第3章 森 10
はじめて会ったとき、驚いたのはむしろ周囲の大人たちだった。
奥の宮の主たる青蘭姫のもとへ挨拶に伺候した雪蘭一行を迎える側も、迎えられる側も同様だった。
「なんとまぁ」
「ほんに」
両脇に女官を従え、子供には大きすぎる椅子に腰かけた幼女は、新たな住人たちに対面した。
周囲の声に誘われるように、恭しく頭を垂れていた雪蘭も顔をあげた。
ともに表情を欠いたまま、二人の子供ははじめて視線を交えた。
椅子の背と手すりには玉がはめ込まれ、豪奢な刺繍の施された絹地をはった椅子は、宮の主にふさわしい。
童形に結われた髪には、色鮮やかな硝子玉を連ねた歩揺がさしてある。
共に参内した香露に促され、雪蘭は主となる従妹に挨拶した。
それに主は黙って頷くのみだった。頷いた拍子にその歩揺がかすかな音をたてる。
結い残された横髪が艶々と光る。ふっくらと白い肌。くっきりとした黒い眼。幼いながらも端正な顔立ちには生気が欠け、等身大の人形のようにも見える。
対する雪蘭も無表情ではあったが、こちらは緊張もあってのことだった。
はじめて従妹と対峙した雪蘭は、不思議な心地で彼女を見つめた。
まわりが驚いた理由はじきに分かった。
鏡に映したようだと。まるで双子のようだと。
女官たちは驚きと好奇心をにじませ、にぎやかに囁いた。
「お並びになってはいかがですか?」
楽しげに声をかけ、姫の返事も待たずにその体を椅子から抱き下ろす。
わざわざ主である王女を椅子からおろし、雪蘭と並んで立たせた。仰々しいほど恭しい態度と手つきに、偽りがうつる。
雪蘭は妙にはしゃぐ奥の宮の女官たちを、冷めた眼差しで観察する。
一つ違い。背丈にも顔立ちにも、さほど大きな差はない。
一方は華やかな衣装に身を包み、片方は喪に服していることをあらわす黒一色をまとっている。
対照的であるほど、その相似性が際立った。
香露の目にもまさに双子のような二人だった。
女官たちは小さな従姉妹同士をかこんでやかましくはしゃいだ。
それに香露と狭霰はさりげなく目配せを交わす。
どれだけ自分たちが礼儀を逸しているのか、彼女たちは分かっていない。
雪蘭が苛立ちに眉をひそめると、香露はさりげなく口をはさんで少女たちを二人きりで庭に逃してくれた。
雪蘭は従妹の腕をつかんで庭の奥へと逃れた。
しょせんは奥の宮とて大きな鳥かごの一部にすぎない。どこへ逃げられるはずもない。案じて追ってくる者はなかった。
まるで駆けるような早足で林をつっきり、ようやく足を止めたのは連れが躓いたからだった。転倒は免れたが、肩で大きく息をしている。白い頬には汗が伝っていた。
「ごめんなさい、大丈夫?」
慌てて詫びると、王女は小さく首をふった。
そっと顔をのぞきこむと、すっと視線を逸らす。頬を伝う汗を指先で拭おうとすると、びくりと身を震わせた。その思いがけず大きな仕草に、雪蘭も驚いた。
「触られるのは、いや?」
その問いにも応じない。やはり無表情なまま、どこにも眼差しの焦点をあわせずにいる。
聞こえていないわけではない。
だが、応じず、目も合わせず、なにも話さない。
王女が唖だとは聞かされていなかった。
困り果てた雪蘭は木の下に日溜りをみつけ、そこに座ろうと促した。
そして、その間もずっと手をつないだままだったことに気づく。
そのまま一緒に腰を下ろす。日差しを浴びた下草はやわらかく温かい。
並んで座ると裳の裾がふわりと広がり、華麗な花と黒薔薇が咲いているようだった。
重なり合う襞の上に繋いだままの手をおく。雪蘭が手を離さず指を滑らせしっかり握っても、王女はその手をふりほどきはしなかった。
そのまま交わす言葉もなく日向ぼっこをしていると、なんの前触れもなく肩に重みがかかる。
見れば、雪蘭の肩に寄り掛かるようにして、姫が小さな寝息を立てている。
そっと手を放して、従妹の頭を膝の上にうつす。膝に小さな重みが加わる。あどけなく愛らしい寝顔に、ようやく雪蘭は彼女が生きていることに納得できたのだった。
宮の主が軽んじられていることは、幼い雪蘭にも感ぜられた。
王女にふさわしく日々飾り立てられ、恭しく扱われていても。おのずと滲み出るものがある。それが奥の宮の空気を支配していればなおのこと。
最初、雪蘭にはその正体が知れなかった。それまでに覚えのない違和感を抱きつつも、未知なことだけに知りえようがなかった。
だが、それもじきに悟ることになる。
言葉の端々に滲む棘、いたずらに苛むような皮肉、わずかばかり大きすぎる溜息、隠す気のない忍び笑い、目配せ、嘲弄。
その中心にいるのはいつもその主だった。
なにが起こっているのか悟っても、その意味が理解できず、雪蘭は困惑した。
悪意とは無縁に育った彼女に、人の持つ別の側面を思い知らせてくれた。
