第5章 峠 10
その夜も、二人は焚き火をはさんで時を過ごしていた。
「寒くはないか?」
青蘭は外套にくるまり丸くなって体を休めている。
明日には峠を越える。ここまでくると万年雪をいただく尾根は目前に迫り、頂上付近の不安定な雲行きまでつぶさにみてとれる。
夜にもなると涼しいを通り越して肌寒くすらある。獣を遠ざけるための炎がありがたい。
「少々涼しいですね。でも火がありますから十分です」
青蘭は手をつき顔を少しあげて応じる。その顔に嘘はないようだった。碧柊は「そうか」と頷き、薪を足す。火の粉をあげて弾けるその音に、二人揃ってしばらく耳を傾けていたが、ふと思いついたように青蘭が口を開く。
「碧柊殿こそそろそろ疲労がたまっておられるころではありませんか?」
そう云いながら、ゆっくりと上半身を起こす。その拍子に短い髪がさらりと流れた。
「そのようなことはない、が――なんだ、案じてくれておるのか?」
「はい」
からかうようににやりと笑ってみせたのに、彼女はあっさり肯いた。あまつさえうっすらと笑んでさえいる。
碧柊は少々面食らって眉をひそめた。
「……どういうつもりだ? 気味が悪いな」
「酷い言い草ですね――素直に受け取れないのかとおっしゃったのは碧柊殿でしょう」
青蘭は苦笑しつつも、咎めるように目を細める。それももっともだったため、碧柊は「すまぬ」と率直に詫びた。それにたまりかねたように姫がくすくすと笑いだす。
「なにがおかしい」
「だって、おかしいでしょう――私には素直に受け取れと言っておいて、ご自分は如何なのですか?」
揶揄する声には苛立ちも責める気色もない。呆れたように、そしてこれまでに見せたことのないなにかを滲ませて、微苦笑している。碧柊に向けられる眼差しには逆に揶揄いかえすような光さえあった。
碧柊はそれを受け止め損ね、不自然に視線を逸らす。
「しかし――そなたが素直だと調子が狂うというか……」
「でも、素直になれとおっしゃったのは碧柊殿ですよ」
「だがな……」
云い募る碧柊に、小さく笑いながら青蘭はいざり寄る。気がつけば少女は目の前にいた。反射的に身を引けば、その分彼女が距離を詰める。
「――何の用だ?」
気圧されながらも往生際悪くややきつい口調で問い詰める。
少女は艶然と微笑むと、王太子の首元を両手で鷲掴みにした。
「お返しです」
悪戯っぽく眼を細めたかと思うと、力任せに引きよせて唇を重ねる。束の間触れあうだけの淡い口付けだった。
「――?」
碧柊が目を白黒させていると、青蘭は肩をすくめてちらっと舌を出してみせた。
「ざまぁみろ、です」
楽しくて仕方ないように笑いつつも、その頬は熱を帯びたように次第に赤くなっていく。わけが分からないままに魅せられ、碧柊が思わず手を伸ばそうとすると、さっと身をかわして後ずさる。
「おやすみなさい、碧柊殿――明日はいよいよ関ですから、気を引き締めなければいけませんわね」
「――ああ」
軽挙を咎めるように見据えつつも、青蘭はあくまでにこやかだった。
清婉な笑みを残してもといた場所に戻ると、今度こそ背を向けて丸くなる。
碧柊は化かされたような心地で取り残され、小さな背中が規則正しい呼吸を繰り返すまで呆然と見つめていた。
翌朝も青蘭はいつもと変わらない様子だった。
碧柊は態度を決めかね、流されるままに結局いつものように対した。
荷馬車の荷台で揃ってぼそぼそと朝食にありつきながら、碧柊は青蘭に注意を促す。
「なにがあってもそなたはまっすぐに西葉領に向かえ」
「――なにがあっても、ですか……」
「そうだ。そなたになにかあれば、そこですべて終わりだ。なにを犠牲にしても生き延びろ。それがそなたの義務だ」
彼女は分かっていると云いたげな顔をしつつ、素直に受け入れることはできないようだった。口を開閉し、結局苦い顔で言葉を飲み込んでかすかに頷いた。
「関の兵は二〇人前後だ。こちらは武器を扱えるものは三人。そなたもそこそこ扱えるようだが、決して応戦しようとするな。汪永に従い、ともかく関を抜けてまっすぐに西葉に向かえ。そこまで岑家の兵が来ている筈だ」
そのように手筈も整えてある。ひたすらまっすぐに進めば、さほど労せずとも岑家の懐へ逃げ込めるはずだった。
「――分かっています。けれど、碧柊殿も私との約束を忘れないでください。関の守備兵を相手に勝つ必要はないのですから、確実に逃げ延びてください……でなければ……」
「――でなければ?」
碧柊の問いかけに青蘭は一瞬逡巡をみせたが、最後に決意したようにまっすぐに視線を返した。
「私一人では無理です。東葉の方々の力を乞うには、あなたの存在が必要不可欠です」
その言葉は切々と響いた。碧柊はいったん眼をそらしたが、じきに真摯な眼差しを返した。
「吾に望むのはそれだけか?」
青蘭は目を瞠ったのち、躊躇いながら小さく頭を振った。
「……そばに、いてください」
「それは、臣としてか? ――それとも盾としてか? 」
碧柊の眼差しは真摯だった。傍にいるといった言葉に嘘はない。たとえどのような形であっても、終世その誓いは絶対だった。
だが、それにも在り方がいくつかある。彼女の望みに従うまでだが、彼には彼の望みもある。それが一致すれば幸いだが、そうとは限らない。
青蘭は躊躇うように視線を彷徨わせる。
碧柊はただじっと待った。
やがて、青蘭は俯いたまま消え入るように囁いた。
「……私の盾として」
「――それを吾に望むか?」
それが彼女の意志ならば、彼にはもう自分をとどまらせる理由はなくなる。それだけにまだ彼女が迷っているのならば、待つ必要がある。自分のためにも彼女のためにも明らかにする必要があった。
それを察したのか。青蘭の顔は次第に赤く染まっていく。膝の上に置かれた両手は、指が白くなるほど強く握りこまれている。
ちらりと視線を泳がせる仕草も見せたが、碧柊がそれを阻む素振りを見せると観念したように小さく頷いた。
「はい……」
もっとなにか言いたげに口をぱくぱくさせていたが、結局言葉にはならないようだった。
耳朶まで赤く染めて黙り込む。緊張しているのは明らかだった。だが、それはこれまでのように彼を拒むものではなかった。肩が細かく震えている。
彼の言葉を待つように、じっとうつむいている。
碧柊はわざとだらしなく結わえた髪の、こぼれかかってくるのをかきあげる。
なにか云おうとしても、言葉にならないのはこちらも同じらしい。
告げるべきものを声に出来ないまま、距離を詰めても彼女は逃げようとはしない。
そっとためらいがちに抱き寄せれば、身を強張らせながらも素直に預けてくる。
白皙の頬が朱に染まっている。頬ずりしたくとも、無精髭にためらわれた。
かわりにさらに強く抱擁すれば、たまりかねたように小さく吐息が漏れ、碧柊の耳に触れた。
そっと頤に指をかける。ゆっくりと上向かせれば、耐えかねたように伏せ目がちにする。そっと朱唇を啄ばめば、観念したようにぎゅっと目を閉じる。子供のような表情にふと笑みが浮かび、同時にどうしようもない愛しさがこみ上げてくる。
何度も軽く唇を重ねていると、ぎこちなくか細い腕が碧柊の首に回される。
それを合意とみなし、碧柊はさらに深く唇を重ねた。
<続く>