第6章 西葉 10
池の中ほどに設けられた四阿には、畔の緑陰を過ぎ水面を渡った涼風が吹き抜ける。
四阿の中央には大理石の円卓が置かれ、下座にはすでに一人の男の姿がある。視界を遮るものない四阿と畔を繋ぐのは一本の透き廊のみ。
他者の耳を憚る必要はなく、警護もしやすい。なおかつ池を隠すように茂る木々が外からの視線を遮る。
青蘭は城と四阿をつなぐ細い透き廊を案内されながら、これほど適した場所はないだろうと全体の様子を眺めていた。
四阿が近付くにつれ、椅子にかけた男が欠伸をしていることに気づく。
先触れを知らせる銅鑼はすでに鳴らされている。
さてさてと、青蘭は口の端を持ち上げた。
先導役は昨日の少女だった。
優雅に衣の裾を引く足の運びは堂に入っている。行儀見習いに上がってからそこそこ経っているのだろう。
少女は透き廊を渡りきると、恭しく王女の到着を告げる。
嵜州公は立ち上がって青蘭を迎え、上座の席につくよう促し少女を下がらせた。
ゆったりと向き合うと、里桂は不躾な視線を誤魔化そうともせずに抜け抜けと云い放った。
「これはこれは――麗しいご尊顔を拝せるとは思ってもおりませんでした」
青蘭は被きを取り払っていた。髢を用いて髪を高雅に結いあげ、宝玉を一切用いない代わりに細工の見事な歩揺を挿す。微かに身じろぎするだけで、歩揺が音もなく揺れる。
「王女が面をさらしてはならないという例はありません」
黙していれば彫像の如き白いおもてに笑みが浮かぶと、清婉にして典雅な王女の顔になる。
里桂はわずかに眉を上げただけで薄く笑い、もっともらしく頷いてみせる。
「いかにも仰せの通りにございます」
そしてまた青蘭の顔をしげしげと無遠慮に眺め、口の端を歪めた。
「さすがあの端麗な東宮の妹君であらせられる。葉で最も貴き姫は国一番の美姫でもあられるらしい」
いかにも感嘆したような口ぶりの裏にこめられたものに、青蘭は顔色一つ変えない。
「この身に流れる血の外にも価値があるならそれは重畳。私の価値はその二点のみですか」
「――今のところは。しかし私がその三つ目となりましょう」
女王の盾として選ばれることを既に前提としたような言葉にも、青蘭は眉一つ動かさなかった。
「盾の候補に名乗りを上げるのはあなたの権利です。ですが、選ぶのは私の権利です。今はその心意気のみ買っておきましょう」
「ならば私にも名乗りを上げない権利もあります。となれば、王統家八門の支持を集めることは難しくなりましょうな」
あからさまな言葉に、青蘭は動じない。笑みを深め、なにかを堪えるように唇を引き結ぶ。
「東宮があのような仕儀であり、もう一人の王女がその妻である限り、西葉にはもう私しか選択肢はありません。あなたが私を支持せずとも、他の者までそうとは限りません――それとも、東葉の“青蘭姫”をお招きしますか?」
東葉に下るという選択肢もないわけではない。だが、徒に矜持だけは高い西葉貴族がそれを容易く受け入れられるはずもない。
「それも一手でしょう。あいにく、私は八公であることに価値は感じていない。それは王家の血筋においても同じこと。そもそもあなたは本当に“青蘭姫”でいらっしゃるのですかな?」
里桂は肘掛に凭れかかるようにして、斜めから青蘭を見据えて唇を歪める。
青蘭は困りましたねと微笑する。
「私は青蘭以外の何者でもありません」
「その証拠は?」
「私自身です。では訊ねますが、あなたには自身以外に嵜葉里桂だという証がありますか?」
「ありませんね。だが、他の者たちは私を嵜葉里桂だと見なしている」
「私とてそれと同じことです――けれどもう一つ、私だけに身の証をたてる手立てがあります」
里桂は「ほう」と小さく嗤う。
「お聞かせいただけましょうか?」
「私ならば、たとえ東葉王子を夫に迎えて姫を成せます」
「――東葉にはすでに何人も直系の姫が落ち延びておられるが、姫が生まれた例はないはずです」
「私は東葉に落ち延びるのではありません。たとえ夫が男子しか生まれないはずの東葉王子であっても、姫を生むことができると云っているのです。それは私が“葉”の王女であり、女王となる者だからです。御祖たる女神が真実その裔の娘として私を認めてくださるなら、それ以上の証はないでしょう」
不思議なほどの確信満ちた言葉だった。根拠はない。だが、碧柊との間に生まれる最初の子供は必ず娘のはずだ。不安も迷いもなかった。
沈黙が落ちる。二人の間を風が吹き抜け、池の面を埋める蓮の葉と花を揺らす。心地よい風に、自然と目を細める。
そんなゆったりとした青蘭の姿に、いつしか里桂の顔から笑みが消えていた。
「――東葉の王子を盾となされば、彼の国をも治めることができましょうな」
「私は“葉”の女王となるのです」
本当に自分の口から紡がれている言葉なのだろうか。他人事のようにそんなことを思いながらも、躊躇いも戸惑いもない。不思議な心地だった。
里桂はゆっくりと姿勢を正す間も青蘭から目を放せなかった。
里桂を映す瞳はまっすぐで淀みなく、それでいて彼自身を透かして遥か遠くを見つめているようでもあった。
「それが“あなた”の“意志”ですか?」
「意志ではありません。あるべき姿です」
そう云って微笑んだのは、確かに青蘭の意志だった。
里桂はしばらく黙したまま王女を見つめていたが、やがてゆっくりと立ち上がり、その傍らに膝をついた。
「嵜葉里桂、宝印をあなたに捧げましょう――しかし、お忘れなきよう。それはあなたが蒼杞よりはマシだろうというだけのことです。あなたにそれ以外の価値はない――今はまだ」
「心得ました」
青蘭は静かに頷き、差し出されたそれを受け取る。
表には神をあらわす金の印字に銀の書がしたためられ、その裏には里桂の名が記されている。
彼女はしばらくそれを見つめたのち、丁寧に畳んで懐中した。それを見届けた里桂は席に戻る。
「――昨夜、祥香に粗相はありませんでしたか?」
「いいえ。気持ちの良い方です。心ゆくまで話すことができました――あなたのことも」
穏やかな王女の顔には、あどけないような笑みが浮かんでいた。
「あれは腹蔵なく話すことのできる者です。弟は良い嫁を選んだものです」
「里桂殿の夫人はどのような方なのですか?」
「――いい女です、私にとってあれ以上の女はいない」」
にやりと口の端を歪めた里桂に、青蘭は笑いだす。
「本当にあなたは食えない人ですね」
「それだけが取り柄です」
里桂はわざとらしいほど恭しく頭を垂れてみせる。
青蘭は小さく笑いつづけながら、ようやく椅子の背にほっと身を預けることができた。
そこへ、祥香が姿をみせた。彼女がもたらしたのは、岑州からの急使の到着の報せだった。