第6章 西葉 1
さきほどまでのあれだけの雷雨の後にもかかわらず、土埃がもうもうと立ちこめる。
青蘭はそれに目を細めながら、未だ止まらない馬車の荷台から飛び降りた。着地に失敗する。頭をかばうようにして転がり、なんとか足をすりむくだけですんだものの、泥濘のせいで全身泥だらけになっていた。
「碧柊殿!!」
必死に名前を連呼しながら駆け寄ろうとしたが、その手前で下馬した誰かの腕に阻まれてしまう。
「放してっ、碧柊殿が!」
青蘭は身を捩って抗おうとしたが、しっかりと背後から抱きすくめられて動きを封じられてしまう。
「まだ、駄目です――あなたまで御身を危険に曝すおつもりですか、青蘭殿下」
冷静になるようにといくら云い聞かせられても、まるで耳に届かない。
ともかく放してと叫びながら必死に逆らい、捕えられた腕に爪を立てて抗った身を捩って自分を捕えた男を睨みつける。このような時なのに、まるで無風の湖面のように深く静かな眼差しが青蘭を見つめていた。
「――放しなさい。この身に触れることを許した覚えはありません」
冷やかに命じると、ようやく束縛を解かれる。
青蘭をとらえていた男は一歩下がると恭しく頭を垂れ、「申し訳ありません」と短く詫びた。
その間に他の者たちが馬から降り、落石現場の方へ近寄っていく。それ以上石が落ちてくる気配はなかった。
青蘭は頭をさげたままの男には一顧だに与えず、現場へ駆けつける。
すでに土埃はおさまり、大小様々な石が狭い峠道をすっかり塞いでいた。人為的な落石だった。
青蘭は絶望的な心地で見つめる。重なり合った岩の間から馬の脚がのぞいていた。
苓州の州兵たちはこれ以上落石の恐れのないことを確認すると、救助にとりかかる。
青蘭は動き回る兵たちの間に、必死になって一つの姿だけを求める。
「まずはこっちだ!」
膝まづいていた兵が叫び、人を集める。青蘭もそれにつられるように近寄った。
人を押し潰すほどではないが、十分凶器となり得る大きさの石が転がり、その間に倒れ伏した人間が一人。ぐったりと投げ出された四肢や体を大小様々な砂礫が覆っている。それを払いのけ、兵がそっと慎重に抱き起こす。仰向けにされたその額には血が流れ、黒髪がべったりと嫌な感じに濡れていた。
「――碧柊殿……」
呟く声はかすれていた。嫌な具合に喉か乾く。からからに干上がった口内は、ねばりつくように開きにくい。
取り巻いている兵たちを押しのけようとする全身泥だらけの小柄な人物に、彼等は訝しげな視線を注ぐ。だが、後方から青蘭をとらえていた男が何事か叫ぶと、さっと表情を改めて脇へ退き道を開けた。
膝をつき頭を垂れる兵たちにかまわず、青蘭は負傷者を抱きかかえた男に問う。
「脈はしっかりしておられますが、意識がありません。怪我の具合は医者にみせなければ何とも申し上げようが……」
碧柊はまったく意識がないようだった。前頭部を負傷しているらしく、抱きあげられた拍子に血潮が逆流し、その無精髭に覆われ泥にまみれた顔をさらに汚していく。
青蘭はその傍らに膝をつき、そっとその頬に触れた。まだ温かく、胸は浅く上下している――今はまだ。
振り返れば、兵たちはまだ頭を垂れたままだった。頬が熱くなるようだった。
唇をかみしめ、立ち上がる。昂然と顔をあげて冷やかに告げる。
「呑気になにをしているのです。さっさと碧柊殿を運んで手当を――残りの者は他の者の救出に当たりなさい、早く!!」
「はっ」
兵たちは短く答え、急いで救出活動を再開した。
意識のない碧柊の体は、四人に担がれて慎重に運ばれていく。
動悸が酷く、今にも気が遠くなりそうだった。
そこへ先ほどの男がやってきて、青蘭の前で膝を折った。他の兵とは明らかに出で立ちが異なる。ここまで指揮を執ってきたのは彼なのだろう。
「お迎えに参上するのが遅くなったばかりにこのようなことになり、申し訳ありません」
「――あの雷雨では仕方ないでしょう。済んだことはともかく、一刻も早く碧柊殿の手当てを頼みます」
「承りました――恐れながら青蘭殿下にも治療が必要かと」
足の痛みが三度疼きだしたことに気付き、青蘭は深々と息をついた。
「そうですね」
