第5章 峠 5
商人は二人に微笑みかけた。
「少々外してもらえますか」
その言葉は女に向けられた。彼女は青蘭の顔を見る。大丈夫だというように肯いてみせれば、心配そうな素振りを残しつつも荷台からおりた。
「ここではなんですので、御者台の方へお越しいただけますか」
それだけ云いおいていったん姿を消す。じきに御者とのやりとりが聞こえ、荷車は止まった。
青蘭は頭巾をかぶり、荷台から下りる。着地すると靴ずれや肉刺に痛みが走るが、昨日ほどではなかった。
言われるまま御者台に回りこめば、そこには商人の姿しかなかった。
「手綱は私がとりますので、隣へどうぞ」
そう云われれば従うしかない。隣に座ればじきに荷馬車は動きだした。手綱さばきは手慣れたものだった。
「もともとここが私の出発点なのですよ」
裸一貫から成りあがったのだろう。青蘭は頭巾の影で小さく頷いた。
「やはりあなたは女性でしたね」
何の前置きもなしにそう言われたが、不思議と青蘭は落ち着いていた。
「王太子殿下のお気の遣われようからそうではないかと慮っておったのですよ」
男装するように指示した本人から、それがばれていては意味もない。だが、仕方なくもあった。青蘭には多少太刀が使えるという以外、実際にこれと云って役に立てることはない。奥の宮育ちの身では体力も高が知れているし、そもそも小姓のふりをするなど最初から無理がありすぎたのだ。
それもまぁ碧柊の正体を知っている彼が相手だから云いだせたことで、本当に正体を伏せて潜りこむなら青蘭は娼婦のふりでもするしかなかっただろう。それも相当に無理があっただろうけれど。
青蘭はただじっとしていた。下手なことを口走るより、相手から少しでも引き出した方が賢明だ。
「警戒なさるのは無理もない。先に私のことから明かしましょう。私の主は岑家当主、岑雪蘭さまの義兄上です――雪蘭さまから青蘭殿下をお探しするよう指示が下されております。それに一昨日、新たな情報がもたらされました。青蘭殿下は東葉王太子と行動を共にしておられる可能性ありと」
淡々と告げられ、青蘭は頭巾の影でそっと息をついた。
ほっとしつつ、それでも緊張は解けない。どこまで信頼していいのか判断できなかった。即答を避ける。
「それからこれを」
懐から取り出したものを手渡される。それは掌におさまるほどの小さな絵だった。何のことか分からないままよく見てみれば、ひどく見覚えのあるものだった。
「――」
「そのもととなった絵は、東葉の王太子殿下が花嫁のために特別に描かせたものだとうかがっております。王太子殿下が苓南より行方不明になられたため、雪蘭さまが至急模写させてお配りになられました――これでは証となりませんか?」
実物と比べれば小さいがそこに描かれた彼は、確かに青蘭がはじめて目にした夫となるはずだった人物だった。
懐かしいような心地でそれを見つめながら、青蘭は小さく頷いた。
「ええ、私が青蘭です」
「よくご無事でいらっしゃいました――雪蘭さまもお喜びになられるでしょう」
「――そうね」
その彼女は未だ翠華に“青蘭姫”として在る。
こうして岑家配下の者に本物の青蘭姫の無事が確認されたということは、いよいよ雪蘭の身に危険の及ぶ可能性が高まることとなる。
こうなってもなお、青蘭に出来ることは無事を祈ることだけだった。
「東葉東宮殿下は姫さまのことをご存知でいらっしゃるのですか?」
「――昨日までは私を雪蘭だと誤解しておられたわ」
「そうですか」
彼はそれで納得したようだった。
昨日と今日で二人の人間に様子の違いを悟られてしまう碧柊のことを思うと、青蘭は笑っていいのかどうか分からなくなってしまった。
それからしばらくして、碧柊が戻ってきた。ただ青蘭の顔を見にきたつもりだったのだろうが、御者台に二人並んでいるのに気づくと慌てた様子で近寄ってきた。
「――どういうつもりだ」
表情は冷静だが、その声には険があった。
「まずはお乗りください」
