第4章 宿場 3
ずっと身につけてきた肌着の上から上着と裳を着用する。木綿の上下は涼しく、簡素な意匠は身動きしやすい。
近衛の衣装は小さくたたんで茂みの奥に隠す。その形跡を消すように茂みをならしていると、少し前にも同じようなことをしたことが思い出される。着替えるたびに動きやすくなっていくのはいいが、その分状況は悪くなっていく。
青蘭は複雑な思いで立ちあがり、小太刀を手にとる。さすがに農婦の衣装にそれはそぐわない。かといって、手放すわけにもいかない。
大判の毛織の肩かけの端を胸元で結び、着替えは完了した。小太刀は裳の腰の部分にはさみ、肩かけの影に隠れるように工夫する。
彼のもとへ戻ると、すっかり日は暮れてしまっていた。薄灯りでは互いの輪郭でしか見分けはつかない。
「なんとか格好はついたか?」
「おそらくは」
表情の見分けもつかず、声の調子だけが頼りになる。
小太刀をどうしようか相談しようと口を開きかけると、彼は青蘭の肩に手をかけた。
「殿下?」
「あちらに灯りが見えよう?」
碧柊は肩にのせた手で、青蘭の体の向きを変えさせる。
木立の間をのぞきこむと、遠くに明かりがちらつくのが見える。一つや二つではなく、夕闇のなかに淡い光のようになって固まっている。
「小規模だが、町だろう。夜なら人目も引きにくい。行って様子をみてくる」
「――なれど」
「危険は伴おうが仕方あるまい」
なにも分からないという現状以上の危険はない。それは青蘭も分かっている。
それでも思いとどまらせたい衝動を堪え切れない。
いっそ付いていきたいが、それが足手まといとなり、最悪の事態を呼び寄せることにもなりかねない。連れて行ってくださいという言葉を押し殺すのが、せいいっぱいだった。
「なんだ、案じてくれておるのか?」
からかうような笑みを偲ばせる声で、碧柊は青蘭の頭をくしゃりと撫でる。
葛藤をあっさり指摘した上に、さらになんでもないことのように笑い飛ばされ、青蘭は頬にかっと熱を感じた。暗がりが幸いし、それを見咎められることはない。いつものようにその手を払いのけ、そっぽを向いた。
「案じてなどおりません、信頼しておりますから」
「――それはそれでありがたい、としておくか」
「?」
苦笑まじりの彼の声が腑に落ちず、青蘭は彼を見上げる。その表情は夕闇に阻まれ読めない。
彼はそっと彼女の手を取ると、身をかがめてその甲に口づける。青蘭は全身を強張らせた後、慌てて手を引いた。碧柊もあっさりその手を放す。
「――殿下?」
「礼だ、信頼のな」
茶化すように囁くと、つないであった手綱をとき、馬の轡をとった。
「では行ってまいる。そなたはここに潜んでおれ。迎えに来るまで動くでないぞ」
「――はい、お気をつけて」
青蘭はつとめて明るい声で見送った。
胸の前で組んだ手が、指先が白くなるほどきつく握りしめ震えているのを見られずに済んだことを、ありがたく思いながら。
青蘭は木の幹にもたれて森の外を眺めていた。
身につけている衣服は暗い色遣いで、暗がりで目立つ心配はない。そこからは街道と町の方向を見晴らすことができた。なにかあれば一目でわかる。森に逃げ込むにも、こうして眺めている方が安心だった。
片手は膝を抱え、もう一方の手は小太刀の鞘を撫でる。そうしていると少しは落ち着くことができた。
星の瞬きと、地平の明かり。夜空にも浮かび上がる山の背の山容は遠くに知れる。
ずっと塔や森のなかにいたため、こうしてひらけた光景を目にするのは久しぶりだった。
小さく息をつき、ひょっとするとはじめてかもしれないと思いなおす。
奥の宮は閉ざされている。そこで生まれ育った青蘭は、嫁ぐために国を出るまで外を見たことがなかった。雪蘭が来てからは様々なことを学んだが、それは即ち知っているということにはならない。
無事に婚儀が終わっていれば、今度は東葉の後宮の主として再び外を見ることはなかったかもしれない。
それを考えれば、望んだ状況ではないが、これはこれで貴重な機会なのかもしれないとまるで他人事のようにおもえる。
女ばかりの奥の宮育ちにもかかわらず、砦では男性ばかりに囲まれ、馬に乗り、幾日も入浴することもなく、男装し、この手で人を殺め――覚えのあったことは飢餓感だけだった。
