第6章 西葉 13
目を覚ますと、薄暗い寝台の天蓋が目に入った。寝台の傍らの小卓に置かれた燭台の灯りがゆらゆらと揺れている。
青蘭がゆっくり身を起こすと、部屋の隅に控えていたあの少女が急いで寄ってきた。
「ご気分はいかがですか? 」
「えっ」
青蘭は戸惑う。彼女が自分を案じてくれていることはわかるが、その理由に見当がつかなかった。
「私は何故ここに……確か、四阿にいて――」
「お倒れになられたそうです――どうかこのままで。祥香さまをお呼びしてきます」
青蘭が首肯するのを確認して、少女は退出し、入替るように祥香が入ってくる。祥香は青蘭の顔をそっとうかがい、血色が戻っていることにほっとしたようだった。
「今、温かいお飲み物をお持ち致しますので」
「祥香殿、私はいったい? 」
「四阿でお倒れになられたのです、岑家からの急使とお会いになられた際に」
「――ああ……」
ようやく思い出す。
使いが来て、報せがもたらされた。
祥香はその内容を知らされてはいないようだが、倒れてしまうほど衝撃的な内容だったのかと案じてくれているらしい。遠慮がちに青蘭の顔をうかがう眼差しには労りがにじんでいる。
雪蘭のことでも動揺してしまったが、覚悟をしていた事態でもある。それをもたらしたのが彼でなければ卒倒したりしなかっただろう。
「もう大丈夫です」
「――なればよろしいのですが」
それでも気がかりは晴れないらしく、祥香の表情を曇らせたままだった。
そこへあの少女が盆を手にして戻ってきた。湯気とともにたつ香気が、すばやく室内にも広がる。
「良い香りですね」
「香草茶です。お体が温まります」
差し出された茶器を受け取り、青蘭はそっと口に含んだ。焼けるほど熱くはないが、温くもない。絶妙な熱さにそっと二人に微笑んでみせた。
ゆっくりと飲み干す頃には、これまで冷え切っていたことを改めて思い出すように温もりが巡り、気分もほぐれる。
表情が和らいだのを見計らって、祥香が囁いた。
「急使の方がずっとお待ちです。お会いになられますか? 」
一介の使いが位のある女性に直接会うなど異例なことだが、事態が事態だけになにか特別な目的があるのだろう。二人はそう解しているのか、怪訝な顔はみせない。
「――ええ、そうね。居間へ通して……私も着替えなくては」
さすがに夜着で会うわけにはいかない。もしそんなことをすれば、身の危険を覚えずには済まないだろう。
室内着に着替え髪を整えてようやく支度が整う頃には、とっくに“彼”は居間へ案内されていた。
長椅子におちついた“彼”は優雅に茶器を手にしている。出で立ちは昼に会った時のままで、未だにその正体を知るのは青蘭と袁楊だけらしい。
居間の片隅にはあの少女が控えているが、その客人が気になるらしく、ちらちらと目をやらずにはいられないようだった。彼はそれに気付いているのかどうなのか、一顧だにしなかった。
青蘭が寝室から出てくると、彼は音もなく立ち上がって恭しく立礼してみせた。青蘭はどう返せばいいか分からず、とりあえず人払いをと祥香と少女を下がらせた。
「――あの……」
二人きりにはなったものの、どういうわけか青蘭は体を動かせない。困り果てて立ち尽くしていると、“彼”がくすりと笑った。
「掛けぬか? 」
「ええ」
戸惑いを引きずったまま、彼の向かいに腰かける。
失神したあと半日近く眠っていたらしいので、実質的には寝起きに近い。それでも見苦しくない程度には身繕いをしたはずだ。それでも何故か髪や服が気になって、まともに顔を上げられない。
こつりと硬質な音がして、青蘭はつられて顔を上げた。“彼”が青蘭の分の茶器を卓上に置いた音だった。
「……ありがとうございます」
とりあえず礼を述べ、茶器に手を伸ばす。器に指が触れる寸前に、すかさず彼に手首を押さえられてしまった。
「なにを」