促されて、青蘭は横にずれる。結局、商人と碧柊に挟まれる形になり、なんとも居心地の悪い想いをする。
どちらかといえば小柄で丸い体形の商人と、御者台にその長い脚を持て余すように座っている碧柊の間で、青蘭は身をすくめるように小さくなる。
膝の上に置いた手をぎゅっと握りこむと、そっとその上に大きな手が重ねられる。思わず振り払おうとしたが、押さえこむ力の方が強く敵わなかった。
すぐにそういうことをするから見破られてしまうのだという呆れた想いと、何故彼はこんなことをするのだろうという戸惑いの間で、青蘭はただじっとしているしかなかった。
「お話は青蘭殿下からうかがいました」
商人は温和な笑みを浮かべて碧柊に語りかける。
碧柊はぴくりと眉を動かし、ちらりと青蘭を見る。重ねられた手にわずかに力が込められる。どういうことだという無言の問いかけなのだろう。青蘭は答えようがなく、気付かないふりをした。
「私の配下のものは皆、岑家にお仕えする者です。ですがそうでない者も混じっております故、関を越えるまではこれまで通りでお願いいたします」
「ああ、承知した――関の警備はどのような様子だ」
「いずれの関も厳しくなっているようです。ですが、増員されたという報せはありません。念のため、日時を合わせて峠の向こうまで岑家の兵が出迎えに来ることになっております」
商人の言葉に、碧柊は眉をひそめる。
「それではかえって疑いを招かぬか」
「いえ、吾等が東宮殿下が撤退されて以降、報復を恐れてどこも峠道には神経質になっております。岑州でも数日おきに関の近くまで警備隊が出向いておりますから、特に怪しまれる恐れは低いかと思われます」
「それならば任そう」
すっと重ねられていた手が引かれる。
碧柊は腕組みをして何事か考え込んでいるようだった。
「――西葉の国内情勢のこと、姫には話したのか?」
「まだお話しておりません」
二人の声は平淡でいて、なにかを含んでいた。青蘭はそれを微妙に感じ取り、顔を上げる。碧柊と目が合うと、いつものように軽く頭を撫でてくれた。
そうしながら、彼は青蘭の頭越しに商人と目線を交えている。
青蘭は答えを求めて落ち着きなく頭をめぐらせた。
「なにが起こったというのですか?」
商人は答えようとしない。それに関しては碧柊に一任しているのか。
青蘭は碧柊の腕に手をかけて答えを乞うように見つめた。
「――西葉国王が崩御なされた」
「……父上が」
何故、という言葉が喉の奥で消える。病床にあったわけではない。持病を持っていたという話も聞いたことはなかった。
同時にまさかという想いが込み上げ、気がつけば指先が細かく震えていた。
「――兄上に?」
指先が白くなる。細い指先が上腕に食い込む。碧柊はそっとその上に手を重ねた。
「処刑されたそうだ――そなたを東葉に売り渡したという罪状で」
「――」
がくっと崩れそうになる。傾ぐ体を支えようと碧柊が腕をさしのばす。肩を支えられながら、青蘭は踏みとどまった。
「大丈夫です――兄ならそれもおかしくはないでしょう、昔からそういう人でした……」
肉親の情とは無縁な父娘関係だった。
妻を亡くした元凶と娘を顧みなかった父とは、十七年間で顔を合わせたのは東葉に嫁ぐ前の一度きり。どんな感慨も浮かばなかった。ただ、この人が西葉国王にして、自分の父親なのかと他人事のように見つめただけだった。
兄蒼杞も父と同じく遠い肉親だった。ただ、何度も命を狙われ、傍近くで仕えてくれたものが何人も命を落としたことで、親しみよりは憎しみの方が強かった。
「兄にとって邪魔になるのはもはや私だけですのね」
生きていると知れば、きっと殺しに来るだろう。たとえどんな手を使っても。
青蘭はきつく唇をかみしめる。おめおめと殺されるわけにはいかない。
気がつけば肩に手が回されていた。しっかりとした頼もしい力強さが伝わってくるようだった。
「大丈夫だ、吾が必ず守ってやる」
「――はい」
青蘭は少しためらった末、素直に小さく頷いた。
<続く>