第5章 峠 11
火のはぜる音を、夏の夜に心地よく耳にする機会があろうとは思ってもいなかった。
日中過ごしやすくなった分、夜には冷え込む。冷涼な空気はややもすると凍えるほどだった。
外套にくるまり火のそばにいればそれも和らぐ。それでも火の当たらない背は依然寒、さらに膝を抱えて丸くなると、それに気づいたように彼が口を開いた。
「寒くはないか?」
問う声は短い。青蘭はそれに答えた後、彼がくべた枝がはぜながら焔に包まれていくのをぼんやりと見つめていた。
はじめて会ったころから、彼の青蘭への細やかな配慮は変わらない。苓南の砦でも、それは誰に対してもそうだった。人の上に立つ分、その様子をよく見ているのだろう。それは彼の立場であれば必要なことであり、特に青蘭にだけ優しいわけではないとずっと思っていた。
そうではないらしいと悟ったのは、峠に向かってからのこと。それも身分を明かしてからのそれは傍目にも明らかだと知らされ、正直にいえば単純に嬉しくはなかった。青蘭が西葉王女だからこそ、なおいっそう大切にされるかと思うと心中複雑極まりない。もし自分が真実雪蘭だったら、彼の態度が変わることはなかっただろう。
何故そう思うと悲しくなるのか考えないようにしてきたが、いったん理由が明確になればすべてを悟るのに時間はさほど要しなかった。
その理由はありふれた単純なものだった。だからこそ、自分自身が理由でないことが哀しくなるのだ。それでも、彼を引きつけておくだけの価値を自分は持っている。
自分が王女であるということだけで十分に縛りつけておける。彼は言葉通り終世傍にいてくれるだろう。そうでなくとも誠実で義理堅い人柄なのだ。たとえ他に心惹かれる女性が現れたとしても、青蘭を裏切るようなことはしないだろう。それができる人間ではない。
それでも構わないと思ってしまう。傍につなぎとめておけるなら、それでも仕方ないと。それは彼の実直さに付け込むことになり、本当に彼を思うならそんなことはすべきではない。
盾として選ばずとも、臣として仕えてくれるという言葉に嘘はないはずだ。そうすれば、彼はやがて己の心にかなう女性を見つけて幸せになれるだろう。本当に彼を想うなら、忠誠以上のものを求めるべきではない。個人としての幸福を願わなければならない。
けれど、本当にそんなことができるかと己に問えば、首を振るしかない。彼があの優しい眼差しを他の女性に注ぎ、口づけるのだと思うと、それだけで絶望的な気持になる。
他人に渡すくらいなら、どんな手段をつかっても縛りつけておきたい。そして、それは青蘭には可能だった。彼が自分の傍にいてくれるなら、その理由はなんでもいい。国のためでも、野心のためでも。
それは同時に“葉の女王”としての青蘭にとっても必要なことである。両国を一つにまとめ上げるならば、夫でもある盾として最もふさわしいのは碧柊だ。二つに分かれた王家の末裔同士であることが、最も適している。青蘭の次の代のことを考えてみても、それは重要なことだった。両王家の血を引くものが登極して、はじめてことは完成する。
つらつらと考えて、はっとする。すべて言い訳じみている。つまるところ、傍にいてほしい、それだけだった。
碧柊は本気で葉をまとめ上げ、平和にしたいと考えている。だからこそ、青蘭を欲してくれている。そして、それは青蘭自身の願いでもある。そのためには二人で力を合わせるのが最善だ。その上、青蘭の想いは彼にあるのだから、幸運だったと思えばいい。彼が同じ気持ちでなくても、大切にはしてくれるだろう。それだけでも十分だと思わなければならない。そもそも結婚は王族の務めなのだから、そこに感情を持ちこむことが間違っている。
青蘭に出来ることがあるとすれば、賢明な女王となり、そのためにも良き伴侶であることだ。彼のために出来ることがあるとすれば、それが最も道理にもかなっている。
国のために女王となるのか、彼をつなぎとめるために女王となるのか。その区別はひどく曖昧だった。
彼の望みをかなえるために女王となれば、青蘭の望みもかなう。それは間違っているのだろうか。歪なものを感じつつも、青蘭はそれを肯定することもできない。
息苦しいような想いで顔を上げれば、碧柊の端正な面が視界に入る。わざと無精髭を生やし適当に髪を結い、だらしなく服を着こなして荒んだ風に流れ者を装っているとはいえ、それ以上に疲労の影が濃い。碧柊自身にももう他に打つ手がない。
帰るべきところを失い、追い詰められているのは同じだった。碧柊の方がさらに厳しい立場におかれている。憂いはあるだろうが、それを彼は青蘭には見せなかった。それは王太子という立場にあるものの矜持であり、責任でもあるのだろう。
