第3章 森 11
二日前に東葉王太子は苓南の砦から逃亡したという報を、覗見がもたらした。
近衛の多くは砦で討ち死にし、逃れた者も散り散りになったらしく、王太子自身も単独で逃れた可能性があるという。
青蘭の行方はいまだに知れない。
もっとも欲しい情報は欠片も手に入らず、届く知らせは悪いものばかり。
雪蘭は深々と息をついた。
この西葉による侵攻に、西葉貴族のほとんどはかかわっていない。
軍の本体は王家直属のものであり、あとは蒼杞お気に入りの側近や彼の乳母の家が加わっているくらいものだ。
よって、西葉軍三万という軍勢の最大値はいまのところ増えようはない。
岑家からの報せもようやく届いたが、西葉国内では一様に揃って事態の成り行きを見守っている状態らしい。
蒼杞は東葉の王都を落としたものの、王太子とその従兄苓公にも逃げられ、まずはこの二人を討つのが最優先だった。
三万という軍で十分だと判断したのか、西葉貴族へ出兵を求める命令は下されていない。二人を討つことができれば、自ら出陣し参加するものも現れるかもしれない。
苓公はいったん苓州まで逃れたのちに態勢を整え、すぐさま反撃に打って出た。
それと同時に発表されたのは、東葉国王が西葉東宮に討たれたことと共に、それに結託し西葉軍の国内への侵入を手引きしたのは王太子碧柊だったというものだった。
苓公明柊はその裏切り者を苓南の砦で見事に討ち果たし、さらに西葉軍との戦いでも目覚ましい戦果をあげている。
その経緯を蒼杞は楽しげに語った。
すべて計画通りだという。
東葉王弑逆と西葉軍侵入の罪はすべて王太子碧柊に着せ、それを打ち果たした成果を手に明柊は次の東葉王位につく。
それに敗れた形となる西葉側は、彼の要求に従って青蘭を東葉王妃にさしだす。
同時に西葉王位継承権は繰り上がり、蒼杞の正妃が第一位となる。彼はその夫として西葉王として即位するというものだった。
そんなことが本当に可能なのかと雪蘭は内心思ったが、口には出さなかった。
葉王家直系の青蘭が生きている以上、たとえ東葉に彼女をさしだしたとしても、本来の意味での王位継承権は消失しない。青蘭王女が生存している限り、その継承権が消失することはない。
その青蘭を東葉にさしだすということは、東葉に西葉王位を請求する正統な権利を与えることになる。
それ承知しているのかいないのか。もし分かっているとしても、明柊ならば言葉巧みに言いくるめてしまうことも容易いだろう。
蒼杞は、明柊が本当の“葉王家”である西葉を敬い畏まっていると思っているようだった。
正統な葉の王子である自分を裏切るような真似をしないと、本気で信じているらしい。それだけ己の血筋への自信は絶対であり、信仰に近い。まるで明柊を殉教者のように見なしてさえいる。
明柊は百年前、女神の娘にして真の王たる女王を裏切った、東葉王室の祖の罪を償おうとしているのだと話す。
蒼杞が去ると雪蘭はいつも深々と息をついてしまう。
あくまで兄が正しく、妹にはその言葉に逆らうことは許さない。従順にして素直に兄を敬う妹を演じなければならない。当初、彼女が批判的な態度を示したことなどすっかり忘れてしまったらしい。
「本当におめでたい方」
「すっかり口癖になってしまわれましたね」
苦笑しつつ香露が茶器をさしだす。
それを受け取り、ゆっくりと椅子の背に凭れる。
雪蘭がいくら態度を軟化させ、機嫌をとるように媚びてみても、軟禁は解けない。
“西葉軍を討ち払った”明柊が入城するまで、室内以外での自由は認めないとはねつけ、それ以上繰り返せば明らかに機嫌が悪くなったため口にすることはできなかった。
城下及び城内では、相変わらずの光景が繰り広げられているという。
主だった貴族の当主達は蒼杞の餌食になり、城下から西葉兵以外の人影は消えたともいう。猫や犬の姿すらない。
主を失った貴族たちは未だに当主の安否すらつかめず、王都へ攻めのぼることもできず、自領に引きこもって武装をかためている。
西も東もその理由は違えど、次の態度を決めかねているという状況は似たようなものだ。
ことの真相を知る者はわずか。
苓公明柊は今や表向きは故国を救わんと数少ない手勢だけで奮闘中のいわば英雄候補であり、これが成功すれば東葉王位につく十分な条件を得る。
共に戦うのは苓家の、政への影響力はこれまでの比ではなくなるだろう。
苓公の狙いが東葉王位だけとは思えない雪蘭は、できるだけ蒼杞から話を引き出そうと試みた。そして、その確信を深めていった。
