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まだ見ぬ君に  作者: 苳子
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第1章 脱出 5

 二回目の休憩は月が傾くころだった。けれど暁は未だ遠い。森は果ての知れないほど広く深い。闇は見透かせず、森の天蓋の切れ間からさしこむ月影はしだいに薄れていく。

 一行がたどる道は古いもののようだった。敷石はあちこちめくれ、草木が芽吹いている。それでも倒木が行く手を塞ぐようなことはない。常に整備はなされているのだろう。むしろ道の荒れ具合には、意図的なものも感じられるほどだ。

 古道のかたわらでの休憩では、火の焚かれることはなかった。

 騎乗に慣れてきたとはいえ、一日二日でなんとかなるものでもない。青蘭は未だに騎手にしがみついているだけでせいいっぱいだったが、一行や道の様子を眺める余裕も少しは出てきた。

 それと反比例するように、ある場所に今まで感じたことのない違和感を覚えていた。

 馬の背は飛び降りられない高さではない。だが、すっかり強張った体では、無様な着地で怪我をしかねない。

 いい加減そうと悟っておとなしく騎手の腕に身をゆだねれば、見透かしたような含み笑いを隠そうとしないのでむっとする。反論すれば、どうせまた皮肉ともからかいともつかない言葉を返され、さらに不愉快な思いをするだけだと諦めた。

 そっと降ろされる。今度は膝が砕けることもなく、自分の足で立つことができた。確認するように爪先立ち、とんと踵を下ろしてみる。膝から力が抜けることもない。安心してほっと肩を落とせば、ようやく体を支えていた腕が外された。


「少しは慣れたようだな」

「殿下のおかげでございます」


 恭しく頭を垂れてみせれば、苦笑する気配が伝わってくる。


「いやに素直だな」

「しおらしく振舞わせていただいた方がよろしいかと」


 顔をあげてにこりと笑ってみせると、王太子は一瞬眉をあげたが、じきに微苦笑した。


「その意気だ」

「――はい」


 今度こそ素直に頷くしかない。口惜しさがこみあげてくる。どうあっても相手の方が一枚上手らしい。妙な対抗心が芽生えてくる始末だ。

 小さく頬を膨らませた青蘭の頭を軽く撫で、王太子は「ここで待っておれ」と声をかける。意図が分からず青蘭がきょとんと見上げると、一歩踏み出したそこで立ち止まった。


「用をたすならあちらの繁みの奥がよかろう。道からあまり外れるな。誰も行かせぬ。気を使う必要はない」

「……わかりました」


 他に云いようはないのかという非難をこめて眼を眇めたが、それは通じないらしい。訝しげに真顔で首をかしげられ、本気で蹴るか殴るかしたくなる。

 言葉で諭したところで、逆に「ほぅ、それが女心というものなのか」などと妙に論点のずれた理解が得られればいいところだろう。だからといって、それがその後の彼の行動に反映されるかといえば、そのあたりの期待も薄い。いわゆる徒労という奴だ。

 わざと大きくため息をつくと、それをどう解したのか。彼はわざわざそばに戻ってきて、また青蘭の頭をなでた。


「尿意が近いなら我慢する必要はない。暗がりが怖いならついていってやろうか」

「――けっこうです」


 ついてきたら殺してやる、という意思をこめて低く応じると、さすがにそれは伝わったようだった。 




 剣呑な空気を察した王太子はおとなしく去ってくれた。

 それを確認し、青蘭はちらっと言われた繁みの方を見る。

 お言葉に甘えたわけではないが、合理的な判断に基づいて繁みをかき分けていくことにした。

 しばしのち。苦い思いで忠告のありがたみを噛みしめながら戻りつつ、青蘭は別の気がかりにとらわれていた。

 生理的欲求を片づけ、不自然な体の強張りも解け、人心地取り戻しつつあるのと正比例するように、ある感覚が大きくなっていく。正直にいえば、歩くのも辛くなってきた。

 王太子に云われたとおり馬のそばまで戻ったものの、そこに腰かける気にはなれない。しゃがみかけて先ほどのことを思い出し、諦める。木の幹に凭れることもできそうになく、所在なげに立っているしかない。

 やはりここでも、他の者たちから少しばかり離れるかたちで置かれている。それはどちらか一方ではなく、両方のためなのだろう。     

 王太子でありながら、青蘭の身を他のものに委ねようとしないのも、そのためなのか。こうまで主の意思が明確である以上、誰も彼女を害するような真似はしないだろう。せいぜい慇懃に無視されるくらいのもので、それ以上の害が及ぶとはとは思えない。それすらも思いやってくれているのか。

 そこまで考えて、青蘭はふぅっと息をつく。

 成り行き任せでここにいる自分とは違い、彼は意志と責任を持ってここにいる。そして、彼は先刻部下を亡くし、父の訃報を耳にしたばかりなのだ。

 青蘭自身の肉親の情は薄い。父と兄がいるが、彼らはある種の記号に近い。そこに感情を伴う思いは存在しない。それはお互いさまのはずだ。だからといって、“肉親の情”まで分からないわけではない。

 雪蘭が稀に両親について語るとき、そこには必ず親子の情愛が感じられた。青蘭が似たような感情を抱くとすれば、それは雪蘭と乳母しかいない。

 気の弱い乳母は確かに頼りにはならなかったが、生まれてすぐに亡くしたわが子に向けられなかった情愛のすべてを青蘭に注いでくれた。そこに身分の差からくる遠慮が入ってしまうのは、しようのないことでもある。

