第4章 宿場 6
柔らかな日差しのさしこむ窓辺で、一人の少女が頭を抱えていた。
窓辺に置かれた、粗末だが丈夫そうな木製の椅子に腰かけ、小卓に突っ伏している。吹き抜ける風が寝乱れた髪を揺らしていく。
厩のある宿の裏庭に面した窓は、表の通りの賑わいと比べれば静かなものだ。
そこへ青年が入ってくる。手には木製の杯と器。底の浅い器からは湯気が立ち上っている。
寝台は人の這い出したままに乱れている。そこを一晩占拠していた人間は、自分の行いを懺悔するように顔を伏せていた。
彼はやれやれと苦笑しつつ、窓辺まで寄ると外を見まわす。それから彼女の肩を揺すった。
ぐずぐずと面をあげた少女の顔は蒼く、いかにも具合が悪そうだった。
うとうとしていたのか、傍にいるのが誰かを理解するまでにしばらくかかる。その間、彼はじっと待っていた。
「――殿下」
「……まずは水だ」
清水の満ちた杯を手渡され、青蘭はゆっくりと口に運ぶ。よほど喉が渇いていたので、一息で飲み干そうとするのを途中で邪魔された。
「何故にそなたはそうがっつくのだ。まったく、奥の宮の育ちはとうてい思えぬな」
「――」
不機嫌そうに睨みかえされ、碧柊はその眉間の皺を指先でつついてやる。
「一気に飲めば、吐くことになろう」
指摘通りだったのか、青蘭は口元を押さえて俯く。堪えているのは頭痛と吐き気、そしてなんとも言いようのない倦怠感。
「二日酔いだ、愚か者め」
「――」
「なんだ?」
聞こえなかったため、身をかがめて耳を近付ければ、細い手が伸びてきた。
「教えて下されば良かったのに」
恨みがましそうに眇めた目で見据え、やや乱暴な仕草で彼の襟元を鷲掴みにする。
一瞬息が詰まりかける。
この娘はどうしてこう粗暴な振舞いが可能なのか。奥の宮ではよほど上手に猫を被っていたのだろう。それとも東葉より古い血筋と歴史を持つ西の葉の国の女性は、祖神たる女神の有り様により近いということなのか。
碧柊は気弱なくせに強気な娘を興味深く見つめる。
「一気に飲み干すとは思わぬだろう」
まっとうな言葉に、彼女も痛いところをつかれたのか。恥じるようないろを見せつつ、その手を放した。
「――昨日は朝から一滴も口にしていなかったのです」
砦から逃れてからこちら、彼女は一言も空腹や喉の渇きを口にすることはなかった。腕の傷の痛みすら、じっと堪えていた。
碧柊は「そうだったな」と呟くと、取り上げた杯を返してやる。
「ともかく少しずつ飲め。それから朝餉だ。塩味だけの粥ゆえ、これなら喉も越そう」
「……ありがとうございます」
力なく礼を述べると、青蘭はのろのろとそれを受け取り、小さく息をついた。
「誰もが一度は通る道だ。昼頃には治まるだろう」
「殿下も身に覚えが?」
「ああ、ある。何度もな。幾度も二度と過ぎるほど飲むまいと思うたが、こればかりは無理だな」
自嘲もこめて薄く苦笑する。無精髭に覆われた顎をさすりながらの言葉に、違和感はない。青蘭は一口清水を含むと、力なく微笑する。
「それほどに酒とは良いものですか?」
「ああ、良いものだ。むしょうに愉快な気分になれよう。そなたも昨夜は楽しそうだったぞ」
「そうでしたか?」
飲んだ直後から次第に体があつくなり、それと同時に眠くなったことしか覚えていなかった。首をかしげる青蘭の杯は空になっている。そこに水を注いでやりながら、碧柊は笑う。
「ああ、従妹殿の名を呼んで笑っておった」
その言葉に、さっと彼女の顔が強張る。
「……名を?」
「ああ」
彼女がとたんに表情を曇らせた理由など、彼には想像もつかないだろう。
酔った後の記憶はない。
夢見心地にみていたのは、遠い日の初雪の朝のこと。はじめて他人と眠った温もりの夜の記憶。今朝、二日酔いとやらの酒の逆襲に遭うまでのほんの束の間、夢現に噛みしめたのはその優しさだった。