意図が読めずに視線を上げれば、予想以上に間近で険しい眼差しとぶつかった。反射的に体を引こうとしたが、彼は許してくれない。
「存外あなたは冷たいのだな」
怖くなるほど冷やかな光を帯びた目だった。その言葉も皮肉っているわけではない。無言で問い質すような剣呑な顔つきだった。
「――え? 」
手首を握る力は驚くほど強い。身の危険を感じて手を振りほどこうとしたが、痛みが増しただけだった。
「もっと嬉しそうな顔をみせてくれるかと思っていたが、吾の思い違いだったらしい」
「そんなわけ――」
「もう嵜州公に心を移したか? 」
「なっ……」
あまりの言葉に青蘭は絶句した。言下に否定しようとしたが、言葉が出てこない。まさか初っ端からそんな疑いを向けられるとは思ってもいなかった。
そんな彼女の様子をどう受け取ったのか、彼の目つきはますます物騒なものとなる。
「そのようなことは許さぬ」
彼の誤解がずいぶんと飛躍していることだけは確からしい。おそらく嵜州公が盾として名乗りを上げること希望していると聞いてやってきたのだろう。
四阿やこの居間での様子、その上青蘭の動きを封じる力強さから推すに、結果的に案じたような後遺症などはなさそうだが、それでも無理を押してきてくれたに違いない。
それはそれで嬉しいことだが、感情的に激した彼がしばしば暴走することを知る青蘭にとってこの状況は非常にまずい。その被害を受けるのは自分しかいない。
縁談が持ち上がった時の、彼の評判は温厚な人柄だというものだった。部下に接する様子からしても、感情的になるようなことは滅多とないのだろう。なのに、青蘭が絡むとそれも怪しくなる。もしかすると彼自身、そんな自分に戸惑っているのかもしれない。
苛立ちに端正な顔が歪む。青蘭が身動きできずにいると、もう一方の手が肩に置かれる。不自然な姿勢で抱き寄せられる形になり、青蘭は片手を卓についた。
「何故なにも云わぬ」
云ったところで届くだろうか。どう見ても彼は静かに怒り狂っている。人の言葉に耳を貸さない人間ではないが、この状況ではどんな言葉も弁解としてしか受け取ってくれないような気もする。
目を逸らせば負けてしまいそうだが、そうしないでいようとすると嫌でも睨みあうようになってしまう。こんな状態で彼を宥めようとしても無理に近い。
「――!?」
青蘭は自分から唇を重ねていた。彼の顔は目の前にあったし、逃げられないなら他に手はない。幸い自分からこんなことをするのは二度目だったので、最初の時ほど躊躇うこともなかった。
手首を握る力が少しずつ緩み、かわりに肩に置かれた腕が背に回される。そっと顔を離そうとすると、逆に唇を押しつけられ、さらに深く重ねられた。
抱きすくめるように両腕が回されると、その拍子にかちゃりと茶器が音をたてた。手に濡れたものがかかる。
「――っ」
見れば、茶器がひっくり返り中身が青蘭の指先にかかっていた。
「火傷したか? 」
自分で確かめるより先に、彼にその手を取られる。もともと温めに淹れられていた茶はすっかり冷めていた。
「大丈夫――もう冷めています」
「――そのようだな」
かまわずに濡れた指先を舌で拭われて、青蘭は耳まで真っ赤になる。手を引きたくてもしっかり手首を握りこまれている上、青蘭自身の力もさほど入れられなかった。
彼は最後の一滴までしっかり舐めとると、二人の間を阻む卓子を一瞥した。
「邪魔だな」
「……そうですね――え? 」
彼は青蘭の両脇に腕を回すとひょいと抱きあげる。そのまま軽々と卓子を越させると、自分の膝の上に座らせた。
体ごと抱きすくめられそうになり、青蘭は慌てて押しやろうとする。そもそも座っているのが彼の膝の上だから、それにも限界があった。
「ちょっと……」
「なにか不都合なことでもあるのか? 」
からかうような彼の目に、さきほどまでの怒りや苛立ちの影はない。それでも怖いほどだった彼の様子の記憶の新しい青蘭は、その問いに抗うのをやめた。
