第5章 峠 12
朝から雲行きは怪しかった。
いつもは尾根のあたりにとどまっている雲が陰鬱な鈍色に低く垂れこめ、峠のあたりまで覆い尽くそうとしている。
青蘭は頭巾の影からそれを不安な思いで見つめた。
碧柊は騎乗して先を行く。その後に五台の幌馬車が続く。殿は汪永配下の二人組がつとめている。
青蘭は先頭の荷台にいた。手綱を取るのは汪永で、青蘭は彼の背後の幌の陰に隠れるようにして膝を抱えていた。
荷台はひどく揺れる。揺れるたびに手元の小太刀の柄を握りしめてしまう。
「そんなに緊張なさる必要はありませんよ」
背中を向けたままにもかかわらず、見透かしたように声をかけられ、青蘭は思わず目を瞠る。幌の陰からそっと顔をのぞかせると、汪永はそれすら分かっていたように笑みを浮かべてちらりと振り返った。
「大丈夫です、お任せください」
青蘭はわずかに頭巾をずらし口元に笑みを浮かべてみせた。
碧柊も時々馬をとめては一隊が追い付くのを待ち、青蘭が顔をみせると小さく頷いてみせた。
昼前に一羽の小鳩が汪永のもとへ飛んできた。
彼は手袋をはめた指先にそれを止まらせると、小さく口づけて朗らかに笑った。
「このまま進みましょう」
青蘭はそれに強張った笑みを浮かべた。
碧柊も鳥に気づいて馬をとめていた。
汪永は落ち着いた表情で頭を下げてみせる。碧柊も黙ってそれに頷き返し、幌馬車と並行して馬を進めた。
青蘭はついつい不安で彼の方を見てしまう。その度に力づけるような優しい眼ざしが返された。青蘭は口元だけ微笑して肯き返しながらも、頭巾の陰でついつい潤みそうになる眼を見られずにすむことをほっとしていた。
汪永は馬を進めながら、峠を越えてしまえばその向こうに西葉側の関があり、そこで岑家の手勢が控えていると説明した。
万が一、東葉側の関で不穏な動きがあれば、青蘭は馬にまたがってともかくまっすぐに進むよう云いきかされていた。
両国の関の間の道はじきにきりたった崖沿いにかわるらしい。馬ごと滑落しないようにと、うんざりするほど念を押したのは碧柊だった。
そうこうしているうちに、道はいよいよ細くなり両脇の崖は切り立ったものとなっていく。
吹きつける風は次第に強くなり、空模様はいよいよ怪しくなって今にも降り出しそうだった。
先行きの不安を煽るような雲行きに青蘭は、緊張と気欝を吹き飛ばすように深呼吸した。その時、坂道の先に石造りの建物が見えてきた。
青蘭は腰帯に小太刀をさし、柄をいったん抜いて戻した。
「そう殺気立ってはいけませんよ、殿下。何事もなければこのまま通過するだけなのですから」
「ええ」
青蘭は小さく呟くと、汪永の隣の御者台に腰かける。
荷台から青蘭が移ったのに気づくと、碧柊はそちら側へ馬を移動させてきた。
「なんだ、珍しく緊張してるのか?」
からかうような口調に、青蘭は思わず苦笑する。少し頭巾をずらしてその影からわざと睨みつけながら、きっぱりと首を振ってみせる。
碧柊はにやりと口の端を歪めた。
「その意気だ――ともかく滑落だけはしてくれるなよ」
まだ云うのかと呆れたが、口に出すわけにもいかず小さくうなずく。それでもなにやらまだ心配そうだったが、彼のそんな様子が青蘭の緊張と不安を和らげてくれた。
一行が近付くと、すでに関の柵は閉ざされていた。
切り倒した原木を並べただけの急ごしらえの柵だった。これまでは柵など不要だったのだろう。両国の戦いは山の背北側の平野部で繰り返され、急峻な峠道ばかりの南部で行われたことはなかった。
柵の前には事前に報告の合ったとおり、二十人前後の兵が並んでいた。
武装は通常だが、すでに半数のものが抜刀している。威嚇目的だろうが、隊商相手にずいぶんとものものしい。
