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まだ見ぬ君に  作者: 苳子
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第7章 聖地 1


 神殿の総本山をも擁する聖地は、州都から軒車くるまで二日のところにあった。

 山の背の裾には、いくつもの襞を折りたたんだような渓谷が続いている。そこに源を発する流れは西へ向かい、大地を潤し沃野となしてきた。

 その麓にはいくつもの湖も点在する。そのうちでも最大のものを瑳衣湖さいこという。

 山襞のいっそう深い懐に抱かれ、瑳衣湖に守られる地。

 それが聖地だった。

 山側から侵入は険峻な崖に阻まれるためほぼ不可能に近く、湖は橋をかけられるような広さではない。聖地と外界を繋ぐのは船だけであった。

 



 碧柊へきしゅう里桂りけいに身元を明かした日の午後、一行は慌ただしく州の州都を発った。先に神殿へ面会を申し込む急使を発たせての出発だった。慌ただしいが、一刻を争う折でもある。

 そうして二日。強行軍だったおかげで、日の出の頃に聖地の対岸の港に到着した。

 軒車から降りる青蘭せいらんの手をとったのは碧柊だった。

 二十日にわたる逃避行を共にしたことを聞いた里桂は、二人の関係を今さら問いただしはしなかった。青蘭に介助が必要になる度に、碧柊にお鉢が回ってくるのは彼なりの配慮に違いない。

 汪永おうえいなどから、いかに碧柊が青蘭を大切にしているかは傍目にも明らかだと云われたことを思い出せば、今更ながら顔が赤らむ。自分でも彼の過保護さには苦笑してしまうほどだったのに、肝心の彼の気持にはまったく気づいていなかったというのだから。

 もう少したてば笑い話にもできるのだろうが、まだ今は碧柊に対しても申し訳なさの方が先に立つ。青蘭さえ分かっていれば避けられた諍いはいくつもあった。

 自分が雪蘭ではなく青蘭だと告げた時の誤解も明かした。彼はもっと単純に惚れたと云っておけばよかったのだなと詫びてくれたが、果してその時そう云ってもらえたとしても、それを自分が素直に受け取れたかどうかはあやしい。

 彼への想いを自覚したうえで、彼がもう二度と目覚めないかもしれないと思い詰めたからこそ、自分に対しても彼に対しても素直になれたような気がしていた。

 軒車の窓越しにも湖の広大さは分かっていたが、こうして降りたって遮るものなしに目の当たりにすると圧倒される。


「――対岸があれほどに遠いなんて」

「ほとんど見えぬな」


 碧柊は青蘭の手をとったまま、その足元に注意を払いつつ水際まで案内してくれた。

 そこは聖地と対岸の港をつなぐ船着き場だ。石を積んだ岸壁が遠くまで続き、いくつもの桟橋が湖中に伸び、多くの舟が係留されている。

 大型船は見かけない。岸壁から見下ろす分には水深が浅いわけではなさそうだ。それなのに最も大きなものでも、せいぜい十人くらいしか乗れそうにない。多くは数人乗りの小さな舟ばかりだ。

 巡礼の貴族を装っている青蘭は、上品な仕立てだが地味ななりをしている。かずきなど用いれば王族だと標榜しているようなもので、顔もさらしている。そうして過ごす時間の方が長くなってくると、顔を隠して過ごす元の生活を想うだけで苦痛だった。

 湖面を渡ってくる風は涼しい。

 山の背から流れ込む渓流は雪どけ水のため、盛夏でも水温は低いらしい。そのせいか湖に棲息する魚の種類は少なく、小型のものが多いという話だった。

 短い髪を強引に結い上げているため、どうしても時間がたつとほつれ落ちてくる。顔にかかる髪にわずかに眉をひそめ、指先ですくい取ろうとする前に彼の指が除いてくれる。


「……ありがとうございます」


 何故かどきまぎしながら礼を述べると、彼は薄く笑った。

 碧柊は青蘭がひそかに恐れていたほど人前で親しげに振舞うことはなかった。あくまで恭しく傅く範囲を超える真似はしない。だが、人目がなくなったとたんに過剰に接触してくる。青蘭などはそれでようやく二人きりだと気づくほどの目ざとさで、どうにも防ぎようがなかった。


「聖地を訪れる日がこれほど早くに来ようとは思わなかったな」

「え? 」


 彼は青蘭の手をとったまま、見晴かすように目を細めて湖を見つめていた。


「この百年、我が祖は誰一人として聖地の地を踏んでおらぬ」

「――もっと先になると思っておられましたか? 」

「ああ、当初の予定では――だが、しょせん予定は未定だ。どちらにせよ傍らにいるのがあなたなら、それでいい」


 さり気なく指に指をからめられ、青蘭は顔を赤らめる。こうなってくるともう条件反射に近い。そんな様子を見られるのが恥ずかしくて顔をそむけるのだが、彼にはそれすら楽しいらしい。


