第6章 西葉 5
日が暮れ、星が瞬きはじめても、彼が目を覚ます気配はない
医師とその助手がそっとその体を抱き起こし、少量ずつ水分と汁物を与えた。
誤嚥すれば肺炎を起こす恐れもあるが、なにもしなければ衰え消耗するばかりだ。それでも意識が戻らぬまま寝たきりの状態が長引けば、次第に体は弱っていくだろうという話だった。
再び二人きりになると、青蘭は彼の腕を握った。
意識がなくとも、声は届くという。諦めることなく声をかけ続ければ、意識を取り戻すこともできるかもしれないと医師は最後に付け加えた。
青蘭は密議のことを耳元で皮肉をこめて囁いた。それが尽きると日頃の彼の行いへの苦情を訴え、次いで口ごもりながら感謝ものべた。つとめて明るくあろうと務めたが、最後には泣きながら王家に伝わる古い唄を口ずさんでいた。
碧柊の傍を離れようとしない彼女を思いやってか、夕食はそこへ運ばれた。栄養価の高く消化も良い粥の口当たりは優しく、食欲は無いながらも空にすることができた。
夜も更けてくると蓮霞が迎えにやってきた。
「碧柊殿下のお傍には夜通し誰かがついております。青蘭殿下はお休みください――お目覚めになられたとき、あなたさまがお元気でいらっしゃらなくては」
そっと諭されて、青蘭は素直に応じた。
湯浴みをすませ夜着に着替えると、青蘭の求めに従って侍女たちは下がった。
寝台に横になる気になれず、窓の傍に置かれた椅子に腰かける。
目が覚めたのは昼近かった。丸一日近く眠っていたという。それでも疲労は癒されず、さらに密議で気力を消耗してしまった。
心身ともに疲弊して正直にいえばへとへとなのだが、頭の芯が凍りついたように醒めきっている。まるで泥濘の海のなかで、果てもなく足掻きつづけているようだった。
その時、仄かな灯りが射しこんだ。侍女たちに下がる際に灯りを消すよう云いつけたので、室内は暗闇に沈んでいた。そこへ密色の温かな光が投げかけられ、青蘭は顔を上げた。
静かに扉が閉められ、誰かが入ってくる。忍び足ではあるが、気配を殺そうとしているわけではない。眠る人を慮っての遠慮を感じ、青蘭は誰何したりはしなかった。
「――青蘭さま、お目覚めでしたか」
「……蓮霞さま」
窓辺に少女の姿を見つけ、彼女は少し驚いたようだが、じきに微笑んだ。夜着に薄手のものを羽織った肩には、艶を帯びた髪が流れている。優しい笑みに青蘭は慈母という言葉を思い起こす。
蓮霞は蜜蝋の燭台と、もう一方の手には盆を持っていた。椅子の傍らの小さな円卓に盆をのせ、運んできた玻璃の杯を手にする。暗い色合いの液体がとろりと揺れ、ぷんと甘い香がたつ。
「寝つけそうにありませんか? 」
「――ええ」
かすかに揺れ続ける灯火を見つめる顔は、ひどく憔悴している。蓮霞は案じるように目を細め、そっとその杯を手渡した。
「果実酒です。気持ちが解れれば、次第にお眠りになれましょう」
「……ありがとうございます」
小さく呟いて、青蘭はそれを飲みほした。まろやかな口当たりと喉越しだった。少しずつ胃のあたりから温まってくるような心地に、椅子の背に身を預けて力を抜くことができるようになる。それではじめて自分がずっと緊張していたことに気づいた。
蓮霞は空になった杯を受け取っても、すぐに下がろうとはしなかった。
「寝台にうつりましょう」
そう促され、青蘭は手を取られるまま素直に従う。
蓮霞は無言のまま青蘭の隣に腰かけ、背後から腕をまわして青蘭を抱き寄せた。少女の頭を肩にもたれされ、そっと優しく髪を撫でる。もう一方の手で、氷のように冷たい華奢な手に手を重ねる。
温もりに包まれた青蘭は、半ば呆然と身を任せる。まるで揺籃であやされているようだった。
蓮霞の体は温かく、そして柔らかい。遠慮がちに頬を寄せれば、先ほどの果実酒とは違う甘い香がする。それは春の日溜りの花壇でまどろんでいるような心地だった。
「蓮霞さま、申し訳ありません」
「――如何なさいました? 」
「雪蘭を……私は雪蘭を危険な目に遭わせてしまっています――その上、この先、私のせいで命まで危うくなるかもしれません」
蓮霞の様子に変化はない。ただ、優しく髪を撫で続ける。
青蘭は小さく礼を述べて離れようとしたが、思いがけない力強さに阻まれた。蓮霞は両腕で青蘭をかたく抱き寄せ、やわらかく手に吸いつくような髪に頬を寄せる。
「――蓮霞、さま? 」
「……あなたのせいではありません――すべては私のせいなのです。私が紅桂さまの手を取ったから……紅桂さまが王位についていれば、今のような状況は避けられたはずでした」
紅桂は幼いうちから聡明で、人々の尊崇を集めていた。王位につくのに不足はなく、それどころか生れながら王者の素質に恵まれていた。だが、王女ではなく異腹の妹を妻に選んだため、それはついにかなわなかった。
代わりに王位を継いだ青蘭の父は、その兄とは対照的な愚王となった。
青蘭を抱きしめる蓮霞の体は細かく震えていた。
自分を選んだためにすべてを失った夫。その罪を購うように娘は奥の宮に送り込まれ、今や敵の手の内にある。
もし、蓮霞が異母兄の手を拒んでいれば、国が傾くこともなかったかもしれない。
少しずつ頬にかかる髪が湿っていく。その感触に、青蘭ははっとする。
誰一人として傷ついていない人はいない。
青蘭は己の力の無さを嘆き呪ってきた。碧柊は事態を許してしまった自分の甘さを責めていた。父の死を見越しながらもその命に逆らえなかった岑家の若き当主達、国の行方を案じながらも愛する人の手をはなせなかったこの美しい叔母は、娘を失おうとしている。
だが、今さらどうしようもない。もし時間を巻き戻せたとしても、違う選択ができるだろうか。もう取り返しようはない。あるのは苦く重い現実だけだった。
誰しも抱えている哀しみに変わりはない。
青蘭はこみあげる熱いものを堪えようとは思わなかった。
頬を伝うものは辛く温かい。血潮も涙も同じ体から湧きいずる。
「――蓮霞さま、誰のせいでもないのですわ、きっと……」
冬の夜、体だけでなく心まで凍えてしまった青蘭を温めてくれた雪蘭。その温もりをくれたのはこの女性でもあった。