第6章 西葉 9
里桂は歓迎の宴を開くこともできない非礼を詫びた。
実際はそんなことをして蒼杞方の目を引くわけにはいかない。形だけの謝罪だと承知している青蘭は、小さく頷いてみせる。通常、王女自ら口を開くことはしない。
袁楊は立ち上がると青蘭に断りを入れるように浅く頭を下げ、控えるように彼女の斜め前に立った。
青蘭の代わりに袁楊が嵜葉家の人々に立つように促し、里桂とやりとりをする。それを青蘭は紗の被衣ごしに見つめていた。
青蘭を迎えたのは男性ばかりだった。女性が表立たないのは王統家でも同じらしい。部屋の後方の片隅に若い娘が数人控えている。年の頃からして、行儀見習いにこの城に上がっている中下級貴族の娘たちだろう。もっと身分の低い者がここに居合わせることはできない。
奥の宮から出たことのなかった青蘭は、嵜州公の顔を知らなかった。武人よりは文人らしい佇まいだが、気骨があると袁楊が評していたように柔弱なわけでもなさそうだった。
やがて短い応酬が終わると、里桂はあらためて青蘭に向かって恭しく立礼し、今夜はゆっくり休むよう勧めた。青蘭はうなずく他に術はない。
里桂に呼ばれて一人の少女が進みでてきた。
「この者が案内致します。なんなりとお申し付けください」
少女は深々と頭を下げ、先に立って歩き出す。
ちらりと袁楊をみれば、察していたように目があった。被衣越しのため袁楊の方から青蘭の表情は分からないはずだが、まるで承知しているように微笑んで頷いてみせる。
青蘭は小さく息をついて、案内人のあとについていくことにした。
案内されたのは泉水のある庭に面した一角だった。一目で貴賓室と知れる。岑家の邸とは内装も家具も格が違う。
最初に通された部屋には背の低い長椅子や卓子の他に、食事や書きものに適した小ぶりの円卓と椅子、装飾性の高い家具がいくつも並べられている。もっぱら居間としてくつろぐためのものらしい。その奥にさらに扉があり、案内役の少女がそれを開いて「こちらが寝室になります」と云い添える。
彼女も黒地に白をあしらった簡素な喪の装いをしていた。年のころは青蘭よりいくつか下だろう。そろそろ縁談が舞い込みはじめているのかもしれない。
「お食事もじきにお持ちいたします」
青蘭が誰なのか云いきかされているのだろう。仕草や言葉の端々に緊張のいろが滲む。だが根は気丈なのか、臆した様子は見せなかった。
「ええ、分かりました」
青蘭はほっと小さく息をつき、被衣を外しかけた。
それに気づいた少女が慌てて近寄ってくる。
「気が回らず申し訳ありません」
「いいのよ、これくらいは自分で――」
気安く自分でできると云いかけて、青蘭はやめた。かえって彼女を困らせてしまいかねないことに気づく。
「ではお願い」
脚の短い長椅子に腰かけて少女に委ねる。
「被衣だけでよろしいですか?」
「そうね、髪を下ろすのは食後にしましょう。それからまだ旅装をといていなかったわ」
「申し訳――」
「いいのよ、私が先に被きをと云ったのだから」
謝罪を封じて青蘭はゆったりと笑いながら立ち上がる。少女の方がいくらか背が低い。やわらかく微笑んでみせると、彼女は眼をきらめかせてかいがいしく世話を焼きはじめた。
ようやく部屋着に着替えてくつろいだところを見計らったように、食事が届けられた。
給仕にあたるのは全員女性だった。案内役を務めた少女と同じ上等な生地の揃いのお仕着せの少女たちも混じっている。そして最後に現れた二十代半ば位の女性だけが部屋に残った。その女性は自ら手を動かすことはなかったが、采配は無難なものだった。
少女たちよりもさらに上質な喪服に身を包んだ女性がただの給仕役とは思えず、青蘭は食事に手をつける前に彼女の言葉を待った。
「――お口にあいませんでしたでしょうか? それとも食欲が……」
「どちらでもありません」
「では」
「あなたの名前を――袁楊殿の妹御ではありませんか?」
彼女は青蘭の問いかけにわずかに目を見張り、慌てて頭を垂れた。
「はい、祥香と申します。大変な失礼をいたしました」