「やはり打ち所が悪かったのではありませんか?」

「何故だ?」

「嵜州に来てから人を惑わすようなことばかり仰るから」

「学習したと解していただきたいな。どうやらあなたの誤解は吾の言葉足らずが原因のようだった故な、言葉を惜しむまいとこれでも努力しておるのだが」

「……」


 髪についた塵をとるふりをして、そっと指の背で青蘭の頬を撫でる。

 青蘭は顔を上げていられなくなる。耳まで赤くなった姿に、碧柊は目を細める。


「東葉からの巡礼も少なくないそうだな」


 滑り出した小舟には、四人の巡礼と水夫かこの姿があった。舳先から生じる漣が、岸壁までゆっくりと押し寄せる。


「王家の争いなど関係ないのでしょうね」

「そういうことだな――だが、今はそれも難しくなっておる」

「……統一がなった暁には、あの峠もきちんと整備せねばなりませんわね。滑落の心配のないように」

「あれを広げるのは難しそうだが、東葉の技術があれば可能であろう」


 どちらからともなく強く手を握りあったところへ、袁楊えんようが近付いてきた。


「お邪魔するようで申し訳ないのですが、船の支度が整いました」


 言葉とは裏腹に、悪びれるようすもなく袁楊は微笑んでいる。

 さっと手をはなして顔を赤らめた青蘭とは異なり、碧柊は涼しい顔で頷き、来た時と同じように恭しく華奢な手をとった。




 青蘭は蒼い顔で寝台に沈み込んでいた。

 昼前には対岸である聖地の港につき、そのまま宿に直行したがその間の記憶は曖昧だ。

 苦い薬を云われるままに飲み干し、うとうととまどろんだ末に目を覚ました時にはすでに日は暮れようとしていた。

 ゆっくりと起き上がると、寝台の足元で椅子にかけていた侍女が立ち上がる。


「ご気分はいかがですか? 」


 差し出された杯には冷たい泉水が満たされていた。一口含めば、甘酸っぱい香りが広がる。清涼感にすっと体が軽くなるようだった。


「もう大丈夫よ」


 微笑むと、侍女も安堵したように頷いて空になった杯を受け取る。


「お目覚めになられたらお目にかかりたいと」

「誰かしら――あの岑家の使いの方?」

「はい」

「お通して」


 青蘭の言葉を受け、侍女は下がった。

 部屋は広かったが細長い作りになっていた。開け放たれた窓の向こうにはすぐそこに岩壁が迫り、その谷底に川が流れているのか水音が聞こえる。 

 微風が吹きこんでくる。少し湿った涼しい風に、転寝の気だるさが浄化されていく。傾いだ日差しは斜めに差し込み、矩形の影をおとす。岩壁に切り取られた茜に染まる高い空を見上げていると、何故か懐かしい心地がした。

 ぎしっと寝台がきしみ、青蘭はようやくそちらを向いた。

 いつの間にか部屋に入ってきていた碧柊が、寝台に腰かけていた。掛け布団の上にのせていた手に手が重ねられる。


「落ち着いたようだな、顔色も随分ましだ」

「はい」

「今日はまったくの凪だったらしい。あのくらいで酔うとはと水夫も珍しがっておったぞ」

「……ごめんなさい」


 しおと肩を落とす青蘭に、碧柊は慌てて手を握る。


「責めたわけではない、偶々あなたも体調が悪かったのだろう。ここまで強行軍で急いだ故、疲れてもおっただろう。誰しも弱点はある。多少人より船酔いしやすいだけということだ」

「――窘めないのですね」

「……なんのことだ?」

「このくらいのことを一々気にするなと云われると思いました」

「云うてもあなたは気にしよう」

「……いいえ、だって仕方ありませんもの」


 にこりと笑ってみせると、碧柊はわずかに目を瞠り、ついで溜息をついた。


「謀ったな」


 さぁどうでしょうというように曖昧に微笑んで首をかしげてみせると、碧柊はむっとした顔をしたが、じきに苦笑してゆっくりと抱き寄せる。青蘭もそれに素直に身を任せる。そんな風に自然に振舞える自分が、何故か嬉しかった。

 碧柊はやわらかく抱きしめたまま、柔らかな髪を何度も撫でていた。やがて腕をほどき、かわりにそっと口づける。


「日が暮れる前に外へ出ぬか?」

「外へ?」

「ああ、こうしていると不埒な真似をせずにすみそうにない」


 熱っぽく囁き、もう一度唇を重ねる。空いた方の手が怪しい動きを見せる。青蘭は口づけを受けながら枕を手繰り寄せ、それを碧柊に叩きつけた。  




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