第6章 西葉 7
地平と空の間が紅蓮の炎に溶かされていく。
薄くなびく雲は薔薇色に染まり、紅の天を東へ視線を流せば、次第に紺青へと色調はかわっていく。
邸の背後に聳える長大な山脈は、一足早く夜を背にしているだろう。
青蘭は寝台の傍に椅子を寄せ、そこに横わたる人の手を握ったまま空の転変を見つめていた。
時折ぽりぽつりと話しかけるが、返ってくる言葉はない。伏せられた瞼の陰で瞳が動いている気配もない。
意識が戻らぬまま三日が過ぎた。たったそれだけしか経っていないのに、その頬は早くもこけてきたような気がする。
思い返してみれば、翠華の王城落城から続く逃避行のあいだに、彼はずいぶん面変わりした。
彼が携帯していた食料も、本当は一人分程度しかなかったのだろう。青蘭にはそうと悟らせなかったが、今となってみれば彼が自分と同じだけ食事を摂っていたようには思えない。
罠を仕掛けて小動物を獲ったことは何度かあったが、移動を優先していたため十分ではなかったはずだ。
不寝番もほとんど彼が務めてくれた。いくら頑張ってみても青蘭は途中で眠ってしまい、気がつけばとっくに夜は明けていて、すでに彼が朝食を準備してくれていた。その上、日中の馬での移動では騎乗に不慣れな青蘭を常に気遣ってくれた。
いくら翼波との戦いで散々な目に遭ったことがあるとは云え、青蘭のようなお荷物を抱えていては比較にならないだろう。
疲労が蓄積していないはずがない。頭部の打撲傷をのぞけば酷い怪我は負っていないという。なかなか目覚めないのは、たまりにたまった疲れのせいかもしれない。
そんな根拠のないことを思い、青蘭は身を乗り出してその頬にそっと口づける。反応はない。少し落胆しながらも、その頬を指先でなぞる。
そうしていると何故か、碧柊がやたらと自分に接触してきた気持ちがわかるような気がする。触れていると安心できる。そして、同時にそれだけではない。ずっと触れていたいという思いの理由を、彼女が明確に悟るのはもう少し先のようだった。
やがて西の天が淡い藍に包まれるころ、夕餉を運んできてくれたのは蓮霞だった。青蘭の存在が公にされるまでは、この邸に逗留していることはできるだけ秘されている。
礼を述べて食器をのせた盆を受け取った青蘭に、蓮霞は気懸りを隠しきれない眼差しを向ける。
「――逃避行の間に殿下と御心を通わせることがおできになったのですね」
「……え? 」
「暇さえあればずっと枕元に詰めていらっしゃるのですから」
そっと繊細な指先が青蘭の髪を撫でる。その感触に素直に身をゆだねながら、青蘭は小さく首を振った。
「そうだったらいいのですが、おそらくはそうではありません――碧柊殿は私が王女だから望んでくださっただけ……私も彼も、“葉”の統一と平和を願っています。私たちは志を同じくする同志のような関係にすぎません――少なくとも、彼にとっては」
青蘭は切なげに瞼を伏せる。
蓮霞は目を細め、そっと姪の体を抱き寄せる。
「想いをお伝えにならなかったのですか? 」
「――私の思い違いですもの。そんなことで煩わせたくはありません。そっと想う分には障りはないのですし、碧柊殿は義理堅い方です。私以外の女性に手をつけられることもないでしょう。夫としてずっと傍にいてくださると誓ってくださいました。私にはそれ以上のことを望むことはできません」
「けれど――」
「ずるいことかもしれませんが、私は彼がずっと傍にいて下さればそれで十分なのです」
「それではお辛いでしょう? 」
「想いの通じないことが確かになってしまうよりはましです」
青蘭は視線を落とす。片方の手は碧柊の手を握ったままだった。いくら指をからめても、かえされるものはない。それはこれからの二人の関係を象徴するように思われて、それでも手を離すことはできなかった。
蓮霞は姪の髪に指をからめる。癖のない髪はするりとほどける。子供の髪のような柔らかな手触りは、久しく会っていない娘を思い出させる。
「それでも、お伝えした方が良いように想われます――私には」
「……私は臆病なのです」
「――青蘭さま、傷つくことを恐れていては前へは進ませぬわ」
蓮霞の声はやや低く、たしなめるように響く。青蘭は小さく首を振る。
「問うまでもないことなのです――碧柊殿は私が“青蘭姫”だからだと明言されました。それをもう一度聞きたいとは思えません」
諦めを含んだ暗い眼差しに、蓮霞はそれでも引き下がらなかった。
「それでもです――人の心は変わるものなのですから」
「――諦めるなと仰るのですか? 」
「通じぬ想いはありません」
「……けれど」
「言葉にしなければ伝わりませんよ」
優しく頭を撫でる仕草は、どうしても雪蘭を思い起こさせる。雪蘭はいつも青蘭に勇気を与えてくれた。
「――そう、でしょうか? 」
「ええ、そうです」
「……叔母上は? 」
「想いは隠しきれるものではありませんのよ」
妙に実感のこもった言葉に、青蘭は力なく頷くほかなかった。
翌朝、青蘭は用意された喪の正装に身を包んでいた。
一切の装飾を省くかわりに、極細の絹糸を用いた最上の絹が惜しげもなく使われている。あくまで慎ましやかに抑えながらも、流れるような線と美しい襞で見事な輪郭を描く。重ねた衣の微妙な質感の変化がさらにそれを際立たせる。
それでほっそりとした体を包んでも、若くしなやかな肢体の魅力を隠すことはできない。被きで覆い隠された顔はいかばかりに美しいだろうか。そんな邪推を抱かずに済む者の方が少ないだろう。
青蘭は顔をあらわにすべきかどうか迷っていた。今はしきたりに従っておいた方が良いでしょうという、袁柳の言葉に従うことにした。
「即位なされば、殿下の思うままです」
そう云って、彼は微笑んでみせた。青蘭も思わず笑い返してしまった。
必要であれば自尊心などいくらでも捨てられる。すべて詭弁にすぎない。これだけは曲げないと決めたことのためであれば、どんなことも苦痛ではない。
青蘭はなるべく織りが細かく、向こうから見えにくいが、見透かすには支障のない被衣を選んだ。
云いなりになりそうな従順な王女を演じる。それは夫となる王配にすべてを委ねてきた王女の伝統的な姿であり、警戒心を刺激する恐れはない。それに騙されるのであれば、騙される方が悪い。
四頭立ての軒車にのり、ゆっくりと過ぎゆく風景を目にしながら、青蘭は横たわったままの碧柊へ想いを馳せていた。
もしこのまま彼の意識が戻ることがなかったとしても、自分のすべきことはもう一つしかない。それを貫き成し遂げることこそが、想いを成就させることになるのかもしれない。
無意識に唇をかみしめる。そんな自分にはっと気付き、慌ててやめる。何度もやめるように云われた癖だ。
もっと自分に自信を持つようにも云われた。それは愚かな過信ではなく、自分の行いに責任を持てということだったのかもしれない。
これまでは雪蘭が指標だった。その結果が思うようなものでなかったからと云って、彼女に責任転嫁をした覚えはないが、自分で責任を負うこともしてこなかったような気がする。
そんな風に思いはじめると、これまでの自分を不甲斐なさに頬が熱くなる。
碧柊が目覚めるかどうかに関わりになく、彼に対しても雪蘭に対しても恥ずかしくない人間になりたいという想いに偽りはなかった。