「別になにも」
「嵜州公のことも? 」
わずかに抱き寄せる力が増す。青蘭は慌てて首を振った。
「当然でしょう。それにあの人には正室がおられます」
「離婚すればすむ」
「里桂殿はご婦人に、その、惚れこんでおられます――私ものろけられましたもの」
「恋愛と結婚は別だ――ましてや、今回のことはことがだけに、な」
恋愛と結婚は別。そんなことは青蘭も分かっている。分かっているが、それを彼の口からは聞きたくなかった。胸が痛み、つい眼を逸らせば、強引に唇を奪われる。それに抗おうとすると、乱暴に顎を掴まれた。
「それに、里桂殿、だと? たった一日で随分と親しくなられたようだな」
「下種の勘ぐりはやめて」
「下種だと? 」
「そうよ」
結局また睨みあうこととなってしまう。今度は至近距離なだけに剣呑な空気を誤魔化すこともできず、青蘭は怒りと情けなさで悲しくなってきた。
「だいたい、何故そんなことをあなたが云うのですか。私はあなたを盾に選ぶと決めたことを撤回したりしません。嵜州公だけでなく他に名乗りを上げる人がいたとしてもです。あなたにはそれで十分でしょう」
「なにが十分なのだ? 」
まっすぐに見つめてくる彼の眼は真剣だった。怒りもあるが、それ以上になにかを探し求めるような気色がある。ただそれがなにか見当もつかない。
「なにがって……」
口ごもる。答えようとすれば、自分の想いまで明かしてしまいかねない。それだけは避けたい青蘭は、唇を噛んで俯く。
彼の膝の上に座らされているので、どうしても青蘭の顔の方が上にくる。その分、下から顔をのぞきこまれるのを避けきれない。案の定、彼はそっと青蘭の顔を両手で包み込むようにして、唇を啄ばんだ。おとなしく受け入れれば、さらに何度も繰り返される。その仕草はひどく優しくて、甘いような勘違いさえしてしまいそうだった。
ようやく唇がはなされてこわごわと目を開くと、間近にのぞきこむ瞳があった。他人の眸に自分の姿がうつりこんでいるところなど見たことなかった青蘭は、それだけでうろたえる。赤くなってしおれたような顔は、ひどく惨めだった。
「蓮霞殿から聞いた」
「――なにを」
「あなたが吾の枕元で泣いていたと」
それが何のことか分からない青蘭ではない。ましてや彼の声はいやに甘やかに響く。思わず身を固くすると、頬に唇を寄せられる。
「吾の意識が戻りそうになかったからと、まさかその心が変わったりはしなかっただろうかとつい疑った。すまなかった」
唇を寄せたまま話すので、くすぐったくて大きな体を押しやる。彼はおとなしく身を引くかわりに、青蘭の顔を真正面からのぞきこむ。
「別に詫びられるようなことでは……」
「下種の勘ぐりだと詰ったではないか」
「だって、そうでしょう」
事情がどうであれ、あれはそうとしか評しようがない。それを彼も承知しているらしく、ばつの悪そうに苦笑する。
「だから詫びたのだ――許してくれぬのか? 」
「別に許すも許さないも」
そんな権限は自分にはない。それを承知で許しを乞うのは悪趣味ではないか。そんな非難を感じてか、彼はなにやら困り果てたような顔をする。
「――やはりそうなのだな……呆れるべきか嘆くべきか微妙なところだな」
「なにが……」
「吾にあれだけされておいて、まだ片思いなどと思っていたなど、な」
「べ、別に私が一人でどう考えようと私の自由でしょう」
呆れ果てたような言葉に、青蘭はやけになる。想いを寄せたからと云って、今のところは彼の不利益にはなっていないはずだった。そうでない以上、非難される覚えはない。
「それはそうだが、思い違いは困る。それはあなただけの問題ではすまぬからな」
「思い違いって……」
「まだ分からぬと? 」
青蘭を見つめる瞳には呆れつつも面白がるような光があった。
