第7章 聖地 2
父が亡くなったという報せに、母は涙を見せなかった。
王都からの急使のもたらした凶報にわずかに目を瞠り、やがて小さく頷いただけだったという。
当時八歳だった雪蘭には、父の死がどういうことかすでに理解できた。
喪が明けるとじきに、母は雪蘭に六華へ向かい奥の宮に入るよう言い渡した。幼い少女はしばらく黙って母の顔を見つめていたが、やがてこくりと頷く。
「参ります」
澄んだ声が凛と響いた。
父の訃報には娘も涙をこぼさなかった。そして、今も動揺することもなく立ち尽くしている。
蓮霞は娘のそばに膝をつき、そっとその白くふくよかな頬に触れた。
大きな目は黒目がちで、鏡のような瞳には目を潤ませた母の顔がうつっている。
「もう二度と母とも会えないかもしれないのですよ」
「はい」
しっかりした応えに、蓮霞はびくりと肩を震わせた。一筋、頬を伝う滴の行方を雪蘭は追う。
「父上との約束です。私が青蘭姫をお守りすると。父上は叔父上をお守りできなかった。だから、かわりに私が青蘭姫をお守りしなければならないのでしょう、母上? 」
美しい母の顔が醜く歪んだ。
「――姫さま……姫さま? 」
そっと腕に触れる手に、はっとする。椅子にかけたままうとうとしていたらしい。
滅多と人前でそんな姿をさらすことのない彼女を案じるように、香露が遠慮がちにのぞきこんでいた。
「ご気分が優れませんか?」
「いいえ、大丈夫」
うっすらと笑ってみせると、香露も小さく頷いた。
「なにかお飲みになられますか?」
「ええ、お願い」
香露の指示に、狭霰が肯いた。小さく磁器の触れあう高い音が響く。
雪蘭は眠気を払うように小さく息をつき、窓の外を見つめる。明柊の指示で窓の覆いは外されていた。遠くまで見晴かす彼方に、おぼろげに山影が見える。山の背の影だった。あの向こうに青蘭がいるはずだ。そして母も。
母の顔を醜いと思ったのは、後にも先にもあの時一度だけだった。
雪蘭の母、蓮霞は美しい人だった。
その美だけを取り沙汰するなら、青蘭に勝るとも劣らない。その上、出自からくるものなのか、独特の影をまとっていた。今にも消え失せそうな陽炎を思わせる儚さ。
月夜の窓辺に座る母は、透けるような青い光に包まれそのまま溶けてしまいそうだった。そんな不安を幼い娘にも感じさせるほど、母の姿には妖しさがあった。
父はそんな母に惑わされたのだろうか。
それも仕方ないと思わせるほどに、母という人はどんな時も美しい人だった。
父が何故、王太子の地位を捨てたのか。それがどういうことか、父が理解していなかったはずはない。
幼いなりに父の行動に疑問に感じはじめていた矢先の訃報だった。
父は確かに雪蘭に青蘭を守るよう、幼いころから囁きつづけてきた。それは雪蘭に自分の願いを託すのではなく、それこそが雪蘭の生まれてきた意味であり意義であるかのような言葉だった。
六華へ発つ前にも、彼は母ではなく青蘭のことを託していった。
だから、喪が明けると同時に王城へやられると聞かされても驚きも不満もなかった。
奥の宮へ上がるよう娘に告げた母は相変わらず美しかった。
素直に肯けば、母は娘の傍らに膝をつき、白く華奢な手で小さな顔を包み込んだ。
雪蘭は同じ高さの眼差しに、縋るような光を見つけた。
もう二度と会えないかもしれないと告げた母の眦から、一筋涙がこぼれた。
午後の光を受けるそれは、それだけであれば美しかった。けれど母の白い頬を伝うそれを美しいとは思えなかった。
何故、あんなことを云ってしまったのか。
そして、醜く歪んだ母の顔を見て、雪蘭はひどく満足していた、
我がことながら、わざわざ母を傷つけるようなことを口走ってしまったその理由はずっとわからなかった。考えないようにしていたせいもある。
奥の宮に上がってからは、青蘭のこと、彼女を取り巻く環境のこと、そして父から託されたことを果たすことでずっと忙しかった。
相談相手は専ら岑家当主である養父だった。母はあてにはならなかった。
自分にできること、できないことを見極め、自分なりに最善を尽くしてきたつもりだった。
現在の事態を許した自分の甘さへの反省はあるが、後悔はない。雪蘭一人で防ぎきれたことではない。他にも気付かなければならない人間がいたはずだった。
父も過去を悔いるようなことは一度として口にしなかった。
