第5章 峠 7
交代の頃合になっても青蘭は眠っていないようだった。
焚き火の向こう側に横たわる背に声をかければ、小さく頷き起き上がった。そして頭巾を目深にかぶる。護衛の二人組も商人・汪永の配下だという。だが、これまでどおりに振舞うこととなっている。
青蘭と碧柊の素性を知らされているのかどうか。二人は碧柊に軽口をたたき、青蘭を労った。
寝床のある荷馬車に戻る道すがら、先を歩いていた青蘭がふと足を止めた。頭巾を少しずらして顔をのぞかせ、天を仰いでいる。
「どうした?」
碧柊も同じように中空を見上げたが、星月夜がどこまでも広がっているだけだった。月がないため星影は清かだが、特に惹かれるものはない。
青蘭は何でもないというように小さく首を振り、また黙って歩きだした。
青蘭は荷台の後部で足をとめる。
碧柊は「おやすみ」と云いおいて、去ろうとした。さすがに同じ床で休むわけにいかず、碧柊は荷台の前部になんとか空間を作り出してそこで体を休めている。
その背に、はじめて彼女が声をかけた。
「殿下――いえ、碧柊殿」
小さいが、凛とした声だった。
「どうした……いや、どうなさった、姫」
誰が聞き耳を立てているか分からない。碧柊は彼女のそばまで戻ると、声をひそめて囁いた。
青蘭は迷うそぶりを一瞬みせたが、唇を引き結んで毅然と顔をあげた。
「正直にお答えください。あなたは、私にできるとお考えですか?」
思いがけない提案に、心は揺れるばかりなのか。落ち着いて聞こえる声も、かすかに震えていた。
自信などあるはずもない。渦巻いているのは不安と疑念ばかりなのだろう。
頼りにできる言葉を欲しているのだろう。それにどれほど根拠がないと分かっていても、縋れるような言の葉を。
碧柊はそれを悟り、小さく首をふった。
「できるできないではない。するかしないか、それだけだ」
その台詞に少女が息を飲むのが分かった。欲しているのはそんな言葉ではない。それは碧柊も分かっている。そして、それが求めてはならないものだということを、彼女も理解しているはずだった。
「先のことは決して誰にも分かりえぬ。それはあなたも分かっておいでだろう」
「……ええ」
力なく青蘭は視線を落とす。
薄い肩。か細い手足。衣に隠されたその体がいかに華奢であるか。それを知るだけに碧柊は痛ましい想いで少女を見つめる。その肩を抱き寄せ、なにも思い煩うことはないと囁いてやりたくなる。
だが、それでは駄目なのだ。
傀儡として担ぎあげることも、平時なら可能だろう。事実、これまでの実態もそれに近かったのだ――特に西葉では。
だが、西葉東宮・蒼杞と碧柊の次に東葉王位に近かった明柊が組んでいるのだ。それも、どうやら雲行きは怪しくなりつつあるようだが。
蒼杞は父を手にかけたことで西葉の王権を手にした。明柊も雪蘭扮する“青蘭姫”を妃に迎え、東葉王に登極するという。
それに引き換え、今、碧柊の手にあるのは目の前で項垂れる少女一人だけ。
だが、彼女こそが最大の力を持つ。国境を越えた連帯を可能にするのは、葉の正当な王女であり、女王たりうる青蘭だけだ。それも当人がその気にならなければ、力は半減する。生半な決起は結局崩壊につながる。しない方がましだろう。
「――もし私が決めなければ……碧柊殿はどうなさるのです?」
まだ逃げ口を求める。それを責める気にはなれない。その役割を葉の王女から取り上げたのは歴代の男たちだった。それを急に負えといわれて、背負えるわけはない。絶対に嫌だと泣き出さないだけまだましだともいえる。
「そうなれば、吾が立つしかあるまいな。あなたに吾の妃となっていただくことが大前提だが、その場合、姫にしていただくことは二つだけだ」
「二つ?」
「吾の子を生み、吾の無事を祈る、それだけだ。あとは吾に任せていただけば良い」
「……」
それは本来、彼女に予定されていた人生だった。にも拘らず、青蘭は口ごもる。
無事を祈る。それは相当に厳しい状況の中でのこととなるだろう。わざわざそこまで口にする必要のないことは、彼女の揺れる眸をみればわかることだった。
追い詰めたいわけではない。むしろ守ってやりたい。すべての煩いから。
しかし、碧柊にそれだけの余裕はもはやない。彼女の力を借りるしかない。最も確実に彼女を守るためには、彼女自身が自ら立つことを選びそれを彼が全力で支える事が最善だった。
彼女は胸の前で手を組み、そこに逡巡を抱きしめるように俯いていた。月明かりすらない夜でも、その細かな震えが見て取れるようだ。
だが、碧柊はじっと堪える。今できることは、待つことだけだ。
やがて青蘭は顔を上げた。細かな表情までは見えないが、切実になにかを求める眼差しがまっすぐに碧柊をとらえる。
「……もし、決めたとすれば――ずっとそばに居てくださるのですね?」
「ああ、必ずだ。決して違えぬ」
思わずそっと頬に触れる。彼女はその武骨な掌に頬を擦り寄せるようにして頷いた。
「――もう少し、考えさせて下さい」
「ああ」
そっと髪に触れて撫でる。彼女はそれを払いのけはしなかった。
殊勝に頭を下げ、「お休みなさい」と云いおいて幌の向こうに姿を消した。
<続く>