第5章 峠 13
閉ざされていたはずの柵の扉が開きつつあった。
どうやら関所の建物の陰に味方となるものが複数潜んでいたらしい。彼らの手で鍵が壊され、少しずつ開かれつつある。
青蘭は柵の前で馬を止め、興奮気味の首筋を叩いて宥めてやっていた。
「後ろっ!」
誰かが叫んだ。青蘭は反射的に小太刀を構えて振りかえった。急に馬首を返すような器用な真似はできず、不自然に身をねじるしかない。
追いすがってきた東葉兵が切りつけてくる。思い切り振り下げ、辛うじて切っ先を弾き飛ばすのが精一杯だった。
騎乗に慣れていない青蘭は、下馬した方が動きやすいと判断して敵とは反対側に下りる。
それも既に先読みしていたように、兵も馬の反対側へ回り込んでくる。
夕立のような雨に足元はぬかるみ、轍の跡を泥水が川となって流れていく。
青蘭はともかく柵の方へ逃げようとしたが、その先を塞がれる。
援護は期待できない。一人で逃げ延びるしかない。
特に大きな体格の男ではなかった。だが、兵としてここにいる以上、鍛錬は積んでいるはずだ。西葉の兵と比べ、東葉の兵は訓練が行き届いている。青蘭がかなうはずもない。
身分を名乗ってみたところで、それを彼に判断できるとは思えない。
青蘭は覚悟をきめて小太刀を構えた。力で勝るはずもなく、剣技においても同様だった。油断なく相手を見据えつつ、必死に考えを巡らせる。
後じさりつつ、馬の陰に回りこむ。その拍子に石に足元をとられ、尻もちをつく羽目に陥ってしまった。その隙を付け込まれないはずがない。
それでも太刀は手放さなかった。もう一方の手は泥濘を探る。
兵はわざといたぶるように悠々と近づいてくる。青蘭はきっと眦を決し、空いた方の手に泥を握りこんだ。いつでも振るえるように小太刀の柄をしっかり握る。
ぎりぎりまで逃げ出したい衝動を堪え、ひたすら相手を睨みつける。
緊張のあまり、もう雨の音も雷鳴も聞こえない。
冷静に距離をはかる。
兵はいつでも切りつけられるように太刀を構える。青蘭はそろそろといつでも立ち上がれるように体勢を整える。
華奢な少年が、まさか髪を切った男装の少女だとは思いもしないのだろう。
細い腕に貧相な体つきでは万が一にも勝ち目がないのは、彼にとっても明らかだった。
にやにやと酷薄な笑みを浮かべつつ近づく。
その距離を目測する。
男は太刀をこれみがよしにかざし、距離を詰める。一突きで青蘭の体を地面に縫いとめられるほどに迫った。
青蘭は唇をかみしめると、勢いづけて横に転がり、その際に手にした泥を兵の顔めがけて力いっぱい投げつけた。
狙い通り泥が顔に命中する。青蘭は転がって脇によけると、すぐさま立ち上がり、泥に視界を奪われて膝をつく男の首を小太刀で刺し貫いた。
肉を断ち、筋を断つ感触がそのまま伝わってくる。
顔を歪めつつ、倒れこむ男の背に足をかけて太刀を引き抜く。
切断された血管から血が噴き出したが、激しい雨にたちまちのうちに飲み込まれていく。せりあがるものを堪え、青蘭は太刀の血脂を男の外套で拭うと立ち上がる。
柵の扉はすっかり開かれ、その向こうから地響きのような蹄鉄の音が伝わってきた。
じっと目を凝らせば、猛烈な降りの雨しぶきで白くかすむ視界の向こうに、いくつもの騎影が見える。一瞬錯覚かと己の目を疑ったが、じきにそれは確かな輪郭を持って現れた。
「援軍よ!!」
力限り叫ぶ。雷雨は激しさを増すばかりで、青蘭の高く澄んだ声はかき消されてしまう。
青蘭は雨しぶきの向こうに必死になって碧柊の姿を探した。
同時に痛みの感覚が戻ってくる。立っているだけで足の痛みに気が遠くなりそうになる。髪を縛っていた布をほどき、膝の下できつく縛って止血をはかる。
碧柊は二人を相手に戦っている最中だった。
青蘭は一瞬握った小太刀を見つめる。足元に横たわる屍。それはもしかすると自分だったかもしれない。殺すか殺されるか。今はそれだけだと腹を括る
戦闘はあちこちで行われていた。多勢に無勢で旗色は明らかに悪い。もうすぐそこまで援軍は迫っているが、間に合わないかもしれない。常に紙一重なのだ。
幸い誰も青蘭には注意を払っていなかった。
小太刀をしっかり握って駆けだす。碧柊と対峙しようとしていた三人目の背に突撃し、刃を突き立てた。
不意に一人が倒れたため、碧柊と対峙していた二人の兵も気をとられる。その隙に碧柊は正面の一人を斬り伏せた。