雪蘭と呼んだに違いない。その名は呪いにも似て、彼女にとって一番大切な名であり、言葉であり、支えでもあったから。
雪蘭を名乗る娘がその名を慕わしげに呼ぶことを、彼は不審に思わなかったのだろうか。
夢を見て呟いた彼女のことを、ただ彼は微笑ましげに語った。
王女と女官が入れ替わることなど、普通は考え及ばないだろう。だからこそ、有効な手立てとして用いてきたのだから。
何故、彼が不審に思わなかったのか。それは分からない。不審を抱いていないと分かっただけでも良しとするしかない。踏み込めば、要らぬ疑惑を呼ぶ。
そこまで考えて、どうしてまだそれを伏せていようとするのか自分でも分からなくなる。
表情を険しくて俯いた姿を、また二日酔いの波が寄せてきたのだろうと解釈して、彼は立ち上がった。
「吾は出かけてくる。昼までには戻る。なにかあればこの窓のすぐ下に小屋の屋根がある。そこへ飛び降り、厩の馬を使え。金も半分置いてゆく」
小さな革袋を青蘭の膝に乗せる。
使い方を習っていない青蘭はその重みをただ感じるしかない。
「宿のすぐ近くにおる故、じきに吾も駆けつける。有事の際は出来るだけ騒動を大きくせよ。逃げる際は昨日入ってきた門とは逆に逃げよ。できれば山の背を目指せ」
「はい」
小さく頷くと、不安の色を隠せない華奢な肩を力づけるように軽く叩いて、彼は出て行った。
ちょうど市の立つ日であったのか、通りには即席の店が続々と支度を整えつつあった。
町の周辺には取り巻くように農家が散在している。牧畜と農業を兼ねる家が多い。地味に乏しい土地柄故豊かな稔りは期待できないが、ささやかな街道の宿場町を通過する旅人達の腹を満たすには十分だった。彼らが現金収入を手にできる貴重な機会でもある。
引いてきた荷車を横着にそのまま店のかわりにするものもあれば、布を広げて商品を並べる者もいる。
戦火はここまで及んでいない。
それはもっと北の、王都翠華の周辺に集中しているらしい。苓州まで迫った西葉軍を苓公明柊が撃破し、王都を奪還せんとさらに進軍しているらしい。
一時は不穏な空気も漂ったのかもしれないが、戦火が遠ざかったと聞けば、あとは暮らしが続くのみ。
北方の戦火を逃れて南方の都市や領土に向かう人々で、むしろ宿場町は通常よりにぎわっているらしい。
西に西葉に通じる峠道をのぞみつつも、難所で名高いそこを越えて援軍がやってくる可能性は極めて低い。碧柊もそこが難所だとは知っている。実際に目にしたことはないが、切り立った断崖に沿うように細い山道が刻まれ、東西を行き来する隊商のなかには滑落事故で命を落とすものも少なくないらしい。無理に軍を通したとしても、その何割かを崖の下に失う計算を最初からしておかなければならないほどだ。だからこそ安穏とした空気も漂っているのだろう。
町を歩く彼の姿は若い流れ者にしか見えない。翼波との負け戦のおり、一人はぐれて辛酸をなめた経験を無駄にはしなかった。身をやつして城下に下りることは日常の一部でもあった。
彼が探しているのは、西葉に向かう隊商だった。
青蘭と二人だけで峠道へ向かえば、警備の目を引きやすい。彼一人で逃れたとしても、夫婦連れを装うために女を雇うこととて十分に考え得る。それよりは隊商に紛れてしまった方が安全だった。すでに隊商路として何度も往復し、見張りの兵に顔が利くものであれば、云うことはない。
王領内での食料は自給では賄い切れていない。どうしても西葉からの食糧の輸入に頼らざるを得ない。西葉は西葉で様々な鉱石や薬草、東葉特産の高級毛織物など欲しいものはいくらでもある。
問題は、このご時世に発つものがあるかということだが。
昼には戻ると言ったが、それまでに目途をつけるのは難しいかもしれない。
そう考えつつ、まずは情報を集めようと居酒屋に向かおうとした碧柊の肩を叩くものがあった。
「王太子殿下、どちらへ向かわれます」
<つづく>