第1章 脱出 3
随道はずいぶん長く続いていた。それまでとは一転して、王太子はほとんど口をひらかなかった。従者達も沈黙のまま先を急ぐ。
おとなしく身を預けた青蘭は、道を照らす男の後ろ姿が王太子のものと似ていることに気付く。同じ衣裳を身にまとっていれば、とっさに見分けることはできないだろう。彼の側近であり、時には身代わりをつとめることもあるのだろう。
自分と雪蘭の関係にもそういう側面がある。時々入れ替わるのはそのためでもある。双子のように似通っているからこそ、意識的に互いを演じる練習をする必要があった。
整然とした足音が後からついてくる。軍靴の重々しい音は、乱れること無く残響を引く。近衛の者達なのだろう。松明をかかげる男の襟章は一本の大木をあらわすもので、西葉の近衛も同じ襟章を用いている。
沈黙と規則正しい足音と背のぬくもりに、いつのまにか微睡みにとらわれていた。
優しく揺すぶられていた。夢見心地のままうっすら目を開け、頬に微風を感じる。空気は黴臭いものではない。
寝呆け眼であたりを見回す。鬱蒼とした森らしく、木々の葉擦れが囁きかわしている。枝葉の彼方にぽっかりと口が開き、そこから月明かりが差し込んでいた。
今夜は半月。あえかな光に浮かび上がるのは、風化して崩れかけた石壁と男たち、そして落ち着きなく地面をかく馬たちだった。
男たちは静かに囁きかわしている。武装しているらしい。金属が触れ合う音もする。
「そろそろ起きていただこうか」
青蘭が身じろぎしたのに気付いたらしく、声がかかる。
「起きています。おろしてください」
彼は無言で膝をおった。その背から慌てておりようとして、足元がふらつく。長時間おぶわれていたせいか、膝にうまく力が入らない。そのままぺたりと座り込んでしまう。
その気配に彼は立ちあがりながら、肩越しに振り返る。
「人並みに腰が抜けたか」
「足に力が入らなかっただけです」
きつい口調で言い返し、急いで立ち上がりかけたところを阻まれる。いつの間にか軽く肩を押さえこまれていた。睨みつけるようときっと顔を上げると、至近に王太子の顔があった。月明かりの影になって、その表情は見えなかったが、声は笑みを含んでいた。
「次は顔から着地されるおつもりかな」
「平気です」
「――ほう、では、試してみられよ」
ぐいと両腕を掴まれて、無理に立たされる。そのまま支えてもらっていても、足元は不安定なままだった。いつの間にか、痺れてしまっていたらしい。
「このまま腕を放しても?」
そう云って、からかうように笑う。すっかり見透かされているらしい。青蘭は口惜しさに唇を噛み、ついっと顎をそびやかす。
「難儀している女性をからかうなど、いいご趣味とは思えませんけれど」
「おや、お困りでしたか?」
そう問いかける声は、あきらかにおもしろがっている。本気でその足を踏みつけてやりたかったが、不幸にも足を動かせる状況ではない。
彼はそんな心中などすっかりお見通しのように、いやにゆったりとかまえている。歯噛みしたいところだが、不利な状況は如何としがたく、俯いて渋々折れる。
「……う、腕をかしていただければ」
不本意ながらそう頼んだところに、馬が連れてこられた。
王太子は片手で青蘭を支えたまま、もう一方の手で馬の鼻面を軽く撫でてやり、従者から手綱を受けとる。
ぽかんと見上げる青蘭に、彼はいたって真面目な顔で告げた。
「この先は馬で行くのだが、雪蘭殿は徒歩で行かれるおつもりかな。その場合、あいにく腕を貸すことはかなわぬのだが」
「――っ」
あくまで真顔で応対され、青蘭は一瞬戸惑う。返答につまっているところを、またもや不意に抱きあげられた。両腰をつかんで抱えあげられてじたばたしかけたが、その出鼻をくじかれた。
「生憎これ以上からかっている余裕はない。おとなしく乗れ」
答える間もなく馬の背に押しやられ、横座りのままで鞍の端をつかんで辛うじて姿勢を保とうと努力している間に、軽々と彼も同じ背にまたがった。
「騎乗の経験は?」
「ありません」
「ではしっかり口を噤んで吾につかまっていろ。でなければ舌をかむぞ。その場合、遠慮なく捨てていく故な」
「――!」