歩きだそうとするが、ひどく体が重い。だるさとも、ひどい眠気とも、痺れともつかない何かが急速に募っていく。視界がぶれると思った次の瞬間には、なにも分からなくなっていた。
青蘭、あなたの髪は本当に極上の絹糸のように艶やかで滑らかで、こうして撫でているだけでうっとりしてしまうわ。
そう囁きながら、髪を梳り、結ってくれるのはいつも雪蘭だった。
優しい指先、朗らかな声、温かな眼差し。
大好きな従姉。大切な友人。
青蘭が想うのと同じだけ、愛情を返してくれる。注いでくれる。
けれど、それは私が王女で、あなたの従妹だから――
誰かが髪を撫でている。その感触に、ゆっくりと意識が引き戻される。
頬を滑る指先。懐かしい香りが鼻孔をくすぐる。
「――せ、つ、らん……?」
瞼が重かった。ゆっくりと瞬きすると、顔を半ば以上枕に埋もれさせるようにして眠っていたことに気づく。
のろのろと顔を上げながら、従姉を探した。
「お気づきになられましたか?青蘭さま」
柔らかな声音だった。高くはないが、澄んでいる。静かに心の奥へ沁み渡るような響きだった。
聞き覚えのある、けれど初めて耳にするその声に、青蘭は驚いた。
寝台の傍らには、穏やかに微笑する女性がかけていた。きっちりと結いあげられた髪は艶やかな黒髪。くすみのない白磁の肌に美しい弧を描く眉、切れ長の目の深い海の底を思わせる瞳に青蘭が映っていた。誰かに似ている――そして、自分にも。
呼びかけるべき名を一つだけ、知っている。けれど、目の前の女性は明らかに彼女ではない。彼女だとするには、成熟しすぎている。少女とも娘とももう言えない、大人の眼差しをもった美しい女性だった。
「――あ、の……」
「私は蓮霞と申します――雪蘭の母でございます」
「――雪蘭、の……」
声がかすれた。同時にひどく納得していた。雪蘭と姉妹といってもいいほどに彼女は娘によく似ていた――そして、青蘭にも。
青蘭の母の名は青蓮という。同じ“蓮”の名を持つということは、雪蘭の母もまた王族の血をひいていたのだ。
後宮や東宮に仕える奴婢が男性王族の子を産んでも、父親の血筋は一切考慮されない。奴婢の腹から生まれた子は、父親が誰であれ奴婢として扱われる。雪蘭の母という人もそういう存在だったのだろう。それを伯父紅桂が見染め、妻として遇するために王位を――青連を捨てたのだ。
「お察しの通り、私は紅桂さまや陛下の異母妹にあたります。恐れながら、青蘭さまのお母上、青蓮さまとは従姉妹にもなります」
「そう、ですか……」
青蘭はひそかにしみじみと納得していた。
何故、父方の従姉妹だというだけで、これほど自分と雪蘭が似ているのか不思議ではあったのだ。ただでさえ、西葉の王族は近親婚を繰り返し血が濃くなりすぎている。その中でもこれほど血が近ければ、似ていても不思議はない。
そんなことを思いながら、一方で心が次第に波立ちつつある。何か、肝心なことを忘れている。こんな風にのんびり話している場合ではなかったはず――
「碧柊殿下のもとへ行かれますか?」
「――」
脳裏にぐったりと血に染まっていく碧柊の顔が浮かび上がる。弾かれたように慌てて寝台から降り立ったとたん、足に激痛が走る。よろめいたところを蓮霞の腕に支えられた。
「青蘭さまの脚の傷も深かったのですよ。こんな風に動いてはいけません。傷口が開きかねません。ご案内しますから、まずは落ち着いてくださいませ」
「――あの方は? 碧柊殿は?」
必死にすがるような思いで蓮霞を見つめると、彼女は曖昧に微笑んだ。
「ご無事です――まだ、意識は回復なさっておられませんが」
「まだ? ……あれからどのくらい経つのですか?」
「ほぼ丸一日です」
丸一日たっても意識を回復していない。その事実に、体の力が抜けそうになる。動悸が増し、目の前が暗くなるようだった。
さっと表情を曇らせた少女を支えるように、蓮霞はそっと華奢な体を抱き寄せる。
身長はほとんど変わらないが、雪蘭の母は円やかに優しい体つきをしていた。その柔らかな肩に顔を伏せ、青蘭はじっと動揺を堪える。そっと背を撫でてくれる仕草は雪蘭と切ないほど似通っている。
そして、亡き母と同じ“蓮”という名を持つこの女性に、初対面にもかかわらず、青蘭は素直に身を預けていた。
<続く>