第4章 宿場 12
扉をくぐると、昼下がりの光が溢れた。
真昼でも眩しさとは無縁な暮らしが続いていた雪蘭は、足をとめて目を細める。
「姫君?」
じきに気づいた明柊が振り返り、雪蘭の手をとった。
扉の向こうには跳ね橋がおろされていた。後宮のある塔の周囲には堀がめぐらされ、水が満たされている。
季節は移ろい、盛夏へと向かっている。
直射日光と堀の水面に乱反射した光が目を刺し、視野に黒い影が焼けつく。
珍しく眼を眇めて辛そうな表情を浮かべた雪蘭に、明柊はその理由を察したのか顔を寄せて囁いた。
「その白い肌が夏の日差しに損なわれては一大事。影のあるところまでご案内させてください」
歩くのに支障があるほどではなかったが、否やと返す前に手首を掴まれてしまう。
拒む間もなく手を引かれるままに跳ね橋を渡ると、回廊にたどりつく。北向きの回廊は夏の午後でも涼しく、いったん眩んだ目にも優しい明るさだった。
気がつけば明柊はもう手を放してくれていた。
雪蘭は乱れかかった髪を手で撫でつけて整え、自分を見守るように動かない明柊にかまわず堀の向こうに聳える後宮の塔を見上げた。花柱の別名を持つその塔には、外壁にも優美な装飾が施されている。
女神の娘の住まいにふさわしい麗々しい鳥籠。いつの時代より女神から王権を授かったその娘を囲い込むようになったのか。女王を守る筈だった柵はいつしか檻に変じた。
「――何故、わたくしを外へお連れになったのですか?」
苓公は、通常王族の女性が人前に出る際に顔を隠すために必ず用いる薄いヴェールを使わせなかった。
元々女官であるため、面をさらすことに抵抗はないが、王女としては有り得ないことだ。後宮で素顔をみせたのは、青蘭の兄と婚約者となった明柊のみだった。
「あなたのような美しい女性を一人で愛でるのはもったいないでしょう。けれど、あなたは俺の妻となる方だ。要するにせいぜいみせびらかして羨ましがらせたいのですよ、世の男どもをね」
愉快そうに笑ってみせるくせに、その目は決して笑っていない。
それが真の理由ではないと悟り、雪蘭は小さく息をついた。
「不服ですか?」
「お好きになされば」
輿入れした西葉王女が従姉である女官とよく似ているという噂は、嫁ぐ前からずいぶん広まっていたらしい。入城式でやけに入替った青蘭に視線が集中しているような気がしたのは、事実だった。人々は秘められた王女の面影を少しでも見出そうと興味津津だったらしい。それを知ったのは、迂闊なことに後になってからだった。
他人事のように云い捨てられ、「冷たい方だ」と嘆いてみせる明柊に、雪蘭はうんざりした口調で声を
かける。
「それで、どちらへご案内してくださるのですか?」
「では、こちらへ」
明柊はそれまでの嘆きぶりなど瞬時に拭い去り、もったいぶった笑みを浮かべてみせ、恭しく右手をとる。雪蘭は一人で歩けますとそれを振り払おうとしたが、その前に彼がわずかに強く手首を握った。
「重々しく遇されるのも務めのうちですよ。奥の宮でお育ちになった深窓の姫君は、お一人で軽々しく闊歩なさるものではない」
顔を近づけたわけでもないのに、その囁きは嫌にはっきり届く。
雪蘭も軽挙を思い至り、やり込められたような悔しさを感じつつも、愛らしく微笑んでその白い繊手を委ねた。
その先は文字通り廃墟だった。
瓦礫はきれいに片づけられ、あとには装飾や壁、家具、絵画などありとあらゆるものをはぎ取られた、いわば骨組だけが残されているような状態だ。
あちこちに黒く変色したなにかが流れたような形跡が残されていた。
怪訝そうに眼を止めれば、明柊はそれに素早く気づいて「血の跡ですよ」と囁いた。