幼いころ、雪蘭が来るまではろくに食事を与えられないこともあった。それはほんの気まぐれのようにはじまり、数日水も与えられないこともあった。酷く痩せこけたり衰弱したりするまでに至らなかったのは、それが唐突にはじまり唐突に終わったせいだった。
頻繁に起こることもあれば、一年ほど起こらないこともあった。
宮の主を医師の注意を引くほどに、痩せ細らせるわけにはいかなかったのだろう。
飢えと渇きに耐えかねて、草の葉に宿った露を飲み、庭木に実った果実で凌いだいこともある。
そんな王女の姿を遠巻きにして、くすくすと笑い合う女官たちの笑い声は、今もまざまざと思い出せる。
柘榴を手にし、その指先を赤く染めた時などは、まるで己で己の身を食らっているようで浅ましいと嘲り笑われた。
実際、石榴は悪鬼の食らうものだとされていた。
口の中が苦くなる。不愉快さに眉をひそめつつ、指先を見つめる。暗闇にその肌が見えるはずもないが、そこに幼いころ、石榴に染まった指先の記憶が重なった。
同時に、もう一方の指先が小太刀の柄を探りあてる。
そういえば、この小太刀を男の首に突き立てたのだった。大きく見開かれた目と、ぱくぱくと魚のように開閉を繰り返した口を思い出す。小太刀を引き抜いた際、鮮血を浴びたような気もする。
その後も、何人にこれを突き立て切りつけたのか。
記憶はすっぽりと抜け落ちていた。
日が暮れても暑さは残っている。頬を伝う汗を無意識に手の甲で拭い、その温さにびくりとする。
確かにこの頬に返り血を浴びたのだ。まるで噴水のように噴出した鮮血は、雨のように降り注いだ。
頸部には太い血管が通っているから、急所になる。
力の弱い女の身で確実に狙うなら、急所。胸は肋骨に阻まれる。狙うなら、頸部か腹部。腹部にも太い血管が通っている。太ももでもいい。内側を狙えば、失血死も狙える。
青蘭はただの嗜みとして、武芸をおさめたわけではない。もっと実際的な武術を教え込まれている。それは自分の身を守るため。叩きこまれたといってもいい。だからこそ、これまで実戦経験がなかったにもかかわらず、急所を見定めて確実に手を下すことができたのだ。
思わず小太刀を手放す。
人を殺めたという事実が、腑に落ちてこない。まるで他人事のようだった。
だが、その手には確実に人の肉を断った感触が、頬には浴びた血潮の温もりが、残っている。
青蘭はぐいと頬を拭い、手を地になすりつけ、その感触を拭い去ろうとした。けれど、いくら繰り返してもそれはなくならない。血がにじみ、痛みが走るほど繰り返しても、それは消えることはない。
それはもはや心に刻まれてしまっているのだと、拭っても拭いきれるものではないことを悟りつつ、それでも衝動を堪えることはできない。
口のなかにも鉄錆の味が広がる。気分が悪くなる前に、悪寒が走る。それはなにに由来するのか。
病的なまでにそれを繰り返していると、いつの間にかすぐそばに人の気配があった。
びくりとして逃げ出そうとすると、その手首をつかまれる。
声にならない悲鳴をあげ、振りほどこうとしてもかなわない。
「吾だ、なにがあった」
ただならぬ彼女の様子を察してか、碧柊は青蘭の傷にも構わず両腕をつかんで問質す。
「……血が……」
力ない呟きに、碧柊ははっとして手を放す。
「傷が開いたか?」
青蘭は大きく首を振る。
「血の感触が消えなくて……それに、私……」
青蘭は俯き、だらりと全身の力を抜く。そして喘ぐように呟いた。
「私、人を殺したのでしたね」
奥の宮でも何人の女官が亡くなったか。あえて数えないようしていたが、本当は知っていた。
人の死の上に、己の生はある。今更知ったことではあるまいに。
そんな想いに笑いだしたくなる。笑う以外に他になにができるというのか。
碧柊はその言葉にはっとする。
目の前の少女は、はじめて人を殺めたのだった。戦場では殺すか殺されるか。それを覚悟しろとは言うのは容易い。だが、奥の宮で俗世を知らずに育った無垢な娘にそれができるのか。
そっと腕をまわし、抱き寄せる。びくりと体を震わせたが、抗いはしなかった。青蘭は広い胸に抱き寄せられると、どうしていいか分からず身を強張らせるしかない。
「そなたのせいではない」
きつく抱きしめて、碧柊は囁く。
「――そんなわけがあるはずないではありませんか」
青蘭はその胸にすがりつきながら、小さく頭をふった。
泣きたいのか、嗤いたいのか。混乱した感情に嵐のように翻弄される。それに溺れまいとしがみつくと、彼はしっかりと抱きとめてくれた。