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まだ見ぬ君に  作者: 苳子
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第1章 脱出 4

 息絶えたその人は、夜露にぬれた草のうえに横たえられていた。

 彼を取り囲むようにして膝をついた人々は、一様に押し黙っている。そのなかで王太子だけが立ちつくしていた。

 枝葉の切れ間からさしこむ月明が蒼く照らす。

 悼むように首を垂れて面を伏せる人々のなかで、佇む彼の顔だけがさらされている。

 青蘭だけが、彼らから離れて見つめていた。王太子に座らされた切り株は、彼らから僅かばかり遠かった。

 もたらされた報せの衝撃は大きく、それに続いた使者の死がさらに空気を重いものに変えた。

 その間、青蘭を気にかけるものは一人としていなかった。ただ一人、文字通り他人事のように事態を見つめているしかない。自分が異分子でしかないことは分かっていた。

 東葉王を手にかけた凶手は、西葉から来た花嫁の一行にまじっていた。西葉のものに違いないだろう。

 彼らにとって雪蘭を騙っている青蘭は西葉の人間で、よりにもよってその花嫁の従姉だという。しかも、実は従姉の雪蘭せつらんですらなく、花嫁たる青蘭姫当人だということは夢にも思わないだろう。この凶事をもたらした本人だと知られれば、いったいどんなことになるのか。

 使者の体から抜かれた矢は八本だった。しかも矢柄は東葉のものだ。単に敵と間違われて射られたのか、それとも窮地を脱した王太子の手のものと知った上で射かけられたのか。

 王太子をはじめ彼らが、この事態をどこまで把握しているのか分からない。矢柄が自国のものだと分かった時の空気は、良いものではなかった。

 死者を見つめる王太子の面は凍てついたように動かない。わずかにひそめられた眉宇以外は、無表情といってもよい。

 彼らが悼んでいるのは、目の前の使者だけではない。その死と引き換えに伝えられた、もう一つの死。

 彼らの王、東葉の王の死。

 青蘭は引き結んだ唇の端から、そっと息を押し出す。この場では指先一つ動かすことすら躊躇われた。自分はここにいることを許される人間ではない。

 ただ、凍りついたように息をつめ、けれど目をそらすことも許されない。

 東葉の国王は王太子の父でもある。そんな当たり前の事実を、立ちつくす人の姿を見つめながら何度も反芻する。

 彼は握り拳ひとつ作るでもなく、ただ静かに身じろぎ一つせず死に顔を見つめている

 東葉の王と西葉の王は、対照的な君主だった。

 東葉王は、若くして即位した頃から英邁な王との評判高かった。民衆の人気は篤く、その一方で果断な面もあり貴族や軍、官吏に睨みを利かせることも忘れなかった。親しまれつつも恐れられる、そんな王だった。

 そして、青蘭の父、西葉の王はまるっきり逆の支配者だった。

 葉王家の血筋は、女系で受け継がれていく。

 神の娘を始祖とするその血は、女を介してのみ伝わるとされる。故に王族を母に持たなければ、たとえ父が国王であっても王族とはみなされない。

 王位すら女を介して伝えられてきた。王族を母に持ち、さらに直系とされる葉王家の娘を娶ることでようやく即位できる。

 葉の国が二つに分かれたとき、西葉王家はその当時の女王を始祖に持ち、東葉王家は女王の弟からはじまる。

 葉の再統一にあたり、血筋の面で正統性を持つのは間違いなく西葉王家だ。しかも東葉王家の“直系”には、何故か王女が産まれることはなかった。

 一〇〇年以上に及ぶその時間のなかで、一人も王女が誕生しないことに、西葉はそれこそが動かぬ証左だとばかりに自国の正当性を声高に主張し、一方の東葉は民を育て、軍と官吏を律し、国を養い、国力を増すことで対抗してきた。

 その結果が、二人の現王に結実したともいえる。

 今や両国の民の暮らしには歴然たる差が生まれている。それがさらに憎しみを生んだとも言えるかもしれないが、それは西葉が怠惰に空費した一〇〇年のつけともいえる。

 後宮で育った青蘭はそれを知らずにいた。

 今回の婚儀にあたり機転を利かせてくれた雪蘭のおかげで、なにも知らないまま嫁ぐということは免れた。

 雪蘭は父を亡くした七歳まで王宮の外で育った。その後も父と縁のあった者たちとの交流が絶えることはなく、それが功を奏した。

 西葉の王位継承権を持つ青蘭の結婚にすら、国王は関心を示さなかった。その無関心をいいことに、雪蘭と青蘭は自分たちの思うままに支度を整えることができた。

 それはただ単に西葉王女としてのものではなく、両葉王家で最も高貴な血を持つ、次期『葉』の女王としての矜持を示すためのものだった。

 それは物質面だけでなく、主に青蘭とそのそばに仕える女官たちの教育に重きを置かれて行われた。それを王は知らない。

 東葉は西葉の王女を王太子の妻として迎えることで、西葉の次期王位も手に入れたも同然だ。次代で、実質的に葉は統一される。西葉が東葉に併呑されるという形で。それを許すことはできない。だからこそ、青蘭も覚悟をきめて嫁いできた。

