第4章 宿場 9
翌朝、目を覚ましてみれば隣の寝台はすでに空になっていた。彼が自分で整えたのか。使った形跡はない。一晩中まんじりともできなかった。それはお互いさまだったかもしれないが、少なくとも彼が出ていったのは深更ではないはずだ。
夏の夜明けははやい。東の空がかすかに白む頃に、ようやく眠りに落ちることができた。窓から訪れる風はまだ涼しい。陽も高くはない。それほど長く眠ったわけではないらしい。
起き上がる。こみあげる生あくびを噛み殺そうとして、唇に違和感を覚える。そういえば、昨日また自分で食い破ってしまったことを思い出す。それとほぼ同時に起こったことも。
森で文字通り口封じにされた時とは異なっていた。乱暴にのしかかられ、抱きしめられ、組み敷かれた。圧倒的な力でねじ伏せられたが、不思議と恐怖感はなかった。ひたすら怒りの衝動に支配されていたせいだろう。
そのあとの口付けは噛みつかれたようなものだ。よほど前回の方が優しかった。両方とも衝動のもとが欲望でないことは何となく察している。それでも力づくで一方的に唇を奪われて嬉しいはずはない。
その前に無理矢理ねじ込まれた彼の指先。その皮膚を食い破ってしまっただろう。口内にひろがった血の味がまだ残っているような気がする。その不快感に反射的に口を開きかけたところに唇を重ねられ、さらに貪るように侵入しようとしてきたもの。
知らず、指先が唇をなぞっていた。そこにまだ熱が残っているような気がして、頬があつくなる。
咄嗟に思い切り噛みついてやれば、彼は小さく呻いて身を引いた。口元から滴る血を見ても溜飲を下げることはできなかった。その血を拭う手の指先からも紅いものが滴っていた。
それから一言も交わしていない。
彼が下す必要最低限の指示に従い、ただ黙ってその後に続いた。
紹介された商人が、何故彼の正体を知ってなお手を貸そうとするのか。それを聞く気にもなれなかった。
原因はどれだろう。
己の無力さを指摘されたことか。しかし、それは反面まっとうな指摘でもあった。彼があのような口調でなければ、自分もあんなことを云いはしなかった。
自分の身代りに王城に残った雪蘭。雪蘭である“青蘭姫”を明柊が王妃に迎えるということは、少なくとも彼女が無事であるということの証にもなる。
けれど、本来そのような役割が彼女に回るはずはなかった。たとえ彼女が名に“蘭”を持っていても、いくら青蘭と相似であったとしても、彼女は王族ではない。
それでも雪蘭はその結婚を受け入れるだろう。むしろ、好都合だと判断するに違いない。こんな風に離ればなれになってしまうことは計算違いだったとしても、結果的には良かったと。
青蘭は明柊がどこまで事態に関わっているのか知らない。明柊は碧柊に害をなそうとし、その役割を襲おうとしている。首謀者には違いない。その企みの規模を知るすべはないが。
唯一つ確かなのは、それは青蘭と雪蘭が望んだ形ではないということだけ。
そして、明柊は“雪蘭”が王太子とともに逃げ延びたことを知っている。そのことを“青蘭姫”に告げるだろうか。
青蘭が無事だと知れば、雪蘭はなにか策を練るに違いない。今の状況では多くを知ることができるのはどう考えても雪蘭の方だろう。青蘭は雪蘭配下の覗見と連絡をつける術すら知らない。
もし、明柊が“雪蘭”のことを話せば、雪蘭は連絡をつけようとしてくれるだろう。青蘭が岑州へ向かおうとすることも察してくれるかもしれない。
ともかく岑州へつけばなんとかなるだろう。
しかし、それまで明柊が“青蘭姫”との婚儀を待ってくれるかどうか。
奥の宮で二人で彼の絵姿を目にした時。彼女は青蘭が嫌なら閨での代役をも受け入れるような発言をしていた。あくまで冗談だったが、それがこんな形で現実になろうとは想いもよらなかった。
