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まだ見ぬ君に  作者: 苳子
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第4章 宿場 7

 彼が宿に戻ると、彼女が待ちかまえていた。扉が開くなり、がたんと大きく音をたてて椅子から立ち上がった。今朝の具合の悪そうな気色は治まったようだが、不安のためかすっかり青ざめていた。


「――」


 口を何度も開閉させるが、結局声にならなかったらしい。きつくスカートを握りしめた拳が細かく震えていた。


「遅うなって悪かった」


 あっさりと詫びるとつかつかと歩み寄り、まだ緊張を残した面で見上げてくる白い額を曲げた指の節で軽くつついた。


「案じたか?」


 からかうように笑んでみせると、彼女は口の端を引き結び、それから艶やかに笑い返す。


「いいえ――ただ、少々待ちくたびれただけにございます」

「よし、その調子だ」


 満足げに口の端を歪め、王太子は少女の髪を軽く撫でる。彼女はせっかく整えた髪を乱され、眉をひそめるとその手から逃れるように身を引いた。

 それを追うような真似はせず、彼は手にしていたものを空いた椅子に置く。


「これは?」

「西葉に向かう隊商に雇われることになった。そなたにはまた小姓に戻ってもらう。名前は覚えておるな ? 嶄白罧さんはくりんだ。唖だと伝えてある。ただし耳は聞こえる。そのように振舞えるか?」

「はい――それで遅くなられたのですか?」

「そういうことだ」


 青蘭は椅子に積まれたものを手にする。すべて男ものだった。


「詳しいお話はあとでお聞かせいただけるでしょうか?」

「ああ。だが、先に身支度をせよ。湯も頼んである。ついでに湯浴みもすませるがよい」


 その声を待っていたように、扉が叩かれた。  




 湯浴みと着替えを済ませると、廊下に出ていた彼が戻ってきた。

 濡れた髪を梳き流し、風に任せる。夏の陽射しが暮れなずむ頃、風はまだ熱をはらみ薄っすらと汗ばませる。思い切りよく短くした髪も、じきに乾きそうだった。

 丹念に布で髪の水気を拭う青蘭に対し、碧柊は整えられた寝台に腰かけたものの、すっと目をそらす。

 それに気づかぬまま、青蘭は言葉を待つように王太子を見つめる。

 彼は町で仕入れてきた情報を、取捨選択しながら青蘭に伝えた。

 あの苓南れいなんの砦での裏切りの日。明柊めいしゅうはあのまま苓州軍を率いて南下してきた西葉軍と戦火を交え、見事にそれを討ち払ったという。さらなる追撃を受けた西葉軍は、軍を率いていた西葉王太子蒼杞そうきとともにすでに国境の向こう側へ引き揚げたらしいという話だった。

 すべて伝聞に過ぎない。それでも、まったくの出鱈目ではないはずだ。

 いつしか青蘭はその手を止め、厳しい顔で口を引き結んでいた。

 彼女がなによりも誰よりも気にかけていること。それを彼も知っている。彼は小さく息を吐き、ただ平淡に告げた。


「苓公は王城に置き去りにされた青蘭姫と結婚し、東葉王位を継ぐそうだ」

「苓公殿下が、青蘭と……」


 膝の上に置かれた手が拳を作る。

 ひどく思いつめた様子で、少女は唇を噛みしめる。無理からぬことと思う一方、状況にも関らずいっこうに治らぬ悪癖が癇に障る。


「今、ここでそなたがそのような表情かおをしたとて、どうにもなるまい」


 心ない言葉が口をついて出る。

 少女は大きく眼を瞠ったが、じきに鋭い眼差しで非難するように見据えてくる。碧柊の言葉は酷いが、一面、どうにもできない現状を示すものでもあった。

 ただ、それが彼女の心情を思いやっての言葉ならば、そんな顔をさせることはなかっただろう。確かに思い煩ったところでどうにもならないのだ。それを汲み取っての台詞なら、同じ言葉でも彼女は頷いたかもしれない。

 その口ぶりには八つ当たりにも似た苛立ちが込められていた。唇をかむしかない少女へ向けられた苛立ちが。それは決して彼女を侮蔑するものではない。だが、思いやりとは真逆の負の感情には違いなかった。 

 彼女はただ静かに怒りを漂わせて彼を睨みつける。それ以外に感情の発露の術がないように。同時に、白い歯が桜色のやわらかな唇を食い破らんばかりに食い込む。きつく食いしばるように引く結んだ唇から、白い歯がかすかにのぞく。


「――殿下こそ、もうどうにもなりませんわね。あの苓公殿下のことです。じきに式を挙げてしまわれるでしょう。こうなってもなお、あなたに青蘭姫と葉の王位を掴むことができましょうか」


 まっすぐに見据えつつ、容赦のない言葉を吐く。

 碧柊の面が強張る。


「……吾には無理だと申すか?」

「あなたの甘さが招いた現状です。両国の争いを終わらせる。ただそのためだけに、せつ……青蘭姫は葉王家直系の王女の矜持を曲げて嫁いでこられたのです。私の大切ないとこを……姉を――こんな茶番の犠牲にするためではありませんでした。このように頼りにならぬお方なら、いっそ明柊殿にお預けした方が安堵できるというもの」

「――そなたは吾を信じると申したではないか」


 碧柊はぐいと彼女の顎をとらえ、もう一方の手で抗うとする手を卓の上に縫いとめて、のしかかるように組み敷いていた。

 吐息が絡むほどに間近に互いを感じつつ、阻む壁はこれまでになく厚い。

 ほとんど憎悪に近い光を浮かべ、互いに睨みあう。

 のしかかる重さから逃れようと足掻く体をさらに乱暴な仕草でかき抱く。

 彼女はその重苦しさから逃れるように身をよじり、唇をかみしめる。艶やかな頬に朱色の筋が伝う。それを見咎めるように、碧柊は食いしばる歯列の間に指先をねじ込んだ。

 口内に鉄錆の味が広がると、驚いたように大きく眼が見開かれる。

 その隙を見計らうように、彼は乱暴に再び唇を奪っていた。


<つづく>

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