ただ母だけが過去を語った。それは感傷に満ちた美しいものであり、そこには自己陶酔に浸る彼女がいた。
雪蘭は母のことも父と同等に愛していた。今もそれは変わらない。その一方で父への敬愛が深まるにつれ、母を軽侮する気持ちも少しずつ深まっていった。
父は決して自分の責任を雪蘭に押し付けたわけではない。それを分かっていない母に苛立っていたのだろうか。父を愛していると云いながら、理解しようとしない母と云う女性への嫌悪。
雪蘭は父の遺志を理解していた。
それをあえてあんな風に歪めて母に告げたのだった。もし母が父を理解していたなら、あんな風に醜く顔を歪めることはしなかっただろう。それとも、幼い娘に自己欺瞞を見破られてあんな顔をしたのだろうか。
また一つ息をつく。
答えを求めることは愚かなことではない。けれど、たった一つのそれを導こうすればたいてい徒労に終わる。理由が一つしかないこと方が稀なことを雪蘭は知っていた。
「姫さま」
遠慮がちに声をかけられ、雪蘭ははっと我にかえる。またも香露がそっとうかがっている。傍らの小さな円卓の上の茶器はすでに冷めていた。
苦笑しつつ目で応じると、香露はかすかに頭を下げた。
「苓公がお目通りをご希望です。お会いになられますか?」
一気に現実に引き戻される。小さく息を吐いて頭を切り替え、「お通して」と云い添えた。
明柊は屋外での目通りを希望した。断る理由のない雪蘭は了解する。
花柱の塔の入口まで彼女を迎えにきた明柊に恭しく案内された先は、これまでになく遠いところにあった。
王城内を区画する塀に設けられた門をいくつも潜り、複雑に分岐し折れ曲がる回廊をただひたすら歩む。気の焦るようなゆっくりとした歩みでも、夏の午後のいささか長すぎる散歩では汗ばみもするし、疲れも覚える。唯一の慰めは、珍しく彼が無口だったことくらいのものだった。
疲労と暑さでやや虚ろな眼差しで足元を見つめる頃、ようやく明柊は足を止めた。
そこは小さな泉と涼しげな緑陰のあるささやかな庭だった。片隅に風通しのよさそうなこぢんまりとした四阿がある。泉は森の奥深く人知れず湧きいずる様な風情で、人工的なものとは思えないほど素朴な趣だった。
「東宮の裏庭ですよ」
雪蘭ははっとして明柊を見た。彼は曖昧に微笑んでいる。真意は読み取れない。
基本的に妻妾は奥の宮に押し込められるものだが、東宮妃に限りその例外がありえた。夫である東宮が望めば、共住みという形で東宮にうつることもある。
だが彼はこれまで形式でしかなかった“女王即位”を公的に前面に押し出し、自分は王配としておさまり、“王”を名乗らないと告げた。そうであればこの東宮と云う場所は“青蘭姫”には無縁な場所のはずだった。
「ずいぶんと歩かせてしまった。お疲れでしょう。まずは四阿で休みましょう」
恭しく手を取り直し、そちらへ導く。緑陰を渡る風は涼しかった。
東屋には大理石の円卓と椅子が設えられていた。人影はなかったが、卓上には水滴のついた硝子の杯が二つ並べられていた。琥珀色の液体に、氷が浮かんでいる。
その手触りも、喉越しも、この季節では贅沢極まりないことだった。
「東宮には氷室があるのです」
それは西葉でも珍しくはない。特に自慢しているわけでもなさそうで、雪蘭は「そうですか」としか応じようがなかった。
「幼い頃はよく碧柊と二人して氷室に忍び込んでは怒られたものです」
懐かしそうに楽しげに思い出を騙る彼に、雪蘭は黙って首を傾げるしかなかった。
暑さも手伝ってじきに硝子の杯は空になった。涼しげな氷が空底を滑る音に、茂みの影から人影が滑り出て、静かな動きで杯を満たすとまた姿を消した。
まったくの無人と云うわけではないらしい。
さり気なく周囲へ視線を巡らせるのを中断させるように、明柊が本題を切り出した。それは“青蘭姫”即位の件だった。
「あなたがこのような提案を素直に受け入れてくださるとは。実は少々意外に思っているのですよ」
「何故そのようなことを? 王家の女性は恭順が美徳でございましょう?」
わざとらしいほどあからさまに探る視線を向けてくる彼に、雪蘭は涼やかな笑みで応じる。
「ほら、そんな風に仰るからですよ。本当に恭順な女性はそんなことは思いつきもしない。心の底からそうであるからこそ、美徳と云うのではありませんか? そういう意味では、あなたの従姉殿のほうがよほど心得ていらっしゃるようだ」
