第4章 宿場 5
宿の厩に馬をつなぐと、碧柊はそのまま青蘭を伴って居酒屋の扉を開けた。
東葉では宿と居酒屋の兼業は認められていない。そのおかげで喧騒に悩まされることなく休めるのだが、不便といえば不便だった。
宿から居酒屋まではすぐだった。その道すがら、彼は彼女にいちいち驚かずに静かにしているように言いきかせた。小首を傾げると、彼は慣れない手触りの顎をさすりながら苦笑する。
「奥の宮とは正反対のところ故な」
「正反対、ですか」
「男ばかりで喧しいところだ」
そういった彼の言葉通り、その店内は外へ漏れていた騒音から覚悟した以上のものだった。
煙草と酒と人いきれでむっとしている。
顔を隠すように目深にかぶったショールの影から、青蘭は興味津々に店内を見やる。碧柊は片隅に目立たない席を見つけると、青蘭の手をとってそちらへ導いた。
促されるままに腰かける。あちこちで騒ぎ立てる男たちを適当にあしらいながら近寄ってきた女性に、碧柊はなにやら話しかけている。喧騒でその内容までは聞こえない。
卓をはさんで反対側に腰を落ち着けた碧柊が、肘をついて顔を寄せてくる。膝に手をのせて物珍しげに店内を見渡していた青蘭に手招きする。そうしないと互いに声が届かないことに気付き、彼女もならう。
「食べられぬものはあるか?」
「え――いいえ……ここで食事を?」
不思議そうに少し離れたところに座る男の三人連れを見やる。
彼等の手元にあるのは、なにやら飲み物が入っているらしい瓶と人数分の木の杯だった。
不思議なのは赤い顔をしたものが多いことだった。窓が開き、心地よい夕べの風が吹きこんでくるため、汗ばむほどではない。
「他の者たちも食べておろう」
「そうですが、食べているというよりは……」
「酒が目当ての者の方が多いだろうな」
「酒、ですか」
「呑んだことがないか?」
なにやら愉快そうな視線を受け、青蘭は首をかしげる。
「いえ、少しなら。儀式の際に供されますから」
「それはおそらくたしなむ程度というものなのだろうな」
どういう程度なのか、青蘭には見当がつかない。
祭事に即しての酒は盃一杯。神への捧げものはその恩恵の一環としてわけ与えられる。それ以外に口にする機会はなかった。
じきに食事が運ばれてきた。湯気とともに食欲をそそる香りがたつ。それと引き換えに給仕の女に彼はなにか手渡していた。
その視線に気づいた碧柊は、彼女の当初からの戸惑いの理由をようやく悟ったように苦笑した。
「これは銭だ」
そういって、銅貨を手渡す。
受け取ったそれを、青蘭はしげしげと眺める。丸くて薄い、そして小さい。指先で弾くと金属質の音が響く。
「使い方は後で説明する。先に食せ。冷める」
「――」
指先に銅貨を握ったまま、青蘭はもの言いたげに王太子を見た。彼は焼きあがったばかりのなにかの肉の塊をじかに手に取ったところだった。目が合うと、すかさず鋭く眇められる。内心の動揺を見咎められ、青蘭は感傷的な逡巡を恥じ、目の前の皿に手をのばした。
吊るされた死体も、彼が手にしている肉も結局は同じこと。踏みしめるか、噛みしめるか。
野菜とともに柔らかく煮込まれた肉汁が口内に広がる。
「うまいか?」
「――はい」
強がりではなく、空腹に広がるその味は極上だった。こぼれそうになるものを誤魔化すように嚥下し、ふっと息をつく。塩漬けした干し肉を水や湯で戻すだけの食事が続いた末のこの食卓は、これまで口にしたどんな贅沢な料理よりも御馳走だった。
「いつでも食べられるわけではない。摂れる時に摂っておくことだ」
「はい」
ただ泣きたいのか、泣きたくなるほど美味しいのか。それも判断がつかぬまま、青蘭は食事を続けた。
そこへ杯が一つ運ばれてきた。満たされているのは濃紺にも見える深い色合い。ぷんと甘い香りに混じって独特の香気がまじり、酒だと知れる。ただし、青蘭には未知のものだった。
「景気づけに一杯だけな」
碧柊はそう云って笑った。言い訳がましい言葉の響きを感じ取りつつも、嗜好品としての酒を知らない青蘭にはそれが何に由来するのか分からない。
ただ興味深そうに眼を見開いて瞬きする様子を見て、碧柊は悪戯心を刺激されたらしい。
「呑んでみるか?」
「いいのですか?」
「ああ」
ことんと小さな音を立てて素焼きの杯が置かれる。器としては素朴で粗野であり、注がれたものも王城で振舞われるものとは比べものにならない。そんなことは青蘭には与り知らぬこと。好奇心も手伝って、恐る恐る、けれどかなり乗り気で口元に運ぶ。
酒独特の匂いより、果実のような甘い香りが先立つ。口当たりは優しく、飲みやすい。くいと一息に飲み干してしまった。
「おい」
「……はい?」
きょとんと顔を上げる。その手元にある杯は空になっている。
碧柊はしまったと舌打ちしたが、あとの祭りだった。眉間に皺を寄せつつも、こみあげる笑いも誤魔化しきれず。
「旨かったか?」
「はい」
急速に紅潮しつつある頬に満面の笑みを浮かべて嬉しげにうなずく。
それを前に窘める無駄を悟って、碧柊は酒の追加を注文した。
かさばるお荷物を背負って宿に戻る道すがら、碧柊はさんざん後悔していた。
「弱いなら一気飲みなどするな」
果実酒を一息で飲みほしてほどなく。耳まで赤くなったなと思うとほぼ同時に、卓を枕に撃沈したのだ。
酔った勢いで要らぬことを口走られるよりはましと、黙々と残された料理を平らげた碧柊だが、泥酔の連れを背負って帰るのも彼の役目だった。
荷物というにも背負ってしまえば軽い。
幸い宿も近く、酔いつぶれた相方をおぶって戻った客のために、宿の主は部屋の前まで付き添い、わざわざ扉を開けてくれた。
酔った勢い云々の宿の主の余計な付け足しに内心立腹しつつも、感謝する。
一応、若い夫婦連れを装って宿は取ってある。別室にした場合、なにかあった際に対応しきれない恐れがあるためだが、少年の供をつれた王太子の手配が回っていることへの対処でもある。
おぶってきた体を寝台に横たえる。
ごろりと横になった青蘭は、それにも気付かず心地良さそうに寝息を立てている。乱れた裳の裾を直す代わりに掛け布団で覆い、頭の下に枕を入れてやる。
小さな頭を支えた手を引こうとすると、思いがけず彼女がその手に手をからめてきた。
「……おい」
酔っぱらい相手に戸惑いつつ、碧柊はそれをほどこうとする。
酔った少女はその手の甲に頬を擦り寄せてきた。
「……蘭、いっしょ……あったかい……」
誰に囁いているのか。頬を染めつつ、呟く表情はあどけないものだった。
「それは酒のせいだ」
溜息とともにそっと手を引いて、そっと額にかかる髪を指先ですくい取る。
姉妹同然に育ったという青蘭姫と雪蘭。夢見心地で囁くそれは思い出なのか。一つに寝台で供寝したこともあったのだろう。まるで双子のような面差しの少女が頭を寄せ合って、安らかに眠っている様は想像するだけで微笑ましくもある。
それにすら後ろめたいような想いを抱き、碧柊は外套をまとったまま冷たい床に横になった。
<つづく>