第4章 宿場 2
ようやく牧から農地に風景が変わる。
稔りの秋はまだ遠い。かわりに野菜の花や熟した夏野菜の鮮やかな彩りが目を引く。
牧とは違い、農地は森のすぐそばまで迫っているので、二人はさらに用心しなければならなかった。
陽が中空にかかると、森の外から吹きつける風も緩く温いものとなる。
額にうっすらと汗がにじむ。
泉や小川を見つけるたびに水浴し、できるだけ衣も洗うようにしてきたが、着替えがない上、先を急ぐため思うようにかまえていない。
もう十日以上石鹸を用いていない髪や肌が臭っているのではないかと、青蘭はひそかに気にしている。ましてやこうして二人で馬にまたがっていると、背後から体を支えてくれる彼のことがさらに気にかかる。身長差がある分、頭上にちょうど彼の顔がきてしまうのだ。
気にすればするほど痒いような気さえしてくるが、だからといってごそごそと掻くのも憚られる。口を引き結んでひたすら堪えていた。
どうしても汗ばむため、衣の臭いも気にかかる。特に襟元や袖ぐりなどがべたつくような気がして、休憩時などに碧柊の目を盗み、嗅いで確認しているところをしっかり見られていたこともある。
目があってしまい、真っ赤になって口ごもっていると、彼も自分の胴衣をひっぱり嗅いでみせた。
「なに、気にする必要はない。できるだけ水浴びもしているのだから、これくらいならましな方だ。男ばかりになるとまったく気にかけぬ奴もおるし、もともと体臭のきつい奴もおるからな。それと比すれば、そなたなど歯牙にもかからぬ」
「――それはどうもありがとうございます」
嬉しい比較ではない。裏返せば、それと比べればましという程度には臭っているということになる。
それでも彼なりの思い遣りに基づく発言には違いない。
いい加減、彼という人間を理解した青蘭は、諦めて小さく息をつくしかなかった。
そんな経緯があったので、余計に気になるのは仕方ない。
頬を一筋の汗が伝う。それを手の甲で拭い、密かに息を押し出すと、急に彼が馬を止めた。
「?」
振り返ろうとしたが、それより先に碧柊が馬から降りた。
さしだされる腕におとなしく身を委ねれば、抱き下ろしてくれる。その腕にすがりつくようにして足元を確かめながら、顔を上げる。
彼はしっかり青蘭の体を支えながら、周囲へ視線をめぐらせていた。
つられるように青蘭もそちらのほうを見やる。
「集落がある。今なら出払って家の方は留守だろう」
「どういう……」
「この先、この衣装ではまずかろう。とはいえ、着替えはない」
彼の言わんとするところを察し、青蘭は押し黙る。
近衛の衣装は一目でそうと知れる。確かにこれでは森から出ようがない。
「さきほど、少し戻った所に窪地があったろう。あそこまで馬をひいて戻っておれ。じきに戻る」
ぽんと青蘭の頭に手をのせて、苦笑まじりにいいきかせる。
青蘭はなにか云おうと口を開きかけ、結局おとなしく手綱を引き受ける。
「馬は離れた所につないでおれ。もし、なにかあっても決して森から出るでないぞ――もしもの時は、ともかく逃れよ。一人でも山の背を越えて西葉へ逃れよ」
そう云って、西の空を見上げる。
青蘭は小さく息を吸い、思い切ってその手を払いのけた。
「そんなわけにはまいりません」
「何故だ?」
「殿下には生き延びる義務がおありです。私にもあります。それをこうして、ここまで私を守り連れてきて下ったのは殿下です。私には殿下をお助けする義理があります。それに、私一人であの峠を越えることは難しいでしょう。私は世間のことをなにも知りません。殿下のお力添えがなければ、私は義務を果たせません。私がいなければ、殿下が岑家とつなぎをつけることは難しいでしょう――私たちはお互いを必要としているのです」
身丈のある王太子をまっすぐに見上げて断言してみせると、彼は驚いたようにわずかに目を瞠ったのち、くっと笑った。
