第5章 峠 3
なかなか言葉にならなかったはずなのに、いざ口にするとやけにはっきりと響いた。
沈黙がおちる。冬の朝の静けさのようだった。耳が痛くなるほど凍った空気と、全てを一色に塗りこめた雪。
高鳴る鼓動だけが支配する。
まっすぐに彼の眼を見て告白することができた。直後に目を逸らしたい衝動に駆られるが、ぐっと堪える。
それまでの優しく見守るような眼差しが一変する。一瞬大きく見開かれ、それからすっと細められる。
「そなたが青蘭姫だと?」
「はい」
しっかりと答えることができた。
本当は苦しいほどに拍動がはやまり、今にも気を失ってしまいそうなほど緊張している。声が、手が、全身がかすかに震えているのがわかる。
「真なのか?」
「はい」
小さく頷くと、彼は考えこむように視線を落とす。厳しい表情だった。
青蘭は胸が苦しくなる。ずっと謀ってきたのだ。もっと早くに彼を信じると決め、その上そう明言までした。その時に話しておくべきだった。今、ここで明かしたところで彼の心証が良くなるはずもない。軽蔑され、嫌われても仕方ないと覚悟を決めていた。いくら覚悟していても、その瞬間を待つ時間は辛いものだった。
「では、今、翠華いる姫というのは?」
彼の視線は焔に注がれていた。
「雪蘭です。私達は双子のように似ております」
「では、何故あの庭にそなたがいた?」
青蘭は俯き、ぽつぽつと経緯を語った。
おそらくは兄蒼杞の企みを知った雪蘭が、間際に青蘭だけ逃そうと入替りを提案したこと。それを不思議に思わず、受け入れたこと。云われるままに林泉の庭へ出て、碧柊と遭遇したこと。その後のことは彼も知るとおりだ。
碧柊はしばらく黙りこんでいた。
「――あの時、あの庭でわが手のものが覗見らしき者を一人始末している。その者がそなたを逃す手はずだったのかも知れぬな」
「……おそらくは」
「すべては偶然か――それとも女神のご意志か」
青蘭には答えられなかった。
碧柊は視線をあげ、項垂れる少女をじっと見つめる。
膝の上で握りこんだ指が白くなり、かすかに震えている。頬にかかる髪も揺れていた。
「何故、今まで黙っていた……いや、話せなかったのだろう――雪蘭殿の命が危うくなる故な」
従姉の名に、その薄い肩がぴくりと動く。しかし、答えない。
「黙っていては分からぬだろう。咎めているわけではない」
その声は思いがけず穏やかで優しかった。そのせいか、思わず堪えていたものがわずかに堰を越えてしまう。ぽたぽたと雫が拳の上に落ちるのを、彼も見ていた。
「雪蘭殿のためだったのだな?」
「……違います」
抗弁する声が震える。
「なにが違う。その涙はそのせいだろう」
「雪蘭は何よりも国を――葉を大切にするように云っておりました。けれど、私はそうはできなかった……約束したのに、私にはどうしても……雪蘭を失うのが怖くて――私のせいで雪蘭が死ぬなんて……」
「――そなたにとっては雪蘭殿が最も大切なのだな」
気がつけば温かな胸に抱きとられていた。強引に抱き寄せられ、さらに逃れられぬように強い力で封じられながら、その一方でひどく優しい手つきで髪を撫でてくれる。
息がつまり、涙も乾いてしまう。半ば混乱の極みでただひたすら身を固くしていると、束の間、額に柔らかい温もりが押し当てられた。それが唇だったと気づき、呆然とする。彼の意図がまったく読めなった。
「よく話してくれた――辛かっただろう」
それだけで十分だった。
まるで土手が決壊するように抑えてきたものが溢れだした。しがみつくようにすがりつく。涙があふれ止められない。感情の洪水に翻弄され、言葉が見つからない。ただ溺れまいときつく彼の服を掴めばその上から手が重ねられ、握りこんだ指をほどき指がからめられた。