「給仕の者が名乗るしきたりはありません。顔をあげてください。なんとはなしに袁楊殿と似ておられるような気がしたものだから」
青蘭の言葉に祥香はおずおずと顔を上げる。青蘭が小首を傾げるようにして微笑んでみせると、安堵の色が浮かぶ。
降嫁か出家以外のことで奥の宮から出ることのない王女が、王族に準じる王統家とはいえ滞在した例などないのだから、もてなす方も戸惑っているのだろう。その上、表向きにはできないためあくまでひっそりと慎ましやかに、けれど礼を失することのないようにしなければならない。
「はい、袁楊は私の兄にございます」
「だから嵜州公はあなたを寄こして下さったわけですね」
「はい」
青蘭はいくらかくつろいだ様子をみせて、冷めないうちにと勧められる前に食事に取りかかった。
食後のお茶の相手をしてくれないかと、青蘭は祥香に頼んだ。祥香は了承すると、青蘭の案内を務めた娘に茶の支度を命じた。
青蘭に促されるまま長椅子の青蘭の隣に腰かけ、やや落ち着かない様子で運ばれてきた茶器に茶を注ぎ、青蘭の前に置いた。それから自分の分をいれている手際を見て、青蘭は嵜州公弟の人なりを理解できそうな気がした。
ひどく緊張しているのか、危なっかしいというほどではないが、心配で目が離せないような心地にさせられる。
同じようなことを綾罧から自分も云われたことを思い出し、おかしさと同時にやりきれなさがこみあげてくる。茶器を手にして一口含み、感傷を払った。
「――美味しい」
世辞ではなかった。驚いたように目を瞠った王女に、祥香は嬉しそうに微笑む。
「嵜州は良質の茶葉が自慢なのです」
「奥の宮で飲んでいたのはこの嵜州のものだったのね」
「最高のものが献上されている筈ですわ」
「けれど、これほど美味しいものは初めてよ――あなたは茶を入れるのが上手なのですね」
「……夫もそれを最初に褒めてくださいました」
はにかんで笑うその顔は、青蘭とあまりと年が変わらないようにも見えた。
「褒めて下さったのはそれだけではないのでしょう?」
「――え?」
「たってと望まれての縁だったと聞いています」
にこりと笑ってみせれば、祥香はみるみるうちに耳まで赤くなる。
「だ、誰がそのようなことを……」
「袁楊殿です」
「――兄上ったら……あ、失礼したしました、取り乱してしまい……」
赤面したままうろたえる様子を、青蘭は楽しそうに見つめる、
「いいえ、気にしないで――兄妹とはいえ仲がよろしいのですね」
「はい――岑家とはいえ分家筋ですので、それほど堅苦しい家風ではありませんでした」
「王統家に嫁ぐには大変ではありませんでしたか?」
王統家のなかでも高い家格を誇る嵜葉家。夫は公弟に過ぎないとはいえ、生家のようにはいかないだろう。
祥香は恥ずかしそうに「はい」と小さく呟きながら頷いた。
「けれど、夫が力を貸してくださいました。王統家の嫁としてはまだまだですが、なんとかやってこられました」
「――それは素敵ね」
どうしても碧柊のことが思い出され、青蘭は視線を落とす。力となってくれる人が傍にいてくれるだけでどれほど心強いことか。
一人では成しえないこととは分かっているからこそ、こうして嵜州まで足を運びもしている。それでも、この人という特別な支えの有無の大きさをしみじみ痛感する。
足が萎えそうになるときにはそっと肩に手を置き、持ちこたえた時には子供にするように頭を撫でてくれる人。
二人で逃げ延びた日々は思い返せば長いものではなかったが、雪蘭以外の人間にこれほど心を預けられるようになるとは思いもしなかった。
「――失礼ですが、殿下がお尋ねになりたいことは嵜州公のことではありませんか?」
「え?」
「義兄から私なりに包み隠さずお答えするように申しつかっております」
青蘭はひそかに動揺しながらも、できるだけ笑んだまま小首をかしげてみせた。
「……嵜州公がそのように?」
「はい。きっと殿下は私を呼びとめになられて、義兄のことをお聞きになられるだろうからよくお答えするようにと」
「――嵜州公という方は食えないお方のようですね」
苦笑する青蘭に、祥香は「はい」と微笑んだ。