第5章 峠 8
白々と夜が明ける頃に、青蘭は荷台から抜け出した。一晩中ほとんどまんじりともできず、横になっているのもたまりかねてというところだった。
道の片側は傾斜になっており、注意して下れば渓流のそばまで行くことができそうだ。足場を確かめようとのぞきこんでいると、いつの間にか背後に碧柊が立っていた。
起こさないようにとそっと動いたつもりだったが、武人でもある彼は青蘭の思う以上に敏感なのだろう。
「沐浴か?」
無造作に問われて、青蘭はとっさに顔を赤らめる。
宿場町を発ってから水場になかなか出合えず、洗面すらままならなかった。多少のことは我慢しなければならないと分かっているが、そこに流れがあると分かればどうしても惹かれてしまう。
「発つにはまだ間があるな。俺が見張ってやろうか?」
人の耳を気にしての砕けた口ぶりに違和感を抱きつつ、青蘭はその申し出を有り難く受けることにした。
「――でも、のぞかないでくださいよ」
声を抑えて念を押すと、彼はにたりと口の端を歪める。
「今更その必要もないだろう」
わざと艶っぽく囁き返され、途端に耳まで熱が走る。からかわれていると分かっていても、止めようがない。
声を荒げて抗議しようとしたが、先にしっと唇を指先でふさがれる。それにはっとして辛うじて言葉を飲み込んだものの、気が治まらない。足を踏んでやろうと試みたが、あっさりかわされ蹈鞴を踏んでしまった。勢い余ってこけそうになったのを、背後から抱きとめられる。
ふわりと包み込むように片腕で華奢な体を支えながら、彼は笑いを押し殺した声で耳打ちする。
「人を足蹴にする元気はあるようだな」
「――!」
せめてと肘鉄を食らわそうとして、これもまたよけられてしまう。
くるりと身を返すと、碧柊も素早く青蘭を解放して後じさった。にやにやと笑っているのを睨みつけているうちに、次第にばかばかしくなってきて苦笑ともため息ともつかないものが漏れた。
気を取り直して彼に背を向け、斜面を降りようと慎重に踏み出すと、今度は彼の方が慌てて後を追ってきた。
「気をつけろよ」
注意を促す声は、本気で案じているものだった。傍目からも明らかなほどに、彼は青蘭を大切にしてくれているという。それをようやく実感し、感謝もこめて振り返り頷き返すと、今度は手が伸びてきた。
「そんなところで振り返るな。体勢を崩して転げ落ちたらどうする」
上腕をしっかりつかんで窘める。
まだ傾斜はそれほどきつくはない。青蘭は過保護ぶりに呆れて笑ってしまう。
「なにがおかしい」
「――別に」
「青蘭」
咎める声に今度はしっと青蘭が指を立てる。
「私は晴罧ですよ、碌罧兄上」
声を潜めて囁くと、碧柊は呆気にとられた顔を見せ、じきに苦笑した。
「そうだったな」
くすりと笑い返し、青蘭は心のどこかでひどくほっとしていた。
彼とこんな風にやり取りをしている時が、最も楽しく気持ちが明るくなる。ずっと雪蘭のそばでなければ安らげないと思っていた。それが違うらしいということに、ようやく気付きはじめていた。
青蘭は碧柊を信頼することにして、渓流のほとりで肌をさらしていた。
数日ぶりに肌を拭えば、清涼感にひどくほっとする。水は冷たいが、身を切るほどでもない。
碧柊は木の幹に背を預け、斜面を見張ってくれていた。
ほどなく水から上がり身支度をととのえていると、衣擦れの音にたまりかねたように彼が口を開いた。
「姫は嫌だとか無理だとは申されぬのだな」
「え?」
その言葉の意味を解しかね、青蘭は手をとめる。
「いきなり女王として即位しろと言われても、頭から拒んだりはなさらぬのだな」
「――そのことですか」
自然と溜息をついてしまう。
そうできればどれほど気が軽くなることか。それでもそう出来ない理由は一つしかない。
「私は王女ですから」
望んで得たものではない。だが、そう生まれ、育ってきた。あの彼女が長女であり、それ故に身を売るしかなかったように、青蘭は王女であり、それに伴う果たすべき責務がある。
それを拒むことは容易いが、できないように雪蘭に仕向けられてもきた。彼女との約束は青蘭にとっては絶対であり、その上幾人が目の前で、そして知らないところで命を落としていったかしれない。その贖いの責任は自分にあると青蘭は考えている。
「――それも、雪蘭殿との約定か?」
「はい」
問う声にかすかな苛立ちが含まれていることを察しつつも、それがなにか見当がつかないまま青蘭は「終わりました、ありがとうございます」と声をかけた。
洗いざらしの髪をたらしたまま、碧柊の傍らに立つ。そんな青蘭を碧柊はちらりと一瞥し、自分の前に座るよう身振りで示した。
「まだ髪が濡れておる」
まだ話の続きがあるのだろう。青蘭はなんとなく浮かない気分で従う。確かにこれだけまだ髪が濡れていれば、頭巾をかぶることもできない。
ようやく東の空から陽射しがあふれ、夏の早い夜明けに世界はどんどん明るく照らされていく。
「姫はなにかにつけ雪蘭殿だな」
「そうでしょうか?」
「そうだ」
自覚が伴っていないことに、逆に呆れたように碧柊が視線を寄越す。まるで咎めるような視線を受けてもその理由が分からず、青蘭はただ困惑する他ない。
「確かに前にも話したな、かようなことを。その時も云うたと思うが、そなたはどうなのだ?」
どうしても物言いが雪蘭として彼女に対していた時のものに戻ってしまう。碧柊はそれを一々改めるのを諦めたらしい。それにほっとしつつも、青蘭は視線を落とす。
「どう、と問われましても……雪蘭のいうことが間違っているとは思えませんし」
「――雪蘭殿が云うことならすべて正しいというのか?」
「違います、そういうわけではありません。彼女だって間違うこともあります」
慌てて訂正すると、碧柊の冷やかな眼差しと目が合ってしまう。
「姫は自分でそう判断しておるのだな」
「そう――です……同じようなことを、以前にも仰いましたね、そういえば」
「そうだ」
「苓南の砦、で?」
確認するように首を傾げると、拳で軽く額を小突かれる。
「きちんと覚えておるではないか――で、吾の云いたいことはやっと分かったのか?」
「はい――多分」
「多分、だと?」
じろりと見据えられ、青蘭はぴくりと肩をすくめる。
「多分?」
碧柊は低い声で繰り返す。
「だって……ここには雪蘭はいません――いるのは、私だけですから」
自信なげに言葉を紡ぐ。それでも視線を上げれば、真正面からのぞきこむような彼と目があった。どんな表情をすれば分からず困ったように眉を下げると、彼は小さく吹き出す。
「何故、笑うのですか?」
「いや、別に――はやく髪を乾かせ。置いていくぞ」
「そんな――傍にいてくださると仰ったではないですか」
慌てて碧柊の腕をつかみ、青蘭はそこではっとする。
碧柊も驚いたようだった。
「冗談に決まっておろう」
彼の言うとおりだった。冗談に決まっている。これまでも軽口や憎まれ口は珍しくなかったはずなのに、なにを今さら動揺しているのか。
「そ、そうですわね……」
さっと手を放し、青蘭は笑ってごまかす。動揺に混乱が重なり、それ以上取り乱さないように平穏を装うだけで精いっぱいだった。
<続く>