これまでそんな風に彼のことを考えたこともなかったことに気づき、青蘭はそんな自分にはっとした。
「碧柊殿こそ、そろそろ疲労がたまっておられるころではありませんか?」
自然と気遣う言葉が口をついて出ていた。
青蘭の珍しい言葉を茶化そうとするのも気に留めずに鷹揚に応じれば、戸惑いを見せる。やはり気遣われるのには慣れていないらしい。それに思いがけない青蘭の態度にも当惑しているのだろう。これまでさんざん彼の態度や行動に翻弄されてきたことを思うと、おかしいのと同時に溜飲が下がる。
調子づいて青蘭から軽く唇を押しつければ、さらに動揺している。
「ざまぁみろ、です」
ようやく勝てたと思いつつも、同時に恥ずかしさもこみあげてくる。ここで動揺を見せては逆転されてしまうかもしれない。青蘭は波立つ心中を隠すようにわざと微笑んで、そのまま撤退した。
翌朝もいつもと変わりない態度でいれば、碧柊は戸惑いながらも結局態度を決めかねたようだった。
幌馬車の荷台で、幌を下ろしたまま向かい合って朝食をとる。焼いた麺麭に干し肉をはさんだだけの簡単なものだった。これから関に向かうことを思うと緊張で食欲が萎えるが、そんなことを言っている場合ではない。
青蘭が食べ終わるのを待って、碧柊はなにがあっても先に逃げるように云った。
予想していた言葉だったが、素直に納得できるわけもなく、結局渋々頷く代わりに彼に念を押さざるを得なかった。
「――分かっています。けれど、碧柊殿も私との約束を忘れないでください。関の守備兵を相手に勝つ必要はないのですから、確実に逃げ延びてください……でなければ……」
「――でなければ?」
碧柊の問いかけに、青蘭は逡巡する。その先に言葉をつなげば、自分の心情まで吐露してしまいそうだった。
それでも彼は言葉を待っている。告げるべき言葉を口にしなければならなかった。
「私一人では無理です。東葉の方々の力を乞うには、あなたの存在が必要不可欠です」
それは本当のことだった。青蘭の心のうちとは関係なしに、事実としてそうだった。隠すべきことのない言葉だったが、彼はいったん眼をそらした。何か想う風に視線を巡らせ、じきに真摯な眼差しを返してきた。
「吾に望むのはそれだけか?」
まるで秘めた想いまで見透かされたような言葉だった。
青蘭は目を瞠ったのち、躊躇いながら小さく頭を振った。言葉にしなければ伝わらない。
「……そばに、いてください」
「それは、臣としてか? ――それとも盾としてか?」
最も恐れていた言葉だった。
それを自ら問わずにすんだことにほっとしながらも、もう誤魔化しようのないことも悟る。彼は青蘭の望みに従ってくれるだろう。彼の真意に関わらず、それが自分の務めだと彼は考えているはずだ。
口にした瞬間に失恋するのも同然だった。
青蘭は切ない辛さを押し殺し、告げる。それは相手には通じない告白だった。
「……私の盾として」
「――それを吾に望むか?」
夫として、盾として、女王の伴侶として、それを彼に求める。
泣き出したい衝動を青蘭は必死にこらえた。体が震える。
やはり彼は拒まないのだろう。青蘭がそれを本意だと告げれば、彼に拒む理由はない。それは同時に青蘭が女王として立つことを呑むことであり、そのためにどんな形でも支えとなることが彼の務めだった。
思う相手が自分を受け入れてくれることが、これほど哀しいことだとは思わなかった。林泉の庭で遭遇することもなく、なにも知らないまま婚儀が済んでいればこんなことで思い煩うこともなかったはずだった。
耐えかねて視線をそらしたが、逃げることを許さない彼の気迫に押し戻される。
「はい……」
やっとの思いで頷いた。それ以上の言葉を継げば泣き出してしまいそうだった。
いっそ拒んでほしい。だが、そうして欲しくない。
相反する想いに翻弄されそうになるのを、ぐっと堪える。あとは返答を待つだけだった。
俯いて言葉を待っていれば、やがて遠慮がちに抱き寄せられる。やはり彼は青蘭を拒むはずがなかった。青蘭は静かに落涙し、諦めてその腕に身をゆだねる。
眦があつくなる。それを堪えていると、さらに強く抱きしめられた。嬉しさはなかった。ただひたすら悲しいだけだった。
こぼれるものを堪えかねて、小さく吐息をもらす。さらに滴が頬を伝う。それを彼の肩に押し付けて拭う。
やがて顎に指をかけられ、上向かせられる。必死に涙をこらえていると、唇が重ねられる。もうこれで後戻りはできなくなった。
泣き出すかわりに腕を彼の首に回す。それまで優しく啄ばむようだった接吻が深くなり、さらに強く抱擁される。涙が次々とこぼれて頬を伝う。それをどうとったのか、彼は優しく唇で涙をすくい取ってくれた。
<続く>