そのままくるりと踵を返し、もう一人とも切り結ぶ。そうしながら眼の端にずぶ濡れの少女の姿をとらえていた。
「逃げろと云っただろう!!」
「援軍です!」
叫び返しながら、青蘭に気づいて斬りかかってきた兵と切り結ぶ。刃こぼれがし、衝撃に腕がしびれる。
「莫迦、まともに切り合うな。逃げろ!!」
しかし逃げれば背中を斬りつけられる。
それは互いに分かっている。青蘭は苦笑しながら口先だけ詫びる。
「申し訳ありません――それも難しいようで」
さらに激しい斬撃を受け止めきれず、切っ先が頬をかすめた。痛みが走るが、躊躇っている余裕はない。
また泥を用いてやろうかとも思ったが、その猶予はない。次に攻撃を受ければ太刀が折れるか、防ぎきれずに一刀両断にされてしまうかもしれない。
青蘭は間合いを詰められないように後退し続ける
一方の碧柊は残る一人も斬り捨て、青蘭のもとへ駆けつけた。
「顔に傷なんぞこさえよって」
「お気に召しませんか?」
「当然だ――花の如き顔を如何心得る」
軽く叱りつけながら、碧柊は踏み出すと切り結び、次の攻撃では見事に胴を薙ぎ払った。
そのまま倒れこんだ男の体は、泥のなかに沈む。
それを青蘭は複雑な心地で見つめる。
「――お見事でございます」
「姫もなかなかの腕前でいらっしゃる」
血脂に汚れ刃こぼれのした太刀を拭うと、次いで青蘭の頬に滲む血を拭ってやる。だがじきに新たな血がにじみ、碧柊は眼を眇めた。
いつしか雨脚は和らいでいた。そこへ援軍が到着する。劣勢はあっけなく優勢に転じた。
呆気なく片がつき、碧柊も青蘭も太刀をおさめた。
「お二人ともご無事でございましたか」
よろよろと近づいてきたのは汪永だった。彼も奮闘していたらしく、あちこち服が破れ血もにじんでいる。
目ざとく青蘭の足に気づくと、「お怪我を?」と眉根を寄せる。それで碧柊もようやく気付いたらしく、顔をしかめる。
「じきに手当てを」
「大丈夫です。さほど深い傷ではありません」
痛みをこらえて笑ってみせたが、お構いなしに碧柊に抱きあげられてしまう。
「へ、碧柊殿?」
「汪永、馬車を動かせ。はやく姫を岑州へ。傷痕が残ってはいかぬ」
「そうでございますな」
汪永は奮闘の興奮の余韻もあってか、珍しく勢いづいたまま幌馬車を動かすように声をかけていく。
碧柊は青蘭を腕に抱いたまま、最後尾の馬車に向かう。
「歩けます」
青蘭は下ろしてくれと抗おうとしたが、碧柊は意に介さない。
「碧柊殿」
やや語気を荒げて抗議すれば、じろりと冷やかな一瞥が返ってきた。
「吾は姫にともかく逃げるようにお願い申し上げたはずだが。それをお守りくださらなかったのかどなたかな――それに、この傷はあなたお一人のものではない。これ以上その白い肌に傷跡を残されてはたまらぬ」
にやりと口の端を歪められ、青蘭は反射的に頬を染める。
「……もう、そのいやらしい言い方はいい加減よしてください」
「吾も単なる男に過ぎぬ故な」
悪びれる様子もなく断言されると、何故かばつの悪い想いをするのは青蘭の方だった。
おとなしくなった青蘭をこの五日の間、彼女の寝床でもあった荷台の後部に横たえると、碧柊は馬車を出すよう合図した。
あらかた現場を片づけた岑家の兵が、碧柊と青蘭のいる隊列の後部を目指してやってくる。
荷台に乗ろうとしていた碧柊は、ふとなにかが気になったように振り返り、眼を瞠った。
崖の上の狼煙台にいたる石段に、人影があった。そこへ岑の騎兵がやってくる。そのなかに弓を携えている者を見つけると、素早くその人影を射るよう命じた。いずれこの峠の関が破られたことは知れ渡るだろうが、少しでも遅いにこしたことはない。
じきに矢が放たれた。それは見事にその背に命中し、火を手にしていた男は狼煙台に達する前に倒れ伏す。
ほっと息をついたのも束の間、なにか得体のしれない地響きが崖の上から聞こえてきた。
「なんだ?」
碧柊はその場にとどまり、音の源を探すように視線を巡らせ、じきに顔色を変えた。
峠道をふさぐ目的で、崖の上に仕掛けが施されていたらしい。それを射られた男が作動させたのだろう。土煙をあげながら大小さまざまな岩が急斜面を転がり落ちてくる。
「落石だっ、皆、ここから離れろっ!!」
碧柊の大音声に、青蘭も何事かと荷台から身を乗り出す。轟音はその耳にも届いていた。同時に馬車の歩みが速まる。
「碧柊殿っ!!」
青蘭は声の限りに叫んだが、あっという間に落石に飲み込まれてしまった。
<続く>