場所によっては胸が悪くなるような悪臭の残された場所もあった。おそらくは腐臭だろう。表情を変えれば、また彼がわざわざ解説してくれるのだろう。
それを想って顔色一つ変えずにいれば、まるでそんな胸中を見透かしたように薄い笑みを向けてくる。それを気に留めないふりをしていれば、それすら承知しているようにわざとらしく嘆じてみせるので、雪蘭は次第に苛々としはじめていた。
そんな巨大な廃墟のなかを行き交うものは少ない。城にかまっている余裕はないのだろう。
それでもすれ違う兵たちは、明柊に気づくと足をとめて恭しく一礼し、その場にまるで不釣り合いな美姫に目を瞠って二人の後ろ姿を見送った。
あえて明柊は連れが誰であるかを説明しない。明らかに女官ではないいでたちと、まるでかしずくような明柊の態度に、誰であるか推すのは容易い。
それにかなり常識はずれなことではあるが、彼ならば婚約者を外に連れ出すことくらいやってのけそうだと思われているようだった。
ひときわ広い広間に通された雪蘭は思わず足を止めた。
文字通り見る影はないが、一段と高いところに設えられた椅子の残骸は玉座のなれの果てだった。
「あそこで伯父上は命を落とされた」
「そうでしたわね」
目をそらすこともせず、ただ冷静な声音で応じる。
明柊はくっと口の端を持ち上げ、押し戴くように彼女の手を包み、その甲に唇をおとす。
雪蘭は振り払いたい衝動を辛うじて堪え、かわりに嫣然と微笑んでみせた。
「――それとも、ここまで兄がしでかすとは、計算違いでしたか?」
「耳の痛いお話をなさる。確かに多少のことは想定しておりましたが、まさかここまでなさるとは。並みの方ではないようだ」
「いまさらなにを驚いたふりをなさって」
皮肉な言葉とは裏腹に、浮かべた笑みはやわらかい。
明柊もそれを見惚れるように見守りつつ、目に浮かぶ光は冷ややかなものだった。
「いや、それは本当ですよ。諸侯を皆殺しにし、城下ですら似たような惨状です――挙句に城内はこれですから。裏で密かにとはいえ、手を組んだ相手に少しは遠慮していただきたかったものだ」
「ここまですれば、あなた方が手を組んでいたとは誰も思いますまい」
「どうでしょうね――実際、従弟殿は逃げおおせたままだ。彼は俺の裏切りを知っている。そしてあなたもね、姫君」
「従弟殿――碧柊殿下」
「そう、本来、あなたの夫となる筈だった本物の王太子殿下です。しかし今や立派な売国奴。追われる身だ」
「楽しそうですわね」
皮肉をこめて囁くと、彼はいかにも楽しそうに微笑んでみせる。
「ええ、楽しいですよ。どこまで逃げおおせ、どんな反撃に出てくれるか。このまま捕えられたり、どこかで行き倒れになるようならとんだ見込み違いだったということになるが」
その場合はつまらないですね、と付け加える。
「……まるで遊戯のように楽しんでおられるの?」
「ええ、遊戯ですよ。人生とはいかに楽しく暇をつぶすかということに尽きる。あれがどれだけ楽しませてくれるか、期待しているんですよ――それに、これでも一応約束は守っておりますし」
「――約束?」
酷薄な笑みに気圧されたが、それに続く言葉を紡ぐ声はやわらかだった。
つられるように問えば、明柊は目を細めて「ええ、約束です」と囁き返す。それは誰と交わしたものなのか。何故か続けて問うことはできなかった
「ところで姫君」
明柊は跪き、なにかを乞うように雪蘭を見上げる。
雪蘭は何故か彼のその口元に浮かんだ笑みを拒むことができないまま、まっすぐに見つめ返す。
「あなたには女王となっていただく――俺の共犯になっていただきますよ」
思いがけない言葉に、雪蘭は言葉を失った。
<続く>