第4章 宿場 10
割れた水差の始末をしてくれたのは、宿の主の妻だった。
扉の前に散らばった破片は、部屋から出ようとして落としたといえば通じるが、その肝心の扉に明らかな傷がついている。どちらかが投げつけたということだ。
夏だというのに室内でも頭巾を目深にかぶってじっと寝台にかけている小柄な人物と、無表情を装いながらも気まずさを隠しきれずに窓枠にかけている青年。
兄弟だと聞いているが。
さて、どちらが犯人か。
彼女は無駄な言葉を発さず、てきぱきと処理を済ませる。
「余計な手間をかけたな」
出ていこうとする背に声をかけたのは青年の方だった。
それに客向けの寛大な笑顔で応じて、扉を閉める。
こなごなになったものを投げつけられたのが誰なのか。分かったような気がする。となれば、投げつけた人間はもう一人の人物しかいない。
兄弟げんかにしては奇妙な空気に、本当の間柄は違うのかもしれないわねと心中で呟きつつ、宿場町の旅籠のおかみの心得としてそれ以上の詮索をやめたのだった。
おかみが出て行ったあと、残されたのは沈黙だけだった。
あそこで彼女がまるで女のような悲鳴をあげていれば、すべては水泡に帰していた。黙って物に当たってくれたのは幸いだが、果たして本当にそれで良かったのか。
おかみが出ていく時に残した一瞥には、意味ありげなものが含まれていた。
「……明け方まで起きていたろう。故に、まだ眠っているだろうと思って声をかけなかったのだ」
それは本当だった。起きていたとしても、まさかあの状況は想定していなかった。
青蘭にもそれは理解できる。だが、せっかくなんとか自力で気持ちを宥められつつあった矢先だけに、むしろ火に油だった。
彼に悪気がないことも分かっている。あの後に続いた狼狽ぶりは演技ではないだろう。彼になにか悪い点があるとすれば、それは間の悪さに違いない。
「ともかく悪かった――さきほどからさんざん詫びているのだ、返事くらいしても良かろう」
「……唖ですから」
かすれたような声で囁く。皮肉と厭味がたっぷりこめられている。
その屁理屈に、碧柊は困惑する。
昨日に続く今朝の出来事で、彼女が怒るのも無理はない。しかし、臍を曲げた女の機嫌のとり方なぞ習ったことはない。お手上げだった。
「明日には発つ。その前に打ち合わせは必要だ。聞き分けてくれ」
まるで頑是ない子供に言い聞かせるような言葉に、青蘭はぴくりと眉を動かした。が、言葉を探しあぐねている彼の姿に、結局妥協を選ぶしかなかった。
「――彼は……」
渋々肝心なことを切り出そうとすると、「しっ」と先を遮られる。
「近くへ」
用心するにこしたことはない。
青蘭は小さく息をつくと立ち上がり、窓際に置かれた椅子に移動した。
「あの者の正体は知らぬ」
「――なっ……」
あまりに率直なその言葉に、青蘭は絶句した。それを口にした当人はこれまでの様子はどこへやら、王太子然とした落ち着きを払っている。
「吾の顔と素性を知っておった。そしてこの事態の真相もな」
「誰が仕組んだかということも、ですか?」
「ああ。吾を見つけたら力を貸すようある筋から命じられておるらしい。あれには他に本来の務めがあるようだ。そこまでは決して明かすまいが」
「いったい誰が……」
そう呟きつつも、脳裏に浮かぶ一つの顔があった。そして、彼が負っているらしい本来の務めも。
黙り込んだ青蘭の顔は頭巾の影になり、見えることはない。にもかかわらず、碧柊は「心当たりがあるのか?」とすかさず問いかけてきた。
「あ、いえ……もしかすると、姫の手のものかもしれません」
「青蘭姫の?」
「はい。私を探しているのではないでしょうか。城内に私の死体がなければ、どうにか逃げ延びたものとお考えになったのかもしれません。もちろんこのような状況ですから、独自に情報収集なさっておられるのが一番でしょうけれど」
本当の狙いは青蘭姫の捜索だろう。けれどそれをまだ明かすわけにはいかなかった。
碧柊はだいぶ伸びてきた髭を撫でつけつつ、考え深げに視線を彷徨わせる。
「しかし、何故そのついでに吾に手を貸すのか」
利益が見出せない。王太子の後ろ盾てである嶄家の領地まで逃してくれるのならまだ理解できる。しかし、その嶄家の縁者を連れてわざわざ山の背を越えようとする東葉王太子の意図を、あの商人はどう読んだのか。
ただ単に、どのようなことであれ手を貸すように命じられているだけなのかもしれないが。
「それは私などには分かりかねます――それで、お聞きになった真相というのは?」
「ああ、これは大がかりな茶番らしいということだ。蒼杞殿と明柊が手を結んでいた」
「やはり」
「ああ、やはりだ――吾もとんだ大間抜けだ」
苦い笑みが浮かぶ。
青蘭は頭巾の影からその横顔をそっと盗み見た。その言葉は独白めいていて、どんな応えも待つものではなかった。どのような言葉をかけたところで、慰めにもならない。今、彼が必要としているのは慰めではない。
「これで蒼杞殿は西葉王への足がかりを得、明柊もまた同じ。奴らの目的は共通しておったわけだ」
悔しげな口ぶりだった。
「――少しは期待なさっておられたのですか?」
「ああ――西葉との戦後処理を、あれは手ぬるいと評しておったからな。統一を見越して手を打つなら、もっと厳しく対処せねばならぬと。ただ、吾の目的は西葉の併呑ではなく、祖国の統一であったからな。長く尾を引くこととなりそうな遺恨は避けたかった……それもたいがい甘いものであったが」
珍しく暗い眼をする彼を、青蘭はただ見つめるしかない。
「苦言を呈しつつも、最後には『愛しい君のために力は惜しみませんよ』と云ってくれたのだがな」
従兄弟の口真似をさも嫌そうにしながらも、浮かぶのは苦い笑い。
国の行く末を話し合える関係を二人は持っていたのだ。少なくともそこで碧柊が自分の心を偽る必要はないと思っていたのだろう。
青蘭はそこに自分と雪蘭の関係を重ねる。およそ似ても似つかぬ温度の違いはあるが、根底に流れるものには近いものがあるような気がした。だからこそ、彼は青蘭の従姉への想いを汲み取ってくれたのかもしれない。
「……西葉に行く目的は訊かれましたか?」
「いや。だが、嶄州を目指すなら西葉を経由した方が安全だろうと云っておったから、そう考えておるのではないか。王領もこの先はずいぶん警戒が厳しいらしい。嶄州は遠い故、西葉の港から船で行くならその手はずも整えましょうと申し出てくれた」
青蘭の存在を伏せている以上、商人も岑家のことは考えなかったのだろう。
「――事態は明らかになってきましたが、山を越えたら殿下はどう手を打つおつもりですか?」
「二人が手を結んでいることを暴露するしかないだろうな。蒼杞殿はずいぶんと大勢の東葉貴族を殺めて行ってくれたらしい。それと明柊が手を組んでいたと聞けば、方針を変えるものも出てこよう。それがどれほどの力となるか、まったく読めぬがな」
困ったものだと云いながらも、その口ぶりはさばさばしており、笑ってさえいる。
頭巾の影で青蘭は首をかしげたのに気づいたのか。
「不安がっておる暇はない。それよりも有効な手立てを考えねばな」
気楽にいい放って、傍らにある小さな頭を優しく撫でる。
その陰で青蘭は唇を噛みしめた。
その一番有効な手立てとなるのは、他ならぬ自分自身だった。
<つづく>