嫌味な言葉に、雪蘭は楽しげに首をかしげる。
「けれど、そういう女性はあなたのお好みではないのではありませんか?」
「いいえ、俺は心が広いのですよ。素直な女性も、そうでないあなたのような女性も等しく愛おしい。俺はどのような人間も愛おしめるのです。それぞれに違った良さがありますからね。唯一我慢ならないのは、愚か者のみ」
さも我慢ならないと首を振ってみせる彼に、彼女は改まった顔で問いかける。
「愚かでない人などおりましょうか?」
「本当の愚かものはそんな風には云わないものですよ。愚かものは俺一人で十分です」
「あなたが愚か者?」
「そうです、恋に惑う愚か者。俺は惑わされてばかりの愚かな人間です」
深刻ぶった顔で深々と溜息をつき、芝居がかった仕草でこめかみに指先を押しあてる。その姿に呆れつつも彼女は感心したように微笑む。
「――お幸せですのね」
「ええ、幸福ですよ、これ以上なく、ね――それにしてもあなたは得難いお方だ。私がこれほど心を明かすことができる方は、そうはいない」
「他には?」
「わが愛しの従弟、碧柊殿くらいのものです」
いかにも秘め事を雪蘭にだけ明かすのだと言いたげに重々しく囁く。
「……よく仰るわ。追い落としておいて。それに、あなたのどこが心を明かしておられるというのか、それこそ明かしていただきたいものですわ」
「それすらあなたは分かっておいでの筈ですよ。愛しい青蘭殿」
そう云って、明柊は雪蘭の白い手に口づけた。
「いいえ、私にはわかりかねます。そういうことははっきり言葉にしていただかないと、特に女と云うものは確かな証を欲しがるもの。賢明な明柊殿ならご存知でしょう?」
「困りましたね、愛に明確な形を与えることは難しい。それこそあなたなら分かっていらっしゃるだろうに――それとも、私の愛を試していらっしゃるのですか? それもまた女心というものでしょうか」
諭しを求めるように、押し戴いた雪蘭の手の甲をそっとなでる。彼女はそれを振りほどきはしなかったが、もう一方の手で彼の手をそっと払いのけた。
「女は常に不安を抱えているものです。それを安らげて下さるのも殿方のお務めでは?」
「困った方ですね――では、一つ証としてこんなお話はいかがでしょう。私と碧柊が従兄弟同志ではなく、兄弟ではないかと云う風評はご存知ですね」
「ええ。口さがない人はどこにでもいるものですから」
今更知らぬふりをする必要のない話だった。
「それはそれでよろしい。人の口にも使い道がある。では、本題ですが。そのようなことはありえないのですよ」
「――」
「結婚前のことはともかく、碧柊の両親は子供の目に仲睦まじかった。噂を流したのは俺の母なのですよ」
「……何故そのようなことを」
貞操を疑われることは、女として最大の恥辱と云われる。疑われただけで自害をする女性も珍しくはない。さすがに雪蘭にも理解しがたいことだった。
「未練ですよ、単なるね。前王は確かに一時期我が母と親しかった。だが、長続きしなかった。それが何故なのかは一目瞭然でしょう、彼女のしたことを思えばね。美しいが愚かな方です。俺などはそこが可愛らしいところだと思うのですが、伯父上にとってはそうではなかった。ただ、それだけのことです」
彼は母を軽蔑しているのではなく、憐れんでいるようだった。雪蘭は返す言葉に詰まる。彼は答えを求めているわけではない。
「……それを明かすのは私にだけだと仰るのですか?」
「そうですよ、碧柊にも云いません。あれも風聞を知っているが、それ以上に両親を敬愛している。明かすまでもないのです」
確信に満ちた言葉だった。まるでよく親しんで知った人を語るように。
「……それだけお聞きしていると、まるで碧柊殿を好いておられるようですね」
「何度も申し上げているではありませんか、俺はあれを愛している、と。なかなか信じて下さらないのですね」
「あなたの言葉は信じられないのではなく、それ以前の問題でしょう。私程度の人間には、見極めがつきません」
「それだけで光栄ですよ。たいていの人はそれすら放棄なさいますからね」
「そのようにあなたが仕向けておられるのでしょう」
「――やれやれ、本当に侮れぬお方ですね。本当に惚れてしまいそうですよ」
彼は艶然と微笑み、眉をひそめる秀麗な顔にそっと触れた。