明柊は西葉との国境線を警備するため、そちらへ兵を集中させているという。峠の関の兵員はあくまで見張りに過ぎない。見れば、詰所の裏の崖の上には狼煙台があり、その傍らには人影があった。
「この天候では狼煙を上げてもかいがあるかどうかは微妙だな」
ぽつりと碧柊が呟いた。彼は馬から降りることもなく平然としている。それどこか冷静に状況を見定めているらしい。
何度も戦場に出て指揮を執ってきているのだから、このくらいで動じていてはつとまらないのだろう。それは分かっていても、実際に目の当たりにすると頼もしくうつる。
汪永が手綱を引き幌馬車をとめると、後続もそれに倣う。全体が止まったのを確認してから汪英は手綱を置く。
関所の隊長が一歩踏み出す。
汪永は御者台から降りる際に鷹揚な笑みを見せ、ゆったりと近寄っていく。
碧柊はゆっくりと青蘭の座る御者台のすぐそばまで馬を寄せてきた。
「なにかあったらじきにこれに乗り移れ。柵はなんとかして開ける」
声を抑えた低い囁きに、青蘭はほんのわずかだけ頷いてみせた。
汪永は関所の警備隊長となにやら話し込んでいるようだった。それが緊迫したものかどうかもわからない。
なにかが手に当たり、青蘭ははっとする。雨粒だった。
それが合図となったわけではないが、検問がはじまった。
汪永が隊長と抜刀した部下を案内してまわる。一台ずつ幌を上げ、一つずつ荷を明らかにしていく。その間にも雨脚は急激に強まり、すべてが終わるころには、碧柊も青蘭もずぶ濡れになっていた。
そう遠くないところで雷鳴も轟き、光が空を横切る。
汪永が隊長とともに戻ってくる。
なんとか無事に終わりそうだと安堵しながら、碧柊を見ると目があった。彼は泰然としていたが、青蘭と目が合うとかすかに目を眇めて小さく首を振った。
まだ油断するなということなのか。
青蘭は水を吸って顔に張り付く頭巾をずり上げ、油断なく見回す。雨が顔にはじけ、視界が奪われる。
汪永達は雨など気にならない様子でゆっくりと戻ってくる。汪永が雷雨に負けじと声を張り上げて、何やらしきりに話している。
恰幅のいい隊長は鷹揚に頷き返しつつ、先頭の幌馬車の後部までさしかかるとさりげなく腰に佩いた太刀の柄に触れた。
それはごく自然な動きだったが、ほぼ同時に青蘭は碧柊に腕を掴まれていた。
「――っ!?」
ぐいと強引に引き寄せられ、馬に乗せられる。体勢を整える間もなく手綱を押しつけられる。それを彼女がしっかり受け取ったかどうかを確認することもせず、碧柊は馬から飛び降りていた。
振り落とされないように馬の首にしがみつきながら、青蘭は振り返る。
ちょうど碧柊が隊長と切り結んだところだった。剣戟の音は雷雨に掻き消される。
二合、三合と切り合う。体格で劣る碧柊だが、互角に渡り合っているようだった。
青蘭がぎゅっと噛みしめる。手綱を握り、体勢を立て直す。
柵の前に立ちはだかっていた残りの兵たちも、一斉にこちらへ向かってきている。
守備態勢を取り遅れた青蘭の前に、あの二人組が立ちはだかり応戦する。
青蘭も邪魔な頭巾をずりおろし、小太刀を抜き放った。
二人組は背中合わせに戦い手際よく兵を片づけていくが、多勢に無勢の劣勢に変わりはない。
武器を手にした騎乗の青蘭のもとにも、二人の兵が向かってくる。
左右からはさまれる形になり、青蘭は一瞬迷ったが、思い切り鐙で馬の腹を蹴った。
利き手に握った太刀で、浴びせられる太刀を受け流す。あまりの力に腕がしびれたが、なんとか太刀を取り落とさずにすんだ。
同時に足に灼熱感が走る。急に馬を走らせたため反対側からの直撃は避けたが、切っ先が脹脛を切り裂いていった。
「早く行けっ!!」
雷鳴がとどろく中、辛うじて声が響く。それは碧柊のものだった。
振りかえりたいの堪え、青蘭は膝に力を入れて馬の体をはさむ
阻むもののいなくなった柵を、自力で開かなければならなかった。
<続く>