「やれやれ、まだ足りぬということか」
溜息まじりに囁きつつ、吐息が頬に触れ、耳にかかる。温かく柔らかな感触が耳朶を探る。その感触に青蘭は身をすくめて顔を背けようとしたがかなわなかった。
「た、足りないのは言葉でしょう――あなたがなにを云おうとなさっているのか分かりませんもの」
思いきって云うと、拘束がゆるんだ。ほっとする顔を彼がのぞきこむ。
「まったく? 」
「――私をからかっていることくらいは分かります」
「……そういえば、そういうことには聡かったな」
「悪うございましたね」
「いや、それはそれでいい。からかいがいがある」
「――」
「怒るな、今はそういう話ではない」
納得いかなげに、それでも青蘭はしぶしぶ頷いた。その頬にまた口づけされる。
「何故、吾がこのように振舞うと思う? 」
「私が婚約者だからでしょう」
事態がこうなってもその婚約がまだ有効なのかどうか、青蘭にも分からない。ただ、盾に彼を選ぶと約束した以上、婚約しているのと変わりはない。
「それはそうだが」
質問しておいて、彼の方が困惑している。どうやら導き出したい答えとは遠いらしい。だが、遠まわしに問われて困っているのは青蘭も同じだ。
「それと、あなたが男性だから? その……」
顔を赤らめて口ごもるが、その理由はただ単に恥じらいからだ。花嫁教育の一環として閨房のことも含まれる。男性特有の欲望というものについての知識もある。ただ、それを口にするのはさすがに憚られる。
濁された言葉尻から、彼にも彼女が何を言おうとしているの見当がついたらしい。
眉を顰めると、軽くため息をついた。
「いい、云ってくれるな」
「そうですね――でも、そういうことも、婚約している私なら許されるからでは? 」
「それではまるで吾があなたを捌け口にしているようではないか――頼むから人聞きの悪いことは申してくれるな……それよりも、本気でそのように思っているのか?」
根本的な問題に気づいたように、彼は深刻な顔をした。
「違うのですか?」
「違う」
言下に強い口調で否定されて、青蘭は怯んだ。どうやら今の答えはいたく彼の気に障ったらしい。鼻白んだ青蘭の顔を見て、彼は深々と溜息をつく。それがまた彼女の歪な緊張につながることに彼は気づいていない。
「では逆に問うが、あなたは吾以外の人間にこのようなことをされたら如何する? 」
「それは……」
「平気か? 」
「まさか」
「嫌か? 」
唇が触れあいそうなほど間近で眸をのぞきこまれ、青蘭は小さく頷くしかなかった。息苦しいような得体の知れない感情が渦巻く。
「でも、あなたがあのまま目覚めなかったら、他の人を選ぶしかありませんでした」
「――それは仕方ないことだ。あなたは王女故、結婚する義務がある」
静かな言葉に青蘭はまた首を振った。
「……せめて、あなたとの約束は果たしたいと思ったからです。この事態を治めて、平穏を……」
はじめて涙が頬を伝った。それをすくいとってくれるのも、熱い唇だった
青蘭はそっと身をよじり、彼の体から離れようとする。その仕草に気づいた彼はそれを封じようとしたが、その前に逆に封じられてしまった。少しだけ自由を取り戻すと、その細い腕を彼の首にまわす。逞しい肩に顔を埋めるとわずかに汗の匂いがした。絶対に離れないというように渾身の力でしがみつく。
ようやく彼がここにいるという実感を噛みしめる。
「良かった、ご無事で――すき……好きです、だから……」
嗚咽がこみあげてきて、後は言葉にならなかった。肩から引きはがされそうになって、必死にしがみつく。煩わしいと思われるかもしれないという恐れはどこかへ行ってしまっていた。ともかく今だけは離れたくなかった。それでも彼は引きはがそうとする。
「やっ――」
力で勝てるはずはなかった。あっさりと引き離され、絶望的な想いで呆然としたそこへ、荒々しく唇が重ねられた。