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まだ見ぬ君に  作者: 苳子
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第4章 宿場 1


 森を抜けること二日でようやく木立が疎らになり、視界が開けた。

 山の背の、遥々とした雲海を抱く山並みは西にあり、森とそのあいだに拓けたのはどうやら牧場まきばらしい。

 瑞々しい緑の草原くさはらが広がっていた。

 放牧された家畜が、あちこちでのんびり草を食んでいる。

 渡りくる風は、気のせいか心地よく乾いているような気さえする。

 樹影にとどまるように馬を止めた碧柊へきしゅうの腕が、ごく自然に青蘭せいらんの細い腰にまわされる。

 落馬を危ぶんでの思い遣りだとは分かっていても、青蘭は居心地の悪い想いで、同時に頬に熱を感じる。

 馬は止まっているのだから、落ちる心配はほとんどない。それに青蘭も随分と馬に慣れた。彼は馬上で背後から青蘭の体を支える時は、傷のある上腕をできるだけ避けようとし、なにかある度に痛みを尋ねてくれる。

 過保護すぎると思うが、負傷した青蘭の扱いへの戸惑いも感じられる。戦場において怪我はつきものだが、それが無縁であるはずの女性となると勝手がわからず困惑しているのかもしれない。同じ人間なのだから男性となんら変わりはないはずだが、そう容易く柔軟に対処できないのが、碧柊らしいとも言えるのかもしれない。

 傷の酷い痛みを感じることはほとんどなくなっていた。擦れれば違和感があるが、思わず息をのんでしまうような痛みは稀になった。一時は発熱で傷の悪化を危ぶんだが、その後は順調に治っている。青蘭はこれまで自他を問わず傷口など見たことはなかったが、碧柊の見立てではそういうことらしい。


「さて、ようやく森を抜けられたが、ここがどこかはまったく見当がつかぬ」

「山の背側に出られただけでも、ようございました」


 太陽の位置さえ分からぬ森のなかで、二人は方向を見失っていた。草に飲み込まれつつある小径こみちが、人の住む地へ続いているだろうという見込みだけを頼りにここまでやってきた。 

 あとは雲に隠れた尾根を越えていくのみだが、その峠道は限られている。


「みたところ牧場まきばのようだな」


 点在してのんびり草を食んでいるのは馬が多い。

 馬の育成を主としたまきならば、貴族が経営するものか、王領ならば軍の直営である可能性が高い。

 もし明柊めいしゅうが手配をまわしていれば、最も危険な場所の一つともなりかねない。

 その認識は共通している。

 碧柊は馬首を返して来た道を戻り、森の縁から遠ざかるとようやく馬を止めた。


「しばらくは森の縁にそって行った方が良かろう」


 もどかしくはあるが、それが一番安全な方法だった。

 砦から逃れて八日になる。

 その間ずっと森のなかにいた。いったい、事態はどうなっているのか。 

 青蘭はそれについてなにも云わなかった。云えなかった。

 碧柊に任せるしかない。自分にできることといえば、なるべく彼の足を引っ張らないことだけだった。

 自分にも、彼にも、それぞれに背負っているものがある。

 一時は自分を置いて逃げてくれればいいのにとすら思ったが、冷静になってみればこれ以外に選択肢はなかったと云える。

 雪蘭せつらんとの絶対の約束。なにがあっても守ると決めた約束。それがどういうことかということ。兄がこの事態を招いたのなら、それを治めるのは青蘭の役割だ。

 そして、明柊に疑いを抱きながらも、甘さ故にそれを防げなかったという碧柊。共に同罪ともいえるのかもしれない。

 青蘭は自分の正体について、碧柊に話すべきかどうか迷っていた。

 こうなってしまえば、もはや隠しておく必要はないと思われる。むしろ隠しておくべきではないのかもしれない。

 青蘭が西葉王女であることを知れば、碧柊がとるべき手段が広がることはあっても、狭まる恐れはない。ともに手を携えることもできる。両国の和平を望む碧柊の想いは、青蘭も同じ。そのために嫁いできたようなものだ。

 敗戦の賠償として西葉から差し出された生贄である“青蘭姫”に対し、彼は勝者として見下すような態度は一切見せなかった。むしろ伴侶して同等にみなしてくれている。

 明柊には明言してしまったが、信頼できる人物だと思っているし、実際に手を結ぶに相応しいのは彼しかいない。

 それでも告げることができない。

 何故なのか、理由は分からない。自分がなにかを恐れているということだけは分かっている。では、なにを恐れているのか。見当もつかない。結局のところ分からない、の一言に尽きてしまう。

 小さく息をつく。それを碧柊は見逃さない。


「痛むか?」


 碧柊の手綱を握る腕が、偶然だが青蘭の右上腕に触れていた。

 またがっているため、背後の彼に表情を見られる心配はない。

 青蘭は慌てた様子で頭を振ってみせた。


「違います――ちょっとほっとしたものですから」

「ほっと、できるか?」


 まだ気の抜ける状況ではない。訝しげな響きは無理もない。

 青蘭の返答は苦し紛れのものだったわけではない。


「ずっと森のなかにいると、常に視界が閉ざされていましたから。少しでもひらけてくるとほっとします」

「なるほど」

「殿下はそうはお思いになられませんか?」


 水を向けると、しばしの沈黙があった。

 あの接吻の件以来、二人は気まずい沈黙のなかで時間を過ごすことが多かった。それ故か、彼は言葉を探しているのか。

 気楽なやり取りができていた感覚を、共に取り戻せずにいる。

 それは青蘭にとっては歯がゆいことだった。その歯がゆさがぎこちなさを生み、二人の溝をひろげていく。それはわかっていたとしても、容易くなんとかできるものではない。


「視界がひらけたからと云うて、先行きまでがひらけるわけでもない故な」


 自重するように皮肉を含んだ辛い言葉に、青蘭は思わず笑う。


「意外と悲観的でいらっしゃるのですか?」

「気分に左右されるほどわかくはない」


 彼とてまだ二十一歳に過ぎない。それがおかしくて、青蘭の声が明るく抗弁する。


「物事の見方が情動に影響されることもありましょう」


 笑みを含んだ響きに、碧柊も口元をゆるめる。


「そうだな――人は浮かれた時ほど愚かな行動をとりがちだ」

「それと激情に駆られたとき……」


 別段、意図があっての言葉ではなかった。

 何気なく紡いだすぐ後に、あっと口を噤む。ほぼ同時に、背後から気まずげな気色が伝わってきた。


「……そうだな」


 なんとも重たげにこぼれた言葉は、自嘲の響きをもつ。

 決して当てこすったわけではないのだが、それを言い訳するのも不自然に思えて、結局青蘭は黙りこむ。

 片方の沈黙は、結局共有されてしまう。

 いっそう気まずくなった空気だけを引きずって、馬は森のふちを黙々と南下していった。


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