第6章 西葉 11
祥香はまず上座の青蘭に正式な立礼で頭を垂れ、それからあらためて義兄に向き直った。
昨日に引き続き、彼女が饗応の責任者として透き廊に控えていたのは青蘭も知っていた。正式な賓客の持て成しは州公の正室が担うものだが、青蘭の来訪はあくまで非公式なものだから公弟の妻が務めるのは筋としても通っている。
「岑家当主袁柳さまよりの急使がつい先ほど到着されました」
里桂は眉を動かし、ちらりと青蘭を一瞥した。
岑州からの急使と知ったとたん、彼女の顔がさっと青ざめたのを見逃さなかった。
先ほどまでの余裕はどこへやら、顔を強張らせ切迫した眼差しで祥香を見つめている。明らかに心当たりがあり、同時にそれをひどく恐れていたような様子だった。
「それは私にか、それとも?」
思わせぶりな里桂の視線の移動に、祥香もつられて青蘭を見る。二人から注目されても、青蘭には取り繕えるだけの余裕はなかった。
祥香は王女の狼狽ぶりにその傍に近寄り、細い肩にそっと触れた。
「姫さま、如何なさいました? 」
「――大丈夫です……それより、急使の目的は? 」
祥香のおかげでやや落ち着きを取り戻し、先を促す。その声は上擦りかすかにかすれていた。
「お二人と袁楊殿にお伝えしたいと」
「ではここへ袁楊殿にも来ていただきなさい――姫、使者との接見に私も居合わせてもよろしいですか?」
「――ええ」
使者の目的が三人に知らせをもたらすことだったと分かった時点で、青蘭はいくらか自失から回復していた。
「ここへ袁楊殿と使者を通してください」
「承りました」
祥香はまだ青蘭を案じる気振りを残しながらも、首肯して下がった。
その後ろ姿を見送る青蘭の顔には、まだ不安と恐れが拭いきれずに残っている。里桂はそれをなにも云わずに興味深げに眺めていた。
水面を埋める蓮の葉や花弁に宿る露玉をきらめかせていた陽射しは少しずつ薄れつつあった。
じわじわと蝕むような暑気を払ってくれていた微風が、触れていく頬を意識するほどに強さを増す。
「荒れてきそうですね」
青蘭はほつれた一筋の髪を指に絡める。その指先を見つめながら、里桂がふと呟いた。
短い言葉が不吉に聞こえたのか、青蘭はぴくりと肩を震わせて顔を上げる。
「――」
唇は動いたが、言葉にはならなかった。白皙の面はまだ青ざめている。
里桂は、青蘭がいかにして東葉王都・翠華から落ち延びたのか、その詳しい経緯を知らない。廃太子紅桂の遺児である雪蘭が岑家の養女となり、奥の宮に上がって青蘭に仕えていたことも掴んでいなかった。
だが、従姉妹同士でもある二人が入れ替わり、脱出に成功した青蘭姫が岑家の庇護のもと岑州まで逃れてきたと聞いても意外には思わなかった。
紅桂が死去して既に十年ほどになるが、彼がどのような置き土産を残していったとしても驚くことはない。
凡愚で怠惰だった亡き先王は、紅桂の同母弟だった。紅桂はそんな弟とは比べものにならない――はっきり言ってしまえば、傀儡に相応しい暗愚な王ばかり輩出してきた西葉王家のなかでは出色ともいえる逸材だったはずだ。
そんな彼が突然王城で死んだと聞いた時、その真相を疑わなかったものが一人でもいるだろうか。その死が突然なものであった分、落胆とひそかな希望を生んだ。
あの彼が、なにも残さずに死んだはずがない。根拠のない、妄想にも似たそんなくだらない想いを里桂は捨てきれずにいた。
今回の蒼杞の暴走は里桂の予想外のことだった。事態を知ったのち、王都を脱出するのがせいいっぱいだった。東葉に嫁ぐ青蘭姫を言祝ぎ見送るために、六華には主だった貴族の当主達が集められていた。
その後の貴族たちの動揺を見越したように、蒼杞は事前からすでに手を回していたらしい。蒼杞の動きがはっきりした後も、ほとんどの貴族たちは事態の推移を見守るために王都に残っていたが、その実態は兵の監視下に置かれ動けなかったというのが近い。
敗戦後、東葉の指示の下に貴族が各自で持っていた軍もほぼ解体されていた。それは王家とて同じだったはずなのに、蒼杞には両国の王都を抑えられるだけの兵力が残されていた。武装を解かれていた貴族には、蒼杞の軍に対抗する力はもはや残されていなかった。
蒼杞率いる西葉軍の、東葉における粛清は狂気じみていた。さらにその有様が“公式”に発表されるに至って、里桂は六華から脱出することに決めた。同時に東葉王子明柊が巻き返しに転じたらしいという報せも掴んでいた。蒼杞が帰国すれば、どのような事態が起こるか想像もつかない。首をすくめて嵐をやり過ごすには、六華は台風の目に近すぎる。
ほぼ同じころに、岑家の先代当主達も息子たちを密かに地元へ帰していたらしい。その後の粛清を思えば、英断だったに違いない。
明柊に敗れた蒼杞はあっさり帰国した。もう少しねばって戦力を消耗して欲しかった里桂としては残念極まりないが、常識的に見れば賢い判断ともいえる。
蒼杞は今のところ狂ってはいない。狂気じみた振舞いではあるが、残虐なりに正常だった。だからこそ、たちが悪い。しかも、決して暗愚なわけでもない。諸侯を出し抜くだけの狡猾さも併せ持っている。
両国を揺るがしている騒乱が、まさか蒼杞と明柊の結託によるものだとは思いもしなかった。岑家から真相を知らされた里桂は、これまで用心深いつもりでいた己がまだまだ甘かったことを痛感していた。
帰国した蒼杞はまだ王都にとどまっている。その前に国元にかえった貴族はそう多くはない。謀反として討伐に出る動きに出ないのは、東葉の出方を見ているためなのか、それとも他に考えのあってのことなのか。
どちらにしても貴族方の兵力は脆弱で、立て直すにはさらに時間を要する。派手に動けば蒼杞に狙い撃ちにされる危険もある。脱出に成功し、なおかつ協同歩調をとれる勢力はさほど多くない。それでも何もせずに事態の経緯を見守ってばかりいるわけにもいかない。
そこへもたらされたのが、青蘭姫が実は無事に西葉に帰国していたという報せだ。それに紅桂の遺児が噛んでいたと聞けば、意外でもなんでもなかった。
王女と雪蘭はよく似ているのだとも聞いた。
表情を殺し黙していれば彫像のような容貌は、神殿に納められた神像が動き出したと云ってもおかしくないほどに整っている。女王然とした風格を感じさせるかと思えば、微笑むと年の頃よりもあどけなく見えるほど邪気がない。
彼女と入れ替わり、東葉に残っているというもう一人の娘はどのような表情をみせるのか。
「暗雲を吹き散らす風を起こすのは、姫、あなたなのですよ」
にやりと口の端を歪めてみせれば、青蘭はかすかに目を瞠り、それから風の吹いている方を向いて微笑んだ。
「風を起こすには鞴が要ります」
「姫のためならばいくらでも踏ませていただきますよ」
「――ええ、お願いするわ」
調子づく里桂に、青蘭は目を細める。
愛妻家の標榜に偽りはないつもりの里桂だが、その笑顔には悪いが気がしないのは男としてのさがなのかどうなのか。
どちらにせよ、彼女が持つ武器は二つ。その血筋と美貌。それを活かさない手はない。