第5章 峠 6
峠の関には明後日あたりたどりつくだろう。道の傾斜は増し険しくなってきた。
遠かった山々も日増しに近づき、尾根を隠す雲海が刻々と変化していくさまも見えるようになってきた。かわりに日中の暑さはやわらぎ、夜となれば涼しくしのぎやすい。
商人の言葉どおり、その後も二人の役割は変わらなかった。
三日目の夜も先に碧柊たちが夜警につき、深更には交代することとなっている。
焚き火に枝をくべる。その拍子に舞い上がった火の粉を眼で追うように顔をあげた青蘭に、碧柊が声をかけた。
「昨夜の話の続きだが、よいか?」
ぼんやりしていた青蘭は、その言葉に急に現実に引き戻される。はっとして碧柊を見れば、彼は真面目な顔でこちらを見つめていた。
「――はい」
小さく頷く。
青蘭が“青蘭姫”だと分かった以上、今後の話は重要になる。覚悟はしていたが、いざとなると身が硬くなる。
「そなたにはなにか考えはあるか?」
最初から単刀直入に問われ、青蘭は口ごもる。
この事態を何とかしなければならない。そのためには自分自身の存在が重要な鍵となることも分かっている。では、実際になにをどう考えればいいのか。
葉王家直系の王女である意味。そのために碧柊は西葉の降伏と引き換えに青蘭姫を要求した。彼女を妻に迎えることで、ゆくゆくは葉を統一するために。
けれど、もうその方法は通用しない。では、どうすれば良いのか。
青蘭自身が持つ役割に変わりはない。変わったのは状況だった。
青蘭は伏し目がちに小さく首をふった。それは予測の範疇だったのか、碧柊は「そうか」と呟いただけだった。
すっと心もち目が細められる。はじめてみるような厳しい眼差しだった。昨夜からの甘やかないろは微塵もない。何故かそれを受け止めきれず、青蘭はそっと目をそらした。
「そなたにはどれだけの覚悟がある?」
「――え?」
静かなその問いの意図が読めず、青蘭は反射的に顔を上げた。
碧柊の表情は変わらない。
「吾にそなたの身分を明かしたということは、同時に雪蘭殿の身が危うくなることも覚悟している――そうだな?」
「……はい」
今更動揺することではない。承知の上で打ち明けたのだ。だが、彼が問おうとしていることは、そういうことではない。それを感じ取り、緊張が増す。青蘭の声はかすれて震えた。
「葉王家直系の王女として――女神の末裔として、そなたにはそれを担うだけの覚悟はあるか?」
「――いったいなにを問おうとしておられるの……」
それだけ云うのがせいいっぱいだった。
碧柊はちらりと一瞬視線を泳がせ、それから青蘭の隣に移動してきた。
青蘭は反射的に後ずさりかけたが、彼の眸にそうはさせない強い力を感じて動けなくなった。
「あれから汪永と話し、吾もよくよく考えたのだが――」
汪永とはあの商人の名だった。青蘭が荷台に戻った後も、二人は長時間なにやら話し込んでいた。その内容までは聞こえなかったが、それを契機に碧柊は考えをまとめたのだろう。
「吾はそなたを妻に迎え、そなたの夫として二つの葉をまとめるつもりだった。そなたはただ吾の傍らにいてくれてさえいればそれで十分のはずだった。吾はそなたのもつ価値を利用するつもりだったからな。だが、それはもう無理だろう――この状況ではもうそなた自身が自分の持つ力を用いるしかない。吾はそう考えておる」
「私自身、が?」
依然、話の筋は読めない。
碧柊は触れてこようとはしない。ただ、隣でまっすぐに青蘭を見つめる。その瞳に宿る意志の強さに、青蘭はこれまでになく彼を恐れた。
「ああ、そうだ――そなたが女王として即位する。それが最善の策だろう」
「じょ、おう……でも、それは」
「これまでのような名のみのお飾りとしてではなく、古の女王のように自ら立つのだ」
彼の言おうとしていることが理解できないわけではない。だが、青蘭は凍りつく。想像したこともなかった。
長い間、王女はただ王権を次代に引き継いでいくだけの存在だった。
太古においては祭り事が政をも意味していたが、時代が下るにつれそれらは分かたれ、政は政治として男が司るようになった。王権を引き継ぐのは王女でありながら、それを手にするのはその夫だったのだ。
碧柊もその方法で葉をまとめ上げるつもりだった。だが、二つの葉の国はどちらもさらに乱れようとしている。東葉王子である碧柊の名のもとに再びまとめ上げることは不可能ではないだろうが、酷く難しいには違いなかった。
「――でも、私は……」
「考えたこともない、か?」
青蘭はこくりと頷く。
「そのように育てられていないことも、教育されていないことも承知している。一人で立てというわけではない。もちろん吾も尽力する。だが、立つのはそなただ。まずはそなたが心を決めねば成り立たぬことだ」
「……私、は……」
声がかすれて言葉にならない。
「今すぐ決めろというわけではない。だが、猶予もさほどあるまい。よく考えてくれ」
そっと力づけるように肩に手が置かれる。だが、それも一瞬だった。思わずその感触を追いすがりかけ、青蘭はそんな自分にはっとする。
「――碧柊殿、あなたは?」
なにかを求めるように、けれど、それが何なのか自分でも分からないまま、青蘭は彼を見つめた。
碧柊はそれにわずかに眉宇をひそめると、ぎこちなく目をそらした。
「女王の即位にあたり、盾の選定が必要となる――その時に吾を選んでくれるならば……そうでなかったとしても、臣下として一生そなたを支える」
それは一連の儀式だった。まずは王女が女王として即位し、女神の盾と称される役割に一人の男性を選ぶ。それが即ち夫であり、実質的には王となる。それがいわゆる婚儀でもあった。
青蘭が自身で即位するのならば、碧柊が夫である必要性は絶対ではない。
「――分かりました。考えます」
青蘭は喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
自分を選べ、とは言わないのですね。
それを言って欲しかったのか、それとも望んでいないのか。
青蘭は膝を抱える。無意識のうちに指先が首筋に触れていた。はっとしてひそかに赤面する。碧柊は焔を見つめている。その眼には珍しく揺れるものがあった。
昨夜、あのまま身を任せていれば、盾はどうあっても彼しかいないはずだった。だが、実際はそうではない。
彼は“青蘭姫”だからこそ彼女を求めた。だが、もう彼が“青蘭姫”を求める理由はなくなった。
青蘭は膝に顔を埋める。なぜか涙がこぼれた。その理由を薄々だが、ようやく悟りはじめていた。
<続く>