王族として生まれた以上、閨のことも務めの一部。そう割り切っている青蘭は、自分の閨房について感傷的なこだわりはない。しかし、大切な従姉には自分と同じような結婚はさせたくなかった。自分には叶わない、幸せに通じるような婚姻を望んでいた。
この婚儀を防ぐ手立ては一つしかない。
本当の青蘭姫が名乗りを上げることしかない。しかし、そうした場合、一番危険にさらされるのは雪蘭でもある。
少なくとも今は、青蘭姫が入れ替わっているということを嗅ぎつけられてはいけない。雪蘭の命の保証はない。
部屋の隅の小さな家具の上に水差しと空の盥が用意されていた。水差しにはすでに水が満たされている。彼が準備してくれたのだろうか。
青蘭は空の寝台をじっと見つめる。
葉の行く末を任せるにふさわしいのは誰だろう。
したたかな明柊か。それとも碧柊か。兄の蒼杞は論外だ。
西葉国内ではどのような事態となっているのだろう。
分からないことばかりで頭が痛くなりそうだった。
選ぶのは青蘭の役割なのか。
相談できる相手は一人しかいない。ふさわしい人だと分かっている。それでも、云い出すことはできなかった。
もし話せば、正当な王女たる青蘭を担いでの動きを選択するだろう。それは相手が誰であっても同じことだ。それが間違っているというのではない。
ただ、そうなれば、雪蘭の命が危なくなるかもしれない。明柊はためらいなく彼女を切り捨てるだろう。それとも、使い道を探ってしばらくは生かしておくかもしれないが。
雪蘭のことを思うと、どうしても話せない。
約束したはずだった。
一番は私たちの故郷――
「でも、雪蘭、やっぱり一番大切なのは……」
一人の命を守るために、沈黙を守るというのか。
今とて、屍の上に立っている。その山はなんのために築かれたのか。
『吾らの生は他者の死の上にある――だからこそ、生き延びねばならぬ』
彼の言葉が蘇る。同じことを当の雪蘭も云ってはいなかったか。
分かっている。分かっていても、やはり決心がつかない。
ぐずぐずと洗顔をすませ、身支度を整える。
彼が書き置き一つ残さずいないということは、長く空けるつもりはないということだろう。
窓掛けを引いて胴衣を脱ぐ。下着姿になり、濡らした布で寝汗も拭う。
ぐるぐると思いは同じところを回っている。
今、ここで彼に真実を知らせたところで何ができるだろう。
自分も無力だが、それは彼とて同じ。
昨日、あんなことを云うつもりはなかった。
売り言葉に買い言葉というが、そんなものがあることをこれまで知らずにいた。雪蘭と諍ったことはない。奥の宮では争いは無粋なものとされ、もっと婉曲に陰湿に行われた。
それなのに、青蘭といえば彼と出会ってからは怒ってばかりいる。それを彼はこれまで受け流してくれていたが、昨日はそうもいかなかったのだろう。
同じところで立ち尽くしているのに、こんなところで互いに傷つけあってどうなるというのか。
青蘭の方から歩み寄らなければならない。あんなことがあった以上、彼からそうするのは難しいだろう。
胸元を拭いつつ、ふと手をとめる。
西葉に逃れて、それからどうするか。碧柊の手を取るなら、結局彼を夫とすることになるのか。
両腕の抜糸はまだ済んでいない。痛みはほとんどない。傷跡は残りそうだった。
白くて良い肌だと褒めてくれたが――
そこまで思い出して、いきなり恥ずかしくなる。
耳にまで熱を感じつつ、それを誤魔化すように慌てて残りを拭っていると、いきなり扉が開かれた。開けたのは碧柊だった。
薄暗い部屋に、青蘭の白い肌がぼんやりと浮かび上がっている。
お互いに凍りついたように見つめ合う。
一瞬遅れて、青蘭が胸元を両手で蔽い隠す。それにはっと我にかえった彼がまた扉を閉める。
閉じられた扉に向けて、空になった水差しが投げつけられた。
<続く>