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まだ見ぬ君に  作者: 苳子
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第5章 峠 1

 歩いているだけで汗がにじむ。

 頬を伝う滴を拭いながら、頭巾の影で青蘭は小さく息を吐いた。

 いつの間にか季節はいよいよ盛夏を迎えようとしているらしい。

 その間の記憶はこれまでの人生のなかで最も濃密でありながら、まるで一夜にみた夢の如く実感を伴わない。

 日の出と共に起き出し、身支度と朝食をすませるとあとはひたすら歩きづめだ。

 陽はそろそろ中天にかかろうとしている。

 閉ざされた空間で育った彼女が、これほどの時間と距離を自分の足で歩くのははじめてだった。




 初日だった昨日はひたすら歩くことに専念してなんとか夕方まで持ちこたえることができたが、一日で両足に立派な靴ずれと肉刺まめができてしまった。

 疲労困憊のまま、それでも碧柊と共に夜警にあたる。夜半にはあとの二人組と交代することになっていた。焔を絶やさないように頭巾の影から焚き火を見つめていても、ついつい体が眠気にかしぐ。

 そんな彼女に碧柊はともかく休めと云い渡し、強引に横にされてしまった。起きようとする頭を押さえこむ手に、逆らう力がなくなれば、そのまま優しく幼子をあやすように髪を撫でてくれる。そのままうとうとと微睡みかけながらも、結局眠れなかったのは痛みのせいだった。

 痛む足をどうすればいいか分からずともかくさすっていると、じきに碧柊もそれに気づく。

 足をみせるよう言われたものの、素足をさらすことを躊躇っていると静かに、けれど厳しく窘められた。しぶしぶ起き上がって長靴を脱いで足をみせると、彼は眉間にしわを寄せて溜息をついた。それにびくりと体を震わせると、半ば呆れたような、そのくせやけに優しげな笑みを浮かべて青蘭をみつめ、そっと頭を撫でてくれた。


「この状態でよく辛抱したな――だが、無理はするなと云っておるだろう」

「……申し訳ありません」


 傷が酷くなれば、足手まといになる。そうなる前に碧柊に相談すべきだったが、もう遅い。自己嫌悪に満ちた暗い声で詫び、俯いて肩を落とす。

 碧柊は困ったような顔をしたが、じきに小さな頭を抱え込むようにして引き寄られた。そのまま逞しい肩に頭を預けると、耳元であやすように囁かれる。


「咎めたのではない。褒めたのだ。いい加減、素直に受け取れないのか?」


 青蘭にとっては思いがけない言葉だった。

 呆れたような口ぶりにかわりはないが、そこに青蘭をかつて苛んだような響きはまったくない。むしろそれとは正反対のものだった。


「……ごめんなさい」


 戸惑った末に、結局同じ言葉を繰り返す。それに彼は苦笑したようだった。


「こういうときはありがとうございますの方が相応しかろう」

「そうでしょうか?」

「おそらく。少なくとも詫びるよりはな」


 そうですねと返そうとしたが、何故か言葉にならなかった。かわりに小さく頷き返すと、彼もかすかに笑ったようだった。

 それから足の手当てをしてもらい、渡された鎮痛剤を飲むと、あっという間に眠りに引き込まれてしまった。




 一夜明けると昨夜の泥のような疲労は失せていた。しかし四肢や傷の痛みはきっちり残っていた。

 朝食後にまた薬を渡され、いったん痛みは和らいだが、それもつかの間だった。

 朝も念を押すように無理をするなと言われたが、彼には彼の役割があり、今は馬にまたがり一行の少し先を進んでいる。

 痛みは気力を削ぐ。次第にぼんやりし、ついつい遅れがちになる。

 まるで子供のように華奢な少年の腕など、誰もあてにはしていないのは明らかだった。

 ぐいと汗をぬぐい、唇を噛みしめると少しは意識がはっきりする。

 うつむいてひたすら歩くことに専念していた彼女は、列の中ほどの荷車の荷台から誰かが飛び降り近づいてくるのに気づかなかった。


「辛そうね」


 突然声をかけられ、びくりと体を震わせて立ち止まってしまう。

 頭巾の影から見れば、よりにもよって昨日唇を重ねてきた女だった。

 戸惑う青蘭におかまいなしに、彼女は「いらっしゃい」と囁くとその手を掴んで引きずるようにどんどん進む。

 痛みに顔が歪む。苦痛の呻きを必死で堪えつつついていく。幌の付いた馬車のそばまでくると、彼女はゆっくり進むその荷台に身軽に飛び乗った。


「のぼって」


 戸惑っていると、無理矢理手を引かれる。つんのめるようにこけそうになっても、女は手をはなさず強引に引っ張り上げられてしまった。

 勢い余って荷台に転がりこむと、横になっていた二人の女が薄目を開けて咎めるような一瞥を寄こし、そろって背を向けてまた眠ってしまった。

 荷台には女たちの荷が積まれ、その間に彼女らは思い思いに横になり、荷物に凭れかかったりしていた。

 青蘭を連れ込んだ女は荷台の縁と幌にもたれかかるようにして場を開けてくれた。困惑していると、寝返りを打った他の女の足に蹴られた。仕方なくその厚意に甘えることにした。

