第5章 峠 4
その朝、青蘭は朦朧としながら起きだした。
深更に夜警を交替し、休息用にあてがわれた最後尾の荷台まで引き上げる。商品でもある毛皮の山を布で覆っただけの簡易な寝床は、夏には少々暑苦しいが寝心地は悪くない。問題は二人で使うには少々狭いという点だった。
寝ぼけ眼の青蘭をそこまで背負って運んだ碧柊は、寝床に放り込まれるなりその真中で膝をかかるようにして丸くなった彼女に溜息をついた。
仕方なく他の荷に凭れかかって一夜の休息をとる。ゆっくり休めるわけではないが、野営に慣れた身にはそれでも十分だった。
そんな次第で寝床を占領していたことにも気付かず、青蘭は泰平楽に安眠を貪った。
すっかり日が昇っても起きだしてこないため、先に身支度を整えて荷台から降りていた碧柊は戻ってのぞきこむ。そこにあどけない寝顔を見つけて苦笑する。
彼が荷台に上がった反動で揺れるが、それでも彼女に眼を覚ます気配はない。
そっと傍らに膝をつきそっとゆり起せば、ようやく目をひらいた。まだ焦点の合わない眼でぼんやりと碧柊の顔を見る。あまりの無防備さに悪戯心を刺激される。
「朝食だぞ――青蘭」
耳元に唇を寄せて囁いてやれば、びくりと肩を震わせて瞬間で目を覚ましたらしい。目を瞠り碧柊を見上げる。長い睫毛が開閉を繰り返す。状況を把握するのに時間を要しているらしい。
その隙に乗じて朱唇をついばんでやると、みるみるうちに耳まで朱に染める。半ば無意識に後ずさる様子を複雑な思いでみつめながら、膝の上に配られたばかりの朝食の包みをのせてやる。
「おはよう、青蘭」
「……おはようございます、殿下」
もぞもぞと起き上がり、寝乱れた髪をばつが悪そうになおしながら視線を外す。彼の視線を受け止めきれないようだった。碧柊はその傍らに片手をつき、顔を近づける。青蘭は驚いたように顔をあげる。
「碧柊だ」
大きな黒い眼をのぞきこむようにして囁くと、彼女は近すぎる顔を押しやろうとする。
「……分かりましたから、碧柊殿」
これ以上なく頬を紅潮させる。碧柊は彼を押しのけようと無駄に足掻く彼女の手を取ると、その甲に口づけてさっと身を引いた。
青蘭はほっとしたように困惑した眼差しを彷徨わせる。
「食事と身支度は手早くすませた方がよい。もうそろそろ発つ。足の傷のことは商人に話しておいた。そなた、今日は無理はせずここで休んでおれ」
「けれど、それでは」
あくまで二人一組の計算で雇われたはずだ。今のところ役に立つどころか足手まといになっているが、だからと言って開き直ったように振舞うわけにもいかない。
「大丈夫だ――咄嗟の時に傷が原因で動けぬが最もまずい。峠の関まではあと三日だ。関で何が起こるか分からぬからな」
「……そうですね」
心苦しいのだろうが、それが現実と悟って受け入れたようだった。
「あの女にも一応声をかけておいた。様子を見に来てくれるかも知れぬ」
「――ありがとうございます」
自分でもいささかならず過保護だと思う。それを察したように彼女は苦笑まじりに礼を述べた。
碧柊が言い置いて行ったように、出発して間もなく、あの女が最後尾の荷台の幌を持ち上げて顔をのぞかせた。
「上がるよ」
一言断ると、身軽に乗り込んでくる。
彼女ら三人もいわば商品の一環で、逃亡を防ぐために列の中ほどの荷車をあてがわれている。そのわりに気ままに動くことを許されているが、いざとなればそうはいかないのだろう。
すでに頭巾を目深にかぶっていた青蘭は、その陰で微笑しつつ彼女のために場所を空けた。そこに腰をおろした彼女は、おもむろに青蘭の頭巾をおろしてしまった。
「――?」
「こんなとこでまで被ってる必要ないだろ。それに、あたしはあんたの顔も知ってんだし」
悪意のない笑顔を向けられると、青蘭も抗いようがない。苦笑しつつその言葉に従うことにする。
半ば強引に頭巾をはぎとられて乱れてしまった髪を直そうと手を伸ばしかけると、先に彼女の方が手を出してきた。
「なおしてやるよ」
青蘭の束ねた髪をほどき、懐からとりだした櫛で梳る。肩を覆う程度に短くなってしまった髪でも、梳けば梳くほど艶としなやかさが増す。
優しい手つきに青蘭は束の間ひどくほっとする。よく雪蘭がそうして髪を梳かしてくれた。なにもかもよく似通っている二人だが、この髪質だけは明らかに違うのよねとつくづく感心したように呟きながら。
そうしていると、ふと手が止まる。
「これ、どうしたんだい?虫にでも……」
首筋のところを指先で触れられて、青蘭ははっとした。昨夜のことを思い出し、耳まで熱くなるようだった。
その様子に彼女も察しがついたらしい。
「……あんたたち、実際は兄弟じゃないんだろ?」
青蘭はかろうじて反応を押し殺した。小さく首を振ると、彼女はふぅんと疑わしそうに呟く。
「まぁ、兄弟でもない話じゃないらしいけどね」
とんでもない誤解をされているらしいが、ただすためには口を開かねばならない。仕方なくともかく首を振る。
そんな青蘭に彼女は訝しげに眉をひそめる。
「でも、昨夜なんかあったんじゃないのかい? あんたの兄さんの様子もなんだか昨日とは違ってたしさ」
どう違っていたのか見当もつかない。今朝の様子は昨夜のあの時の雰囲気のままにあまやかなものだったが、まさか他の人間に対してまでそんなわけはあるまい。
「――まぁ、いいけどね。そこまで大切にされてるのを見てると、ちょっと妬けてくるけどね」
その言葉に青蘭は思わず振り返る。問うようなその表情に、彼女は眉をあげ、それから眉をひそめた。
「もしかして、自覚してないの?」
咎めるような口ぶりに、青蘭は慌てて首を振る。
そういうわけではない。過保護なほどだと思っているが、それは傍から見てもそうらしいというのが驚きだった。
「みてりゃわかるさ。だから兄弟じゃないんだろって聞いたんだよ。それなら分かるからね。あの兄さんはあたしたちにはちっとも興味がないようだしね。誰が迫ってもあっさりかわされてさ、女には興味ないんだろ、あの人?」
青蘭は首を振りそうになり、何故かとどまる。女らしさで云えば彼女らにかなうはずもない。彼が彼女らに関心を示さなかったのがふりだったのかどうかまでは分からないが、少なくとも自分についてはそうではないらしい。けれどそれは自分が青蘭姫だからなのか。
また暗い思いが去来する。
俯いた青蘭にかまわず、彼女は手早く髪をまとめてくれた。
「外に出るときは頭巾をかぶっときなよ、それ、目につくからね」
からかわれ、抗議するように振り返る。彼女は櫛を懐になおしながら、意味ありげな笑みを返してきた。
その時、幌の外から声がかけられた。碧柊の声ではない。それではいったい誰なのか。
二人は顔を見合わせ、彼女が「誰だい? 」と声をかけた。
「ちょっとお邪魔しますよ」
幌をあげ、顔をのぞかせたのはあの商人だった。
<続く>