答える隙も与えず、彼は忠告だけすると馬の腹を蹴った。とたんに大きく揺さぶられ放り出されそうになる。見栄も体裁もなく、ともかく手近なものにしがみつくしかない。ただ必死に彼の服地を握りしめ、その胸に顔を伏せるようにして、ともかく歯を食いしばっているしかなかった。
気がつけば震動はおさまっていた。風を切る音も、髪がなぶられることもない。体中が石にでもなってしまったかのように、ひどくこわばっている。しがみついていた指先の感覚は鈍く、顔を上げようと少し体を動かしただけで、関節の一つ一つが軋るような、痛みとも違和感ともつかないものが生じる。思わず小さく息をのむと、ふっと体が解放される心地がした。それでようやく体を支えるように、背に腕が回されていることに気づく。同時にすべての記憶が蘇った。
こわばりを堪えつつ面を上げると、間近に見覚えのある顔があった。
「――さすがに眠っていたわけではないようだな」
しげしげと真顔で観察した挙句の言葉に、青蘭はむっとした。騎乗は初めてかと問うておきながら、その言い草はないだろうと憤慨する。確かに云われたとおりに対処する他なかったわけで、初心者にとってそれがどういうことか彼は知っていたということになる。
「そ、そんな、よ、ゆうが、どこ、に……」
舌がもつれる。口惜しさとやりきれなさに思わず涙がにじむ。さっさと彼の服にしがみついている指をほどいて鞍から飛び降りたいところだが、体がいうことをきかない。思うに任せず、苛立ちと腹立たしさに歯噛みしたいところだが、指先一つ思うように動かない。心も体も軋むようだ。
渾身の力で睨みつけることだけが、唯一できることだった。
いくら睨みつけたところで、半月の闇に阻まれる。それでも気迫は伝わったのか。そっと青蘭の頭に撫でるように手を添えた。
「――悪かった」
自然と抱き寄せられる形になる。抵抗する気力もなく、なされるままに胸元に額を寄せる。遠慮がちに髪を撫でる手つきはぎこちないが優しく、傍にいない従姉を想起させる。
そのまま涙が流れるままに身をまかす。泣きむせぶわけでもなく、ただ静かに落涙し続けている青蘭の気配に、彼はさすがに困っているようだった。
「……しばらくここで休憩をとる――馬から降りた方が楽ではないか?」
子供をあやすような口ぶりに、青蘭は小さく頷く。彼は一言断って先に馬から降り、それから青蘭を抱きおろした。
ちらりと見た月の高度は変化している。馬上で過ごした時間は短いものではなかったらしい。すっかり強張ってしまった体が悲鳴を上げる。膝どころか全身が不自然にこわばり、両足で立つことすら難しかった。それでも意地で立とうとしたが、彼は予想していたように青蘭を切り株に腰かけさせた。
「座るぐらいはできよう?」
「……はい」
案じる声に、青蘭は顔を上げることができなかった。
確かにこの騒動に自分は関与していない。自分が関与していない以上、雪蘭もかかわっていないはずだった。それでもこの事態にかわりはない。独身最後の夜だからと、雪蘭と入れ替わった己の軽挙を嫌悪する。
花嫁の一行のなかに暗殺者が混じっていたという。その当事者は青蘭であり、雪蘭ではない。けれどこうして入れ替わっている以上、雪蘭は青蘭の責を問われる。なにが起こっているのか。それを知るすべはない。ただ、己の行動が迂闊だったことだけは確かだ。
顔をあげられずにいると、ほどなくして目の前に湯気のたつ木の椀がさしだされた。
「薬湯だ。少しは気分が紛れよう」
「――ありがとう、ございます……」
顔もあげず、拒みもせず、ただ機械的に応じれば、困惑する気配が伝わってきた。
両掌に受け取った温もりは確かなものだった。促されるままにすすれば、甘く優しい香りがひろがる。それはじわじわと体中に浸透し、指先と唇から強張りが少しずつ解けていくようだった。
深々と息をつけば、わずかに安堵した空気が伝わってくる。
ようやっとの思いで顔を上げれば、心配そうな眼差しと正面からぶつかる。そうしてようやく、青蘭はもう一つの現実を思い出した。なにか云おうと乾き強張った唇を動かす前に、遅れてやってきた一騎があった。
背や肩に幾本もの矢を受け、半死半生の態で王太子一向に追いついた彼がもたらしたのは、東葉王の死の報せだった。