頬を伝う涙を唇ですくわれる。流れた痕を遡るようにたどり、瞼にも口づけが落とされる。それはもう一方でも繰り返された。
さらに嗚咽を堪えようと食いしばる唇に唇が重ねられる。反射的に逃れようとすると後頭部を抱え込まれ、さらに深く唇が重ねられた。
繰り返し口づけられ、次第に深く求められる。舌が絡められ、逃れようとしても許してくれなかった。
やがて温かな感触は首筋へと移ろっていった。呆然と見開いた眼に、彼の髪がうつる。ぷんと汗の香りがした。肌をさらに熱く柔らかな感触が伝っていく。きつく吸われると、痛みとそれ以上に未知の感覚におそわれ、びくりと体が震える。知らず、甘いと息が漏れる。
いつの間にか胸元をひらかれていた。鎖骨のくぼみを舌先に探られ、さらに緩められた腰帯と胴衣の下から武骨な手が滑りこんでくる。
青蘭はさすがにそこではっと我にかえり、渾身の力でのしかかってくる大きな体を押しやろうとした。
彼もそこで動きを止め、訝しそうに顔をのぞきこんできた。青蘭は目にいっぱいの涙をためていた。
「――まだ早かったか?」
「……」
言葉にならず、開きかけた唇を引き結ぶ。
眦からこぼれた涙に唇が寄せられる。びくりと身を震わせたがそれ以上拒む気にはなれなかった。
「言っておくが、こんな事態になっていなければ、吾らはとっくに夫婦になっていたのだぞ」
からかうように耳元で囁かれ、くすぐったさに肩をすくめる。耳朶を甘噛みされると、いったん冷めかけた熱がまた戻ってくる。
「夫婦が何をするかを教えてくれたのはそなただろう?」
砦でのことを思い出し、いたたまれない想いがこみあげてくる。彼が子供だと呆れた理由をようやく悟る。
「ですけど……」
得体のしれない熱から逃れようと、彼をさらに押しやる。しかし逆に再び抱き寄せられ、息ができないほど強く抱擁された。
「兄が弟を襲うわけにもいかぬからな。今はこのくらいで辛抱してやる」
腕が解かれると、青蘭は弾かれたように逃れた。乱れた胸元をかき寄せ、落ちた腰帯を慌てて拾う。
そんな彼女の動揺ぶりとは対照的に、碧柊は悠然と笑っている。
「こんなこと……」
「婚約しているのだ、別にかまわぬだろう」
「今まではしなかったではありませんか」
くるりと背を向けて胸元を整える。狼狽しているせいか、なかなか手際よくなおせない。
その背後からふわりと腕が回された。
「殿下っ」
逃れようとしたが、逆に強く抱きしめられる。
「碧柊だ」
「――え?」
「名を呼んでくれ――青蘭」
耳元でささやかれると、急に切ないような胸苦しさがこみあげてくる。
「分かりましたから……碧柊、殿」
「――まぁいい」
少し不満げに呟き、頬に唇を寄せる。青蘭は身をよじったが、放してくれるはずもなかった。
「そなたが雪蘭殿ならこんなことはしない」
「――え?」
「はじめて会った時に云っただろう。妻とする人は一人だと。吾はどうあっても青蘭姫の夫とならねばならぬ。雪蘭殿であれ、誰であれ、青蘭姫以外の女性に手は出せぬ。だからずっと堪えてきたのだ――だが、そなたが青蘭姫その人なら何も問題はない」
「……私が“青蘭姫”だからですか……」
何故かがっかりしてしまう。
青蘭の声がいくらか沈む。それをどう受け取ったのか、彼は頬や生え際に何度も口づけながら呟く。
「そうだ」
体から力が抜ける。抵抗がやむと彼は再び口づけてきた。気が済むまで青蘭の唇を貪り、しなやかな体を抱きしめた末、ようやく解放される。
休むように促され、半ば放心したまま従う。荷物を枕にすれば、その頭もとまで寄ってきて髪に触れる。優しく撫でられているうちに、眠気が押し寄せる。
「この先のことは明日、二人で考えよう」
夢見心地に聞きながら、ふと悲しくなる。自分が雪蘭なら、もっと頼もしい相談相手になれるのに。けれどどうあがいても、青蘭は青蘭でしかなかった。
<続く>