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まだ見ぬ君に  作者: 苳子
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第3章 森 9

 ある時、王都六華から戻った父は、幼い雪蘭の小さな体を抱いて庭へ出た。

 それは今と同じ時季ころ

 庭には様々に改良された多くの蘭が咲き乱れ、または咲き初めようとしていた。


「そなたと同じ“蘭”をう姫がおられるのだよ」

「私と同じ?」


 舌足らずな言葉遣いで、けれど理知的な光を早くも宿す娘の瞳に、父は優しく微笑した。


「そう、この国で“蘭”を名乗ることができるのはそなたと王女だけだ」

「せつらん?」

「姫は青蘭姫とおっしゃる。そなたたちは同じ姓は名乗れぬが、この花と同じ名を有しているのだよ」


 そっと娘を地面におろし、その体に腕をまわしたまま膝をついて目の前の青い蘭の花弁に触れる。

 それは妖艶絢爛で多様に競い合う花々のかげに隠れるように、けれど凛として咲く小さな青い蘭だった。父はその隣に雪のような花弁の蘭を置く。


「私は白い蘭」

「そう。そなたたちは従姉妹同士だ。女神の血にとらわれないそなたが、やがてはこの花をお守りするのだよ」 

 

 雪蘭は父の腕からはなれると、青い蘭の小さな鉢を手にとった。それは幼い雪蘭の腕には少々重かった。

 その重さは今も手に残っている。

 円卓の上に置かれた小さな鉢。そこにはあの日と同じ花が咲いている。

 兄を敬う態度を示し始めた妹に、蒼杞は気分を良くしている。

 青い蘭を望めば、数時間後にはこの鉢が届けられた。


「可憐な蘭でございますね」

「青蘭の花」


 珍しく姫と呼ばす、その名を口にした。

 香露はそれに気づき、薄く笑む。


「気休めだが」


 花弁に触れる指先は、そこにいない従妹の髪を梳くように優しかった。




 情報は覗見かきまみ蒼杞そうきからもたらされた。

 蒼杞はおだてればぺらぺらと戦況を話してくれた。それを裏付ける覗見の報告がある。

 彼の話には誇張や嘘も多くまじっていた。果たして事実をどこまで把握した上で、滔々と語ってくれているのか。 

 王太子と、彼を追う苓公は苓南れいなんの砦に入ったという。明柊はじきに王太子の首を提げて戻るだろうと、蒼杞は笑った。

 翠華すいか城下では西葉軍による乱暴狼藉が横行し、略奪もすさまじいという。

手向かうものは容赦なく切り捨てられ、人々はさらわれ、足手まといになる老人や幼子も刃の餌食になっているらしい。


「このままでは城下には雑草一本残らぬやもしれませぬ」


 報告の最後にそんなことを言い添えた。通常、覗見は事実のみを告げる。よほどの惨状が繰り広げられているのだろう。

 そして蒼杞はそれを止めようとしない。知らぬのか、それとも気にとめていないのか。おそらくそのどちらでもないのだろう。

 城内では城下以上に陰惨な光景が展開されていた。

 王城での略奪はいっさい禁じられた。それは蒼杞一人の権利とされたからに他ならない。彼は奪うのではなく、破壊を徹底した。

 雪蘭たちが軟禁されている後宮にまでその手は及んでいないが、王城の半ばは廃墟と化しつつあるらしい。

 それと同時に、人質に取られた貴族たちも日一日と人数を減らしている。なにが行われているのか、報告を聞くまでもなかった。

 腐敗臭を嫌った蒼杞が、犠牲者たちの遺体を温室に放り込むよう指示したため、気候とあいまってその室内はすさまじいことになっているらしい。

 蒼杞が王太子のかわりだといって持ってきたのは、さん東宮大夫の首だった。

目をむき舌の飛び出した顔には苦悶が刻まれていた。

 わざと刃こぼれした太刀で、時間をかけて引き切ってやったのだと得意げに告げられ、さすがの雪蘭も本気で気分が悪くなった。それに蒼杞は気を悪くするどころか、ますます上機嫌になった。

 その首が誰とつながるものか、雪蘭も知っていた。

 嶄東宮大夫は碧柊の後見人である、乳母の一族の当主だ。碧柊が即位した暁にはそれなりの地位を約されていた有力貴族であり、綾罧りょうりんの父でもある。

 王太子と共に逃れた青蘭の世話を焼き、命を賭して逃してくれたのが、生首となり果てたその人の息子だとは、雪蘭には知りようもない。

 蒼杞がその不愉快な手土産を一緒に持ち帰ってくれたあと、雪蘭はその場に崩れて嘔吐した。

 香露こうろが慌てて駆け寄り、狭霰さえいが陶器の盥をもってきた。

 喉が胃酸で焼け、その痛みで涙が滲むほど嘔吐した後、ようやく雪蘭は顔をあげた。

 そのおもては白い蝋の仮面と化していた。


「父さまもあんな風に殺されたのかしら」


 平坦な口調だが、言葉遣いは奥の宮にくる以前の子供のころに戻っている。


「雪蘭さま」


 香露がそっとその肩に触れようとしたが、それは乱暴な仕草で拒まれた。

 女官長の手を払いのけると、雪蘭は狭霰のさしだした布で口元を拭い、静かに立ち上がった。


「絶対に許さない――絶対に殺させない」


 目の前の敷物には血だまりができていた。それは点々と扉から続き、再び戻っていった。

 ようやく切り落としたばかりのそれを自慢げに、そして無造作に彼はそれをわしづかみにして運んできた。汚れるといって滅多と外さない手袋はなく、素手で薄くなった髪に指をからめていた。

 生々しい血臭がたちこめている。

 狭霰がたちあがり、全ての窓を開け放つ。昼下がりの生ぬるい風が空気を攪拌する。

 赤黒い血だまりから目をそらすことなく、雪蘭は拳をつくる。その手が細かく震えていた。


「絶対に青蘭は殺させない」


 従妹を守る。それははじめて彼女の笑顔を見た時にきめたこと。だが、その決意はさらに固いものとなった。


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