第6章 西葉 14
ようやく想いを告げることができたと思う間もなく荒々しく唇を奪われた青蘭は、最初わけがわからず身をかたくしていた。そんな彼のやり方ははじめてではなかったけれど、その後に続く口づけは彼女を狼狽させた。
熱病に侵されたような激しさにさらされ身をすくめていると、やがて嵐は去り風が凪ぐように優しい仕草へと変わっていった。ほっとして力を抜けば、かわりに深く貪るように探られる。驚いてまた体を強張らせれば、柔らかく指先で髪を梳く。唇を重ねたまま、まるで宥めるように幾度も髪を梳かれていると、次第に緊張がとけていく。
薄く眼を開けると、まるでそれを察知していたような、深く優しい眼差しが青蘭をとらえる。瞬きした拍子に涙が一筋こぼれるのを、細めた眼が追う。彼はいったん唇を離すと、かわりにその痕をそっとなぞった。耳まで続くそれを舌先ですくい取り、そのまま頬を寄せる。
「青蘭」
彼は青蘭の耳朶を甘噛みしながら、何度も彼女の名を囁く。青蘭は耳にかかるその甘い響きとかすかな息に身をよじり、深く息をもらす。
飽きもせずに彼はその仕草を繰り返しつつ、華奢な体を閉じ込めるように片腕でさらに強く引きよせた。空いた方の手は簡単に結った髪をほどき、滑らかな感触を楽しむように何度も指を梳き入れる。
陶然と何度か息を吐いたところで、また見つめられる。彼は青蘭の前髪を掻きあげると額に額を寄せ、幾度もかすめるような口づけを繰り返した。
「――碧柊殿」
切なく名を呼ぶと、束の間唇を重ねられる。
「もっと? 」
焦らすような囁きに、今更ながら熱が頬を走る。答えられずに視線を落とせば、白い頬を武骨な指先がなぞる。
「好きだと云ったのは、吾のことか? 」
この状況で他に誰がいるというのか。けれど青蘭は云い返すこともできず、こくりと小さく頷く。それがせいいっぱいだった。
「聞こえぬ」
指が青蘭の柔らかな唇をなぞる。からかわれているのは確かだが、何故か抗えない。
体が熱いのは、抱き寄せられる彼の熱か、それとも己のものか。おずおずと目を上げれば、また眼差しにとらわれる。熱を帯びた瞳に映る青蘭は、彼とおなじ顔をしていた。
「……好き、です」
躊躇いをとかされ、けれど恥じらいながら呟けば、ご褒美だとでも云うように口づけられる。おずおずと彼の首に腕を回すと、また僅かばかり離される。
優しげに細められた目は青蘭だけを見つめている。
「吾もだ」
「……」
わずかに目を瞠った青蘭に、彼は眉をひそめる。
「本当に気付いていなかったのか? 」
「……それがどういうことなのか――よく分からなかったので」
「ということは、もう分かったのだな? 」
確認を求められて、青蘭は曖昧に微笑む。
そうは云われても彼のそれはたいてい衝動的で、その原因は青蘭への怒りや苛立ちのようにしか感じられなかった。負の感情に敏感な青蘭には、それを良いように解釈できなかった。
そもそも女ばかりの隔離された環境で育った青蘭にとって、結婚は義務に過ぎず、男女の間にまつわる感情的なあれこれも無縁なことだった。
「……私は奥の宮では疎まれて育ちました。そんな中で私に好意を向けてくれたのは雪蘭だけだったので――その……多分、あまりよく分からないのです、そういうことが」
俯いて自嘲気味に呟くと、そっと頤に指をかけられ上向かせられる。
「そうでもなかろう。少なくともあなたが雪蘭殿をいかに好いているかは明白だったぞ、吾が嫉妬するほどにな」
悪戯っぽく囁かれ、青蘭は顔を赤らめる。
「嫉妬って……雪蘭は女性ですよ」
「こういう場合は関係ないらしい。あなたにとって己より他の人間の方が重きを占めているかと思うと苛立つ」
そう云いながらも表情はひどく穏やかだった。その落差に青蘭は戸惑う。
「けれど、それは」
「分かっておる、それが当然だということもな。それでも感情を制することは難しい。だから苛立つ――これまで吾はそういうことは滅多となかったのだがな、どうもあなたが絡むと調子が狂う」
「私が……」
青蘭は自分が悪いのかと表情を曇らせる。それを見越していたように、碧柊はからりと笑う。
