点に尽きる。
青蘭が無事に西葉にたどりつき、全ての準備を整えるだけの時間が確保できれば上々だ。その間、明柊に疑いを抱かせずにすめばそれでいい。
「峠には関がある。無事に通過できていれば、そろそろ岑家の邸についている頃か」
青蘭が無事だったという報せは、岑家を通して雪蘭にも伝えられた。彼女を保護したという岑家の手のものによる報告は、いったん岑家に寄せられ、それから雪蘭に伝えられるためどうしても数日の時差が生じてしまう。
無事の報に続くものはまだもたらされていない。
「……それにしても本当に驚きましたね」
香露は雪蘭の膝の上の織物を引き取っては畳みながら、微笑みかける。
「偶然なのだろうが、ただの偶然でもないのだろう」
てきぱきと無駄のない香露の手元を見つめながら、雪蘭は呟いた。
切望していた青蘭無事の報と共にもたらされた内容に、さしもの雪蘭も少なからず驚かされた。青蘭と共に東葉の王太子である碧柊が一緒にいたという。詳しい経緯は分からないままだが、彼がずっと彼女を助けてきたらしい。そして青蘭は彼を盾に選び、名実ともに女王として即位する心積もりだという。
それは香露も知っている。
彼女の云う驚きには、二人が一緒だったということに加えて、青蘭がその決意をしたということも含まれているのだろう。
雪蘭も少なからず驚いていた。
碧柊と云う人物については風評以上のことは分からない。青蘭の相手としてさほど危惧を抱く必要のない人物だと踏んで、気乗りしない様子の彼女に大丈夫だと太鼓判を押してみせたが、実際のところ根拠があったわけではなかった。
青蘭には自己卑下の癖があり、どちらかといえば基本的に消極的だった。その彼女が即位を決意するとは。おそらく青蘭一人の考えではないだろう。少なからず彼が噛んでいるに違いない。それでも東西の葉まとめて即位するのは青蘭自身なのだ。彼女が納得し決心を固めなければ、その選択はありえない。
雪蘭の背中に隠れるように育ってきた青蘭に、表に立つ決心をさせたのは碧柊と云う人なのだろうか。それとも、あの夜からはじまった逃亡劇が彼女のなにかを変えたのだろうか。
おそらくは両方なのだろう。青蘭は他者の影響を受けやすいようでいて、自身で納得しなければ受け入れない頑固さも備えている。
「私は彼女に対して過保護過ぎたのか」
「そうでしょうか?」
確かに雪蘭は青蘭中心に動いてきた。自分のことは常に二の次だった。だからと云って、それが即ち過保護だということにはなるまい。
「私は、あの子から自分で考え決断する機会を奪ってきたのかもしれない」
兄から命を狙われ、父に顧みられることない王女。奪われるばかりで与えられることのなかった彼女に、雪蘭は自分の持てるものすべてを注ぎ込んできたつもりだ。
青蘭は素直にそれらを受け入れてくれたが、その分、自分からなにかを欲することはほとんどなかった。それは幼いころからの習い性であり、長じてからは欲する前に雪蘭が与えてくれるからその必要がなかったともいえる。
青蘭のためというお題目を唱えながら、結局は己の考えを押し付けていただけではなかったかと云う疑念も拭いきれない。
事実、雪蘭の保護下を脱した彼女は驚くような決断を下している。それは本来彼女がそれだけの力を持っていたことの証でもある。
碧柊と云う人はそれをやってのけ、さらに自身は王位への執着を捨てたということになる。
「私とあの子が引き離されたことは、かえって良かったのかもしれない」
「……それでも雪蘭さまは青蘭さまのためだけに動いておられる……」
「それは当然のこと」
即答した雪蘭に、香露は眉をひそめる。
「そのために苓公との婚儀を承諾され、命までお賭けになるのですね」
「あの子だって命がけのはず。私だけではない」
「けれど、それでは雪蘭さまの幸福はどこにあるのでしょう」
香露は目を細め、遠慮がちに雪蘭の手に触れる。
「あの子の幸福が私の幸福。それ以外はあり得ない」
「そのためにお命を落とすことになってもかまわないとおっしゃるのですか?」
「そのとおり」
躊躇いもなく頷いた主に、香露は痛ましそうに眉をひそめる。
「それは何故ですか? いくら姉妹同然にお育ちになったとはいえ、あの方に比して雪蘭さまのお命が軽いということにはなりません」
「軽い重いの問題ではない。あの子がその役割を果たすために、私には果たすべきことがあるというだけのこと」
「ですから、それはいったい何のためだとおっしゃるのですか?」
「あの子と国のため。それ以外に何がある?」
香露が問いたいのはそういうことではない。だが、雪蘭にはその想いそのものが通じないようだった。