「青蘭の行方が最も気がかりだが、碧柊殿の消息も気にかかる。いったい、無事でおられるのか」
「手がかりはまったく?」
「皆無だ。苓公も反逆者として苓州内と王領内で手配をかけているが、まだ足取りはつかめていないらしい。ということは死体も見つかっていないのだろう。どこかで息を潜めておられる可能性は高い」
この同じ頃、苓南の砦からそう遠くない森のなかで、探し求める二人が一緒にいるなどと、雪蘭は夢にも思っていなかった。
城下から西葉軍が引き上げていくという急な報せがもたらされた翌日、蒼杞は一人の客人を案内してきた。
朝のうちに前もって知らせてき、支度を整えておくようにという伝言まであった。
湯浴みをすませ、蒼杞の用意した衣装にあらためた頃に、その人はやってきた。
開かれた扉から入ってきたのは、最初に蒼杞、次に鎧姿の青年だった。
身の丈は蒼杞と同じくらいで、兜を脇に抱え、身の丈ほどもあろうかという大ぶりの太刀をさげた姿は凛々しい若武者ぶりだった。
日焼けした顔は人好きのする穏やかな表情を浮かべており、一見した限りは人格者に見えないこともない。涼やかな目元には艶めいたものもあり、人目を引きつける。
雪蘭にはその顔に見覚えがあった。正確にはよく似た人物を知っている――会ったことはないが。
「青蘭、苓公明柊殿だ」
「ほぉ、これは愛らしい王女殿下であらせられる。このような方を妻に迎えられるとは、これ以上の誉れはありません」
彼は雪蘭ににこりと笑いかけると、恭しく蒼杞に頭を垂れた。
「聖なる女神の娘だ、くれぐれも大切にしていただかねばな」
「それは勿論。その証として、東葉は西葉によくお仕えいたしましょう、殿下――いや、陛下とお呼びすべきですね」
いかにも感謝しているように応じる。決してへりくだっているわけでも媚びているわけでもない。心の底からの言葉と態度のように感じられる。
一瞬とはいえ、雪蘭も本当に彼がそう考えているのかと思いかけたほどだった。それを阻んだのは、得体のしれない違和感だった。
あくまで苓公は蒼杞を敬うように接し、蒼杞はそれにご満悦という様子だった。
いくつかやりとりを交わしたのち、苓公が二人きりにして欲しいと云いだすと、上機嫌の蒼杞は素直に引き上げていった。
「ようやく二人きりになれましたね、青蘭王女殿下」
「……」
互いに仮面を外したことを確認するように、二人は見交わす。
苓公はあくまで穏やかな笑みを浮かべているが、先ほどまでのどこか不自然だった印象は拭われていた。それでも、心意を読み取ることなど容易にできそうにない。
対する雪蘭も笑顔を消し去り、一片の感情も含まない眼差しで彼を見つめる。
「素直な方だとあなたの兄上よりお聞きしていたのですが、どうやら違うようですね」
「――」
苓公はふふっといやに艶めいた笑みをもらす。それを薄気味悪く感じた雪蘭は、わずかに目を眇める。
その表情の変化に、苓公は嬉しそうに微笑む。
「やはりいい顔をなさる。俺と二人きりの時は、是非そういう顔を見せていただきたい。麗しいお顔は表情に富んでいるに限る。俺はお人形に興味はないのでね」
いきなりくだけた物言いで、断りもなく顔を近づける。
突然息がかかるほど間近に迫られた雪蘭は、手元にあったクッションを掴んだ。
それすら予期していたように、武骨な指が細い手首を掴んで動きを封じる。
「いきなり押し倒すような無粋なまねは嫌いでね、安心していただいて結構」
冗談めかしておきながら、手首に加わる力は半端なものではない。からかうような光を帯びる眼を、雪蘭は冷たく見据えた。
「――では、手を放して」
「御意――わが麗しの君、その氷のような眼差しまで雪の結晶のようにお美しい」
半ばうっとりと囁きながら、その奥底に冗談めかしているわけでもからかっているわけでもない、冷え切った光をのぞかせる。それをあえて雪蘭にさらしたような印象を残した。
彼は雪蘭の白い手を取って口づけると、さっと身を引いた。
「では、今日はこれで失礼いたしましょう」
嫣然と囁き、恭しく礼をすると、退室する。その扉が閉ざされる寸前に、不意に足をとめて振り返った。
「そういえば、ひとつ忘れておりました」
「――」
警戒するように眉をひそめると、彼は満足そうに微笑む。
「伝言です、『じきに参ります』と――あなたによく似た愛らしいお方から。確かにお伝えしましたよ」
「……苓公殿!!」
思わず雪蘭は立ち上がり、大きな声で呼ばわったが、彼はそれに応じず扉を閉めてしまった。