「色恋沙汰がからむと人の変わることがあるというが、吾もそうらしい。吾もただの人の子だということだ」
「……」
戸惑い顔の頬に口づける。
「あなたのせいかといえば、そうかもしれぬな――それだけ吾を惚れさせたのだからな」
「――っ」
顔をのぞきこめば、青蘭は耳まで赤くしてその視線を避けようとする。
「責任は取ってもらわねばな」
「せ、責任って……」
「盾は吾だ。よいな」
静かだが、強い言葉で念を押す。青蘭はこくりと小さく頷いた。
それを確かめると碧柊は軽く唇を重ね、細い体を抱きすくめる。
青蘭は素直に身を委ね、ようやく気がかりだった体の具合を確かめることができた。
意識が戻ったのは二日前。なかなか意識が戻らなかったのは、頭部への負傷だけが原因ではなく積み重なった疲労のせいもあったかもしれないという医者の判断だった。
同じ日に雪蘭からの報せが届いた。それを青蘭に知らせるために嵜州へ急使が発つと聞き、強引に便乗してきたのだと碧柊は笑った。
「そんな無理をなさって」
腕のなかで青蘭が抗議すると、碧柊はその頭に口づける。
「岑家で待っていても埒が明かなかった故な」
「――嵜州公のことをお聞きになったからではないのですか? 」
小さな囁きに、髪を撫でていた手が止まる。胸に伏せていた顔を上げそっと窺うと、苦笑する彼と目が合う。
「……今さら抗弁する気はない」
青蘭は小さく微笑んだが、ふと表情を曇らせた。
「――明柊殿も考えることは同じでしたね」
「吾が考えつく程度のことなら尚更だな」
溜息まじりの呟きは自嘲気味に響く。
「だが、こちらには打てる手がある」
青蘭は広い胸に身を委ねるようにして顔を伏せる。その体を抱き寄せる力がわずかに増した。
「東葉国内の足並みを揃えさせるわけにはいきませんね」
「ああ――最も有効な手段はあなたの即位と同時に、二人の結託の事実を公表し、吾の無事と無実を明らかにすることだ。東葉でも蒼杞殿の禍をうけ当主を失った貴族は多い。それでもなお明柊につくものは限られてくるだろう」
それは同時に雪蘭の正体が明らかになることでもある。
「――雪蘭はどう動くと? 」
青蘭は未だ書簡を目にしていない。伝え聞いたに過ぎない。
「そこまではまだだ――だが、もうそれなりに算段は付けておられような」
「……彼女は昔から用意周到でしたから」
「誰よりもあなたが感傷に溺れてはならぬぞ」
厳しい言葉に、青蘭は彼の背にまわした腕に力を込め、小さく頷く。
「覚悟しています」
「だが、吾の前でだけは涙をこらえる必要もない」
青蘭は優しく髪を撫でられてこみあげてくるものを必死でこらえる。
「――いいえ、泣きません。雪蘭は一人であちらにいるのに、私が泣くわけにはいきません」
震える体をいっそう強く抱きしめ、ようやく碧柊は彼女を解放した。
「嵜州公はあなたに宝印を捧げたそうだな」
「ええ」
「では、明日、吾のことも彼に話そう。見たところ、下手に隠しだてはせぬ方がよさそうだ」
「私も嵜州公は利用するより信頼を得た方がいいと思います」
落ち着いた様子でそう話す姿に、碧柊は安堵の笑みを浮かべた。
「その様子なら今宵は一人でも大丈夫だな? 」
「――どういうおつもりです? 」
「一人で眠れそうにないなら、あとでこっそり忍んできてやっても良いぞ」
「御遠慮します――盾の選定が終わるまでは不埒な真似は許しませんから」
「不埒、な――あなたの云うそれは、どの程度のことかな? 」
にやりと口の端を歪める彼を、青蘭は真っ赤になって睨みつけた。
翌朝は夜明け前から細雨が降り続いていた。
強い風は吹かない。朝からのむっと籠るような暑さに、青蘭は略装の薄物を羽織っていた。
昨日と同じ四阿には、面子が二つ増えている。
青蘭が倒れてしまったため中断した密談を続けるため、四人は集っていた。
里桂は四人目の“彼”を黙って注視していた。
“彼”の出で立ちは昨日とは大きく異なっている。略装とはいえその格式は袁楊より上、嵜州公である里桂とほぼ同格だった。
