第6章 西葉 12
四阿に先にやってきたのは袁楊だった。
まずは青蘭に立礼し、次いで里桂にも会釈する。里桂もそれに目礼で応じ、隣の椅子をすすめた。
青蘭が袁楊と顔を合わすのは、昨夜ここに到着してから初めてのことだった。見知った顔に安堵する半面、気が緩んだ分だけ不安が戻ってきてしまう。
「いったい何事だろうな」
青蘭の心情をまるで代弁するように、里桂が袁楊に話を振る。その口ぶりはこれまでとは違い、いくらかくだけており、二人の間柄を示すようでもあった。
「まずは聞いてみないことにはわかりませんね」
袁楊は鷹揚に嵜州公に微笑みかける。
年齢は袁楊のほうがいくつか上だが、貴族としての格は里桂のほうがはるかに高い。袁楊の口ぶりは里桂ほどくだけてはいないが、親交が窺われる程度には和やかだった。
「――そんなことは承知している。継ぎ穂が分からんか」
「おや、珍しいこともあるものですね。気をつかって下さったのですか」
人の悪い笑みを浮かべる袁楊に、里桂は苦虫を噛み潰したような渋面をつくる。
「誰がそなたに」
「分かっていますよ。青蘭さまに、でしょう。あなたはそう見えても女性には気配りを忘れませんからね」
「袁楊殿」
「褒めてさしあげているのですよ。妹も義兄であるあなたのお気遣いには感謝のしようがないとよく申しておりますしね」
軍配がどちらに上がるかは明白だった。
口を開いてもロクなことにならないと思ったのか、里桂は険しい顔で口を噤んでしまう。
それを気にもとめず、袁楊がいかに妹である祥香が義兄に感謝しているかを話し続けるものだから、青蘭はたまりかねて笑い出してしまった。
「――本当に人が悪いというのは、こういう人間のことを言うのですよ、姫」
「その年になっても褒め言葉を素直に受け取れないとは、相変わらず可愛らしいところがおありですね」
「そなたのそれは褒めているとは言わぬ」
「ではなんだというのですか? 」
「――」
里桂は反論しようと口を開いたらしいが、結局言葉が出てこずまた黙りこんでしまう。
袁楊は涼しい顔で睨み殺すような視線を受け流し、青蘭に微笑みかける。青蘭もそれに応じながら、いつまでも笑いつづけるのも悪いと思うのだが、なかなか治めることができなかった。
「袁楊殿の云う通りでした」
「それはよろしゅうございました」
「――どういうことだ、袁楊殿」
「里桂殿は信用できる方だと申し上げただけです」
にこりと返されて、里桂はついに口も開けなくなった。
青蘭は笑いを押し殺しつつ、気を逸らそうと透き廊の方を見た。
ちょうど祥香が誰かを案内して渡ってくるところだった。彼女の後に続くのが急使なのだろう。
急使と聞いて碧柊のことを真っ先に思い出してしまったが、他にも気になることは山ほどある。蓮霞と袁柳に彼のことは託してきたのだから、今はこれからのことに意識を集中しなければいけない。
「お越しのようだ」
気を紛らわせるような里桂の言葉に袁楊もそちらを見、動かなくなった。次第に訝しそうに眉がひそめられていく。
日差しはすでに雲に隠され、水面を埋める青々とした葉が風にさざめき、花が揺れる。池のほとりを囲む木々もうなりはじめていた。
祥香の足取りは青蘭を案内してきたと変わらなかった。早くもなく遅くもない。それなのに焦れるような想いが何故こみあげてくるのか、その理由が混乱しているためか、青蘭には見いだせなかった。
ようやく祥香と使者が四阿にたどりついた。祥香は浅く頭を垂れて退き、後には使者だけが残される。
岑家からの正式な使者に相応しく、身綺麗な服装の若者だった。よく日に焼けた精悍な顔に、思慮深げな面差し。