 雪蘭にいたっては云うまでもない。王太子に語ったように、姉妹同然だ。

 英君と名高かった亡き東葉国王。

 彼にとってその存在は“父”だったのか、それとも“王”だったのか。ただ、彼もまたそんな王の跡継ぎにふさわしいと評されている。

 あの拳のわずかな震えを思い出し、青蘭はうつむく。

 その拍子に肩口を滑り落ちてきた髪が視界をさえぎる。無意識に手をやれば、結いあげていた髪はすっかり崩れていた。簪が残っているのが不思議なほどの乱れ具合だ。

 そのまま探り当てるままに簪を抜き取り、すっかり髪を下ろしてしまう。流れ落ちてくる髪は鬱陶しいが、なぜかすっきりするような心地だった。

 心に浮かぶのは、雪蘭のことばかり。青蘭姫として残してきてしまった従姉。雪蘭が雪蘭として残っているのならば、彼女に害の及ぶ危険性は他の女官と大差ない。

 けれど、雪蘭は青蘭として残っている。青蘭の安否がはっきりするまでは、彼女は西葉王女として振舞うだろう。

 “青蘭姫”としての立場は、それだけで利害に左右される。葉王家直系王女としての立場に利を見出すものもあれば、それを障害とみなすものもいる。その両方の可能性を青蘭も雪蘭もわきまえている。

 状況が分からない以上、青蘭にできることはその無事を祈ることだけ。

 そこへようやく王太子が戻ってきた。なにやら少なからぬ荷を手にしている。

 悄然と佇む青蘭を訝しむこともなく、利き手で運んできた木の椀をさしだした。


「やはり尻が痛むか。これは鎮痛の効果がある。飲めば少しは楽になろう」

「――」


 お尻を撫でていたわけではない。ただ痛みをこらえて立っていただけだ。それにも関らず見越したような言葉に、青蘭は無言で目を瞠った。

 受け取ろうとしない彼女に、彼は眉をひそめる。


「騎乗に不慣れなら恥ずべきことではない。むしろよくここまで堪えたと、褒めてさしあげたいところだ」

「……」

「痛むから座らぬのだろう?」


 青蘭は無表情で押し黙る。それ以外に対処のしようがない。

 王太子はそんな彼女に首を傾げると、あろうことか確認するように手を伸ばしてきた――臀部に触れようと。


「――!」


 不快な音が響いた。

 青蘭は自分の行動に驚いて凍りつく。音源は王太子の頬で、それを張り飛ばしたのは己の手だった。

 さすがに周囲も凍りつく。

 一瞬の沈黙ののち、殺気がみなぎる。静かな波を感じたのか、王太子は片手をあげてそれを制し、振り返りもしなかった。


「やはり痛むのだな」

「……」

「飲め」


 ぐいと手元に押し付けられる。固まって受け取ることができない。無言のままいたずらに瞬かせる。

 そんな様子を見極めると、彼はふっと苦笑ともなんともつかないやわらかな笑みを浮かべた。

 唇に器の縁が押し当てられる。少しずつ流し込まれるそれをようやく嚥下し、青蘭はむせた。


「悪いが体裁を取り繕っている余裕はないのだ――たとえそなたが女性にょしょうでもな」


 咳きこみ苦しげに丸めた背を撫でる手に、詫びる気色はない。

 まっすぐに見据えられ、声を出せないまま、青蘭は小さくうなずいた。

 今は非常時なのだ。それだけは肝に銘じなくてならず、この場の判断を下せるだけの経験も根拠も持たない。選べるのは彼を頼りとするかしないかということだけだ。

 苦しく咳きこむ背を、優しく撫でててくれる手がある。

 青蘭は息苦しさに涙を浮かべながらも、むせはなかなかおさまらず。それでも詫びるようにそっと張り飛ばした頬に触れた。


「見かけによらず怪力の持ち主のようだな。痣になったらどうしてくれる」

「……」


 乾いた唇が言葉を刻む。それを見届け、彼はふっと眼尻を下げた。


「この期に及んでも男を張り飛ばすほどの気概があるなら頼もしい限りだ」

「非は殿下にあります」


 どんな理由であれ尻を撫でようとするなど、言語道断。たとえそれが案じる故だとしても、許せることではない。その理屈が通る相手かどうかは別として、青蘭はきっぱりと言い切った。


「……そのようだな」


 彼はさも痛そうに頬をさすり、悪びれる様子もなく笑ってみせた。

 青蘭はむっとしながら、その一方でほっとしていた。確かに彼は温厚な性分らしい。よくよく考えるまでもなく、今の青蘭は王女ではなく一介の女官にすぎない。それにもかかわらず、手を上げられても声一つ荒げるわけでもない。これが兄の蒼杞ならば、今頃青蘭の命はないだろう。

 それどころか、どこまでも青蘭を気遣ってくれる。西葉まで届いていた王太子の評判はだてではないのだ。それなのに、肝心なところで無神経なのはどういうわけなのだろう。

 反省するようすのない王太子に、青蘭は小さくため息をつく。

 諦めるしかないかと肩を落としたところに、一式の衣類を押し付けられる。戸惑いつつ見れば、それは東葉の軍服だった。


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