王子を父に、奴隷を母に持つ、自分の本来の階級が母と同じであることを承知している。そんな身分など関わりなく、両親と父を敬う香露や狭霰に囲まれて育った雪蘭は、自分が大切にされてきたことをこの時あらためて知った。
雪蘭は誰に相談することなく、じっと静かにすべてを悟るまで観察し続けた。そして、ある日、その観察に終止符を打つ。
その年最初の雪が降りそうな夜だった。
西葉南部の温暖な地で育った雪蘭にとって、王城の冷え込みははじめて体験する眠れないほどの寒さだった。
雪蘭の部屋は青蘭の主寝室の隣にあった。
女官扱いとはいえ、現国王の兄の娘であり、今や有力貴族の養女でもある彼女への扱いは王女に準じた。
窓掛けはきっちりと閉じられているはずなのに、一筋のあえかな光がさしていた。
それは青の玻璃を透かしたように淡い。
月を想い、寝台から抜け出す。厚手の毛織の長衣を羽織り、そっと窓掛けをくる。
しっとりと露の降りた庭に、幽き月明かりが満ちる。
一面の波頭のようにきらめく光に誘われ、外へ彷徨い出る。
白露を踏むと、やわらかな室内履きが少しずつ濡れていく。寒さは呼吸を伝って身の内に侵入してくる。それを阻むように口を閉ざしても、わずかに漏れる吐息が煙となって散る。
蒼い月影はすべての内側に忍び込み、その存在の裏側から影となってあらわにしているかのようだった。
中空には雲一つなく、澄み切った大気は澄んだ音が響きそうに晴れ渡る。
星明かりもかすむ。
いざなわれるように庭の半ばまで歩み出て、そこでようやくもう一つの人影に気づいた。
それは空を見ず、しゃがみこんでうなだれていた。
肩を抱くように膝を抱え、丸く丸くなるように。まるで一つの丸い庭石のようだった。かたかたと震えるかすかな影に、ようやく生きていると知れる。
雪蘭は異常を察し駆け寄った。
それは一つ年下の従妹だった。薄い夜着一枚きりで、足元は裸足。露に濡れ、草の葉がついている。
ぎこちない動きで顔を上げる。そのおもてはすっかり強張っている。ただただ体が震えている。
雪蘭は膝をつき、長衣で彼女をくるむ。抱き寄せるとまるで氷のようだった。人の体がここまで冷えることがあるのかと、わずかに怯んだ末、さらに力強く抱きしめる。
青蘭はなされるがままに身を預けている。
なにが起こっているのか、考えるまでもない。
確信をこめて顔を上げると、王女の寝室の窓掛けがわずかに動いたような気がした。
けれど、誰も出てこない。
さすがに鍵はあけていったかもしれないが。
雪蘭は青蘭がこのまま死んでしまうのではないかと不安になり、さらにきつくきつく渾身の力で抱きしめる。
かける言葉も出てこない。
濡れた岩肌のような頬に頬を擦り寄せ、少しでも体温を分け与えようと体を密着させる。
引き結んだ口の端からもれる息が立ち上る。いたずらに失われていく熱がもどかしい。
こぼれそうになる涙をこらえる。それはじきに冷え、氷の粒になる。
ただただ必死に抱き寄せ、頬を擦り寄せていると、ようやく彼女が呟いた。
「……」
けれど、届かない。
「――なぁに?」
力を緩めず、そっと囁く。
共に教えを受けるとき以外に、彼女の声を聞いたことがないことにあらためて気づく。
「……たい」
「え?」
顔をのぞきこむと、彼女はまた俯いてしまった。それでも、言葉を紡ごうとする。
「……あったかい」
「――うん」
小さく頷いて、もう一度抱きしめる。
躊躇いが伝わってきた後、小さな息がもれる。
「ちょっとだけ……痛い」
耐えかねたような言葉に、雪蘭は慌てて腕を緩める。
「ごめんね、大丈夫?」
「――うん」
答えてくれるのが嬉しくなり、雪蘭は従妹の肩に額を押しあてた。
「ここは寒いわ」
「……うん」
「私、寒くて眠れなかったの。でも、二人だとあったかいのね……ねぇ、一緒に、寝てくれない?」
ねだるように囁くと、戸惑いに身じろぎするのがわかる。
それごとぎゅっと抱きしめると、やがて腕のなかで小さくうなづくのが分かった。
それから肩を寄せ合って雪蘭の寝台に戻ると、布団のなかに頭まで潜り込みしっかり抱きあった。
子供同士の体温はうっすら汗をかくほどの温かさで、二人は朝までぐっすり眠った。
香露が窓掛けをあけると、眩しい光がさしこむ。
二人の少女は一つの布団のなかでもぞもぞと目をこすったり身動ぎする。
「あら、雪がつもっておりますよ」
明るい唆しに、雪蘭は勢いよく飛び起きる。そのまままだ眠たげな青蘭をせかして、薄い夜着のまま窓辺に駆け寄る。もう、寒くはなかった。
わずかな窓の隙間から外をのぞくと、庭は真っ白に煌めいている。
照り返しに目を細めつつ、「綺麗ね」と囁くと、彼女はわずかにはにかんだ。
それが、雪蘭がはじめてみた彼女の笑顔だった。