 荷物と荷物の間の狭い空間だった。一人ならともかく、二人となると相当狭い。その上、日中のこの暑さだ。女は胸元が大きくあいた半袖の涼しげなかっこうをしているが、青蘭は胸にきつく晒を巻いている上、きっちり着込んで外套まで羽織っているのだ。肩を並べるどころかきっちりと体は密着する。暑苦しいことこの上ないが、痛む足を引きずって歩き続けるよりはましだった。

 碧柊が彼女に自分のことを頼んでくれていたのだろうかと訝しんでいると、そんな心中を見透かしたように女が笑った。


「そんなに緊張しなくてもいいよ。もう、昨日みたいなことはしないから。これはそのお詫びみたいなもんだからさ」


 頭巾を下ろすこともなく、小さくうなずく。それで満足したのか、女は笑って頷き返した。媚を含まない笑顔はむしろあどけなく、実は自分とそれほど年が違わないのではないかと青蘭ははっとした。


「あんたの兄さんって優しんだね」


 女の呟きに、青蘭は首をかしげた。その言葉に異議があるわけではなく、その響きにこめられた思いがどういうものか咄嗟に分からなかったからだ。


「弟思いの兄さんだろ?」 


 それには素直に頷いた。その仕草をどうとったのか、女は小さく笑う。


「あたしにも弟や妹がいたからさ――あたしが男だったら、今でもあんたの兄さんみたいに傍にいて守ってやれたんだろうなと思ってさ」


 青蘭を気にかけてくれたのは、そのかわりなのだろうか。青蘭は戸惑っていた。首を傾げるのもおかしいような気がする。

 そんな青蘭にかまわず、彼女は続けた。相手が発する言葉を持たないことを彼女も知っている。ただ、誰かに聞いてほしいだけなのかもしれない。


「五年前の冷たい夏、あんたは覚えてないかい?」


 青蘭のことをいくつも年下の少年だと思っているのか、覚えてなくても無理ないかもねと呟いた。


「秋にはほとんど稔らなかった。うちにはあたしの下に三人弟妹がいてさ、あたしが身売りするしかなかったんだよ。そうすりゃ一人分口が減る上、金も入る。家族が冬を越すには金が要ったんだ」


 己を憐れんでの言葉でも、青蘭の同情をひこうとするものでもなかった。さばさばした声は、ただふと昔を懐かしみたくなっただけ、ただそれだけのもののようだった。そこに何故か明るさのようなものを感じて、青蘭は戸惑う。その過去は決して明るいものでも幸福なものでもないはずだった。

 青蘭は困惑して俯く。

 五年前の冷夏と、その農業への被害の深刻さは青蘭も知っている。

 西葉でも同じような状況だった。農家では娘の身売りが相次いだ。取り締まるべく王領では禁止令が下されたが、実質的には守られることはなかった。そうしなければ冬を越すことができない人々がいた。そうせずに春を迎えられたのは、むしろ少数だったかもしれない。

 知っていた。けれど、知らなかった。

 それがどういうことか、本当の意味で理解できるはずがなかった。その冬も、青蘭はいつもの年と変わらず春を迎えたのだ。

 頭巾の影の顔が強張る。その空気が伝わったのか、彼女は申し訳なさそうにそっと青蘭の腕に触れてきた。


「ごめんね、そんなつもりで話したんじゃないんだよ――ただ、誰かに聞いてほしかっただけでさ。あんたの兄さんを見てたらさ、あたしが男だったら、なんて思ってさ……けどね、ほんとにあたしが男だったら、あの冬に家族のなかから死人が出たろうよ。売る娘のいなかった家はそうだったらしいからね。だから、それでよかったんだ……あのとき、身を売れるのはあたししかいなかった。それで誰も死なせずにすんだ。それにあたしも生きてる。あたしは自分にできることをしただけなんだよ」


 それで弟たちを守れたんだから、と呟いた。それはせめてもの慰めか、それとも矜持か。

 そっと影から伺い見る。女は詫びるように青蘭を見つめていた。その瞳に翳りはあるが、同時に強さも存在する。それは果たすべき役割を果たした人間のものだった。

 青蘭はその眼を直視することができなかった。

 果たすべき役割は青蘭にもある。それから眼を逸らそうといるのは、間違いなく自分だった。



<続く>

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