明らかにその理由を知らないのは里桂だけのようだったが、それでも袁楊に一瞥も寄こさなかった。
「同席なさるお方のご紹介からお願いできましょうな」
里桂の視線はまっすぐに“彼”に向けられる。昨日、青蘭が失神した時に見せたあたりを払うような態度から、ただの急使でないことは明白だった。
「彼は葉 碧柊殿です」
青蘭自らが口を開いた。
その事実とその名に、里桂の面が不可解に歪む。“葉”を名乗れるのは王族に限られる。そして西葉にその名を持つ王族はいないはずだった。
「東葉東宮と名乗った方が良かろう」
碧柊自ら口をはさんだ。
里桂が目を瞠る。その言葉に疑う余地のないことを知りながらも、信じられずにいるのも仕方のないことだった。東葉王殺害の罪のもと、彼が追われていることは西葉にも伝わっている。ただ、それは直接里桂の関わることでもないはずだった。
「私を翠華より助け出し、西葉まで送り届けてくださったのは他ならぬ碧柊殿なのです」
「実態は従兄の苓公明柊にまんまとはめられ、徒に近衛を失い国を追われることとなった間抜けだがな」
自嘲気味に嗤う碧柊に、里桂は毒気を抜かれたように己を取り戻す。
「――東葉王位を取り戻すため、我等に助力を乞われるおつもりですかな? 」
明らかに軽んじるような口ぶりに、青蘭は苦笑してしまう。最初に相手の神経を逆なでしてみせるのが彼のやり方らしい。
ちらりと碧柊を見れば、彼は涼しい顔で表情一つ変えない。
「いや、吾は東葉王位を望むつもりはない。吾がここにこうして在るのは“葉”の女王にお仕えするため。今は手勢の一人もないが、ゆくゆくは東葉勢をまとめる際にいささかなりともお力になれよう」
「――なるほど、昨日、姫が仰ったことは単なる例えではなかったのですな。女王の盾はすでに定めておられるわけだ」
「里桂殿、盾の候補として名乗りを上げるのはそれぞれの権利、そしてそれを選ぶのは私の権利だと申したはずです。私は最もふさわしいと思う盾を選ぶだけのこと。それは私の意志であり、女神の意志でもあります」
薄く微笑して泰然と話す青蘭には、風格すらあった。それに碧柊はわずかに目を細める。
里桂は口の端を歪め、値踏みするように東葉の東宮を眺める。
「両国の統一が可能だなどと本気で考えておられるのか? 」
「考えるのではない。成すか成さぬか、それだけだ。そしてそれを成すのが陛下の意志ならば、臣下はそのために力を尽くすだけのこと。貴公こそもうすでに宝印を捧げたというのに、まだそのようなところで迷うておられるのか? 」
碧柊の言葉に棘はないが、逆に里桂の姿勢を質す響きはあった。
里桂は面白がるように口の端を歪めた。
「いくら陛下のご希望でも、空の星を射落とすような真似はできまい。現実的な助言をするのも臣下の務めでは? 」
「可能かどうかをまず諮る必要がある。吾はそれが可能だと考えたからこそ、姫のお力になると決めたのだ」
「“葉”の統一のためにお仕えすると? 」
「そうだ。翼波は年々力をつけてきておる。もとは一つであった国の内側でもめている場合ではない。いつまでもこんなことを続けておれば、近いうちに必ず翼波がこの西の沃野をも我が物とするだろう。それを防ぐのが王族の務めだ。東葉の王位などその妨げにしかならぬ」
淡々と紡がれる言葉に力みはない。だが、徒に流れていくわけではない。
里桂はじっと年下の青年を見つめる。碧柊は薄く笑んでそれを受け止める。
「――そのためには、二つの王家が一つになることが最善の選択でしょうな」
「それは姫が選択なさることです」
碧柊の視線を受けて、青蘭は小さく頷く。そのやりとりに里桂ははじめて笑みを浮かべた。
「盾の候補には我が息子に名乗りを上げさせるつもりです。しかしあれはまだ十二になったばかり。姫をお支えするには頼りない――いささか不利ですな」
王統家筆頭である嵜州公家が盾として名乗りを上げることは、青蘭支持の意志表明に他ならない。実際に盾として選ぶかどうかということとは別に、重要なことでもある。
十二歳の少年では力不足は否めない。碧柊に譲るという配慮に他ならない。
碧柊は黙って頭を垂れた。