生真面目な表情で頑固そうに口の端を引き結ぶ少女の白い手をとると、身をかがめてその甲にそっと唇を落とした。
「約そう、必ずそなたを西葉へ連れていく……そなたにも果たしていただかねばな――吾を勝者に」
「必ず」
目を上げれば、見下ろす少女は嫣然と微笑み、その瞳に勁い光を宿している。眼差しが絡めば、口の端をゆっくりともちあげる。それは見なれた彼女の微笑みではなかった。
碧柊はそれに笑みを返さず、背を伸ばして手を放し、また彼女の頭を軽く叩く
彼女はびくりと肩を震わせた後、呆けたような表情でゆっくりと碧柊を見上げた。
「……殿下?」
「ともかくそなたは吾が戻るまでおとなしく隠れておれ。そなたがすべきことはそれだけだ」
「――はい」
幼子に噛んで含めるように云いきかされ、青蘭はちらと不満げないろを浮かべたが、結局素直に頷いた。
「いい子だ」
ぐしゃりと髪をかき乱され、青蘭は「やめてください」と迷惑そうにその手を払いのけた。碧柊はそれに笑い、青蘭はそれを懐かしいような想いでみつめていた。
碧柊が戻ったのは、それから間もなくのことだった。その手には粗末な衣類があった。
「見合うものは置いてきた」
後味の悪さの誤魔化すように呟き、それを彼女に押しつける。
受けとると、その木綿の衣は粗末ながらも清潔なものだった。常に上質な綾絹を身につけてきた青蘭にとって、それははじめて手にする珍しいものだった。
碧柊はしげしげとそれを見つめる青蘭に、馬をどこに繋いだか問い、さっさとそちらに向かう。轡をとって戻ると、青蘭は見なれないすっきりとした農婦の衣をひろげて眺めていた。
「東葉の民は西葉の民ほど豊かではない。それとて貴重な衣類には違いない」
「そうですね――殿下もお着替えに?」
「それは後だ。われわれは立派な盗人だ。まずは逃げる」
身軽に馬にまたがると、身を乗り出して断りもなく青蘭の腰に腕をまわした。
軽々と抱きあげられ、青蘭も慣れた様子で鞍に跨った。
「盗人になる前から手配されて追われておりますのね」
青蘭の溜息まじりの言葉に、碧柊は苦笑しつつ手綱を入れた。
夕暮が迫るまで常足と速足を繰り返し距離を稼ぎ、ようやく馬から下りた時には集落からは十分に遠ざかっていた。
「明るいうちに着替えておけ」
碧柊は男ものを青蘭から受け取ると、その場で背を向けてさっさと着替えはじめた。
青蘭はその無神経さに小さく息をつく。それを聞きつけたように、彼はいたってまじめに促してきた。
「そなたもさっさと着替えよ。覗き見の趣味はない故、安心せよ」
「――覗き見していただくかいもありませんから、安心させていただきます」
厭味まじりに呟くと、生真面目な口ぶりで返してくる。
「そんなことはないぞ。なかなかに白くて良い肌を――」
そこでようやく己の失言に気づいてか、その動きが止まった。
青蘭は無言でつかつかと近寄ると、渾身の力をこめてぴしゃりと素肌の背中を張り飛ばす。
その反動で右腕に痛みが走り、思わず顔をしかめて小さく呻く。それみたことかと云いたげに彼は振り返った。こちらも痛そうに眉間にしわを寄せている。
「無闇に暴力をふるうからだ。そもそも、そなた、奥の宮の育ちにしては少々粗暴に過ぎぬか? それとも西葉の女官は皆そうなのか? いくら東葉の女性より武芸に長けているとはいえ、東葉の男より気性が荒いということはあるまい……」
殺気をこめて眇めた目と目が合うと、碧柊は口を噤み、また背を向けて着替えを続けた。
「東葉の男性が皆、殿下のように無神経でいらっしゃるわけではないようですわね。少なくとも綾罧殿と苓公殿下はそんなことはおっしゃいませんでしたもの」
碧柊の失言に何度もむっとしたり、態度を硬化させたりしてきた青蘭だが、ここまではっきりと苦情を述べたことはない。
碧柊は心なしか背を丸めながら一言返した。
「以後、気をつけよう」