 あらゆる面で東葉に劣る西葉の人々の、最後のよりどころは王家の正当性のみ。

 西葉最後の王女として、そして新たな『葉』の女王として、青蘭には両国民を対等な同じ『葉の民』として結び付ける役目がある。

 敗戦の降伏の証として嫁ぐのだとしても、それだけは忘れてはいけないと、雪蘭は何度も繰り返してくれた。

 そして、この現状。

 未だに争いは続いていたのだ。

 戦場のことなど、なにひとつ知らない。人の死にすらほとんど接したことはない。

 戦も人の死も、長きにわたる祖国の争いの歴史も、どこか他人事のように遠くに感じられていた。

 それでも、自分が嫁ぐことでそれらに終止符が打たれることに、ひそかな誇りすら感じていた。幼い頃から、王女という以外の価値を持たぬ役立たずと謗られ、嘲られてきた。そんな自分にしか果たせない役割があることが、正直にいえば嬉しくもあった。

 けれど、そんなことで終わらせられるものではないのか――

 東葉の王が死に、王太子が宮城を追われた。使者の話では王城も占拠されたという。それが誰の手によるものか、今のところ全く分かっていないようだった。

 目星ならついているのかもしれないが、誰もそんな話はしようとしない。

 さらなる混乱と争いを招くために、嫁いできたのだとすれば――

 王太子は死者の傍らに膝をついた。動くことのない胸元は濡れている。それが黒く見えるのは、衣の色なのか、それとも蒼い月光のためなのか。その濡らしているものが何なのか、青蘭にも分かっていた。

 未だ乾ききらぬ血。顔や手など見える部分を汚していた血は拭われ、その死に顔は安らかにさえ見えた。

 わずかに残っていたこめかみの汚れを、王太子は手袋を脱ぎ、その指先で拭った。それに誰かが声を詰まらせ、続いて押し殺した嗚咽が漏れた。

 王太子は拭いとった指先をじっとみつめ、ようやく握り拳をつくり、それを額に押し当てるようにして面を伏せた。

 その拳がわずかに震えていることを、青蘭だけが見取っていた。

 ますますいたたまれない想いで、身を縮こまらせる。

 両国の和平など笑止千万。自分がもたらしたのは新たな争いだけだった。

 そして自分がその張本人たる青蘭姫だということを、ここで曝け出せるだけの勇気も持てない。

 ただ小さくなって息をひそめていることしかできない。

 しょせん、自分はあの愚昧な王の子で、雪蘭とは違うのだ。

 ぐっと唇をかみしめると、じわりといやな味が口内に広がる。

 消えてしまいたいような想いで面を伏せる。 

 広がる血の味。それを吐き出すこともできず飲み下せば、吐き気ともなんともつかないいやなものがこみあげてくる。それを堪えていると、厳しい声がすべての空気を立ち切った。


「では出立する。皆、整えよ」


 それにこたえる低い応えには、すでに揺らぎはない。整然と動き人々の気配に、それでも顔を上げることもできない。

 このままここに置き去りにされるとしても、いっそその方がいい。


「行くぞ」


 声をかけられ、反射的に顔を上げる。そこには王太子その人がいた。厳しい顔をしているが、青蘭を咎めるいろも責める気色もない。ただ急がせる意志だけははっきりしていた。


「――」


 いいです、置いていってください、と。

 そう応じようとした。けれど、干上がった喉を伝う空気は声にならず、わずかな痛みが走っただけだった。

 その口元を見て、王太子は明らかに眉をひそめた。膝をつき、反射的に逃げようとした青蘭の顎をとらえ、手袋をはめた指先で唇をなぞる。


「ばかなことをする」

「……」

「そなたのせいではない」

「……」


 いくら出そうとしても、声にならない。ぱくぱくとただいたずらに口を動かす青蘭に、彼はやれやれと苦笑しあやすように頭を撫でる。

 それに振り払うこともできず、俯くことしかできない。涙をこらえると、ようやく喉の強張りが和らいできた。


「――あの人は死んで、あなたのお父上も……」

「ああそうだ。だが、今は悼んでいる暇はない。二人の死を無駄にせずに済むことが、まずはすべきことだろう――それはそなたも同じことだ。行くぞ」


 小さな頭を抱え寄せるようにして一瞬抱擁すると、次の瞬間には青蘭の細い腰に手をまわしひょいと肩に担ぎあげた。


「なっ――」


 衝撃で、すべての感情が一瞬遠ざかる。まるで荷物のように肩におわれて、青蘭はかっとなる。 


「なにをなさるんですかっ!?」

「ぐずぐずしている暇ないと言っただろう」


 じたばたする暇もなく、次には軽々と馬の背に乗せられる。結局ここまでと同じように王太子と同乗していくことになるらしい。

 それを誰も咎めようとしなかったが、鋭い視線はいくつか感じた。それを確かめる勇気は、青蘭にはない。

 青蘭の後ろにまたがった王太子は、うつむく彼女の細い体を抱き寄せ、その耳元にそっと囁く。


「後ろめたいことがないなら堂々としていよ。吾らの間には一〇〇年の恨み辛みがある。青蘭姫に仕えるそなたがいちいち委縮していては、主の負担が増えるばかりだ。そなたが盾になれんで如何する」

「――はい」

「今はそれで良い」


 ぽんと軽く頭を叩く、その声は優しかった。


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