彼はまずは青蘭に恭しく立礼し、次いで嵜州公と袁楊に会釈した。
袁楊も目礼を返しながら、ちらりと青蘭を一瞥する。青蘭は呆然自失の態でいる。口を半ば開けたままぽかんと使者の顔に見入っている。
一方の里桂はそんな王女の姿に気付いていないようだった。もたらされた報せに気がはやっているらしい。
使者は持参した書簡を里桂に渡した。王女である青蘭にじかに手渡すのは礼儀にかなわず、袁楊より里桂の方が身分は高い。妥当な選択だった。
里桂はそれを受け取ると、青蘭に断りを入れるように会釈してみせ、いそいそと封を開ける。その際にも青蘭の異変には気付かないようだった。
使者は尋ねられない限り自分から名乗りはしない。故に袁楊も黙っているが、王女の様子を見ればわざわざ確認するまでもないらしい。
むしろ彼が気にかかるのは彼女のその動揺ぶりだった。それに、もたらされた報せそのものも無視できない。まずはそれが優先されるべきである。
「里桂殿、なんと? 」
「ああ――」
書簡を読み終えた里桂は難しい顔でそれを袁楊に手渡す。受け取った袁楊は青蘭に目礼で断りを入れる。王女はそれどころではないようだったが。
文面は長いものではなかった。
二、三度繰り返し文面を追い、袁楊は顔を上げた。青蘭は相変わらず言葉を失っている。里桂は難しい顔で考えこみ、彼は口元に笑みを浮かべて彼女を見つめていた。
ああ、やはりそういうことか。
袁楊は事態とは全く離れたところでそう納得し、書簡を王女に渡すことを諦めた。
「青蘭さま――青蘭さま」
二度、強い口調で呼びかけるとようやく彼女は我にかえった。
自分を呼ぶ袁楊を驚いたように見つめる。現状への認識はまだ戻っていないらしい。
「岑家からの報せです――気を鎮めてお聞きください」
「……ええ」
青蘭はそれでもまだ彼のほうへ視線を走らせる。袁楊はそれを窘めるように眼を眇めた。気付いた青蘭はびくりと肩を震わせる。
「きかせてください」
「では――東葉の苓公は“青蘭姫”を女王として推戴し、自身はその夫となろうとしていることまでは姫もご存知でしたね。彼は東葉の国内情勢を収拾し次第、“葉”の統一をはかると――西葉へ再び軍を向ける意向を明らかにしたようです」
青蘭は再び自失したように眼を瞠った。瞬きを数度繰り返し、ようやく腑に落ちたように表情を取り戻す。
「雪蘭を担ぎあげて、ということですね」
明柊がやろうとしていることは鏡映しのように自分たちと同じだった。今さら驚くことではない。だが、青蘭の心が受け止めきれなかった。
ふわりとその体が傾ぐ。
「青蘭さま」
「姫」
慌てる里桂と袁楊をよそに、控えていた使者である彼がその体を抱きとめる。
椅子から崩れ落ちそうになった体の肩を支え、ごく自然に抱き寄せる。ぐったりと寄り掛かる体からは力が抜けてしまっていた。
「気を失われたようです」
そう短く云って、両腕で抱き上げる。その一つ一つの仕草は壊れものを扱うように丁寧だが、尊い体に触れているという畏れはまったく感じられない。
二人ともにそんな彼の行動を咎めることができなかった。
あまりにも自然で、いかにも当然の自分の権利だとでもいうように彼は振舞っていた。
「どちらへお運びすればよろしいか?」
冷やかな一瞥を受けて、里桂はようやく我に返ったように椅子を立った。
「こちらへ」
と先に立ち、案内する。そのあとに彼は堂々とついていく。
四阿に残りそんな後ろ姿を見送った袁楊は、名乗るまでもなくその存在感だけで人を従わせる力を持つ彼という人をはじめて知ったのだった。