第3章 森 8
父が亡くなった時、雪蘭は八歳になったばかりだった。
その頃、雪蘭は両親とともに岑州にいた。父の乳母であり後見人である岑家の居城で穏やかに暮らしていた。
その父は時折王都六華を訪ねていた。雪蘭も生まれは六華だが、育ちは岑州だ。王都がどんなところなのか、両親や岑家の人々から聞かされるしか知るすべはなかった。
その時も、父は六華を訪ねていた。そして二度と帰ることはなかった。
かわりにもたらされたのは父の死の知らせだった。
雪蘭は王族ではないが、父は廃嫡されても王族だった。王族の遺体は王家の霊廟に葬られるものだとされ、遺体との面会もかなわなかった。
そして雪蘭は父の遺言通り王都に戻り、奥の宮に入った。
青蘭の命を守ることを最優先にしつつ、父の死の真相も探った。そしてほどなく明らかになる事実。
父が亡くなったのは、東宮においてだった。そして、当時の東宮の主は蒼杞。まだ十歳にすぎなかったとはいえ、彼にまつわる暗い噂はすでに出回っていた。
それ以上の詳しい事情は分からないままだ。けれど、雪蘭にとってはそれで十分だった。
父に続いて青蘭まで失うわけにはいかない。ただそれだけのために、ここまでやってきたのだ。
入室した蒼杞は使われた形跡のない寝台を不躾に見まわし、昨日の暴力にもかかわらず臆した様子のない雪蘭を不愉快そうに見やった。
切れ長の目が冷やかに妹をとらえる。
「本日は何用でございますか」
感情を一片も忍ばせない声音に、蒼杞は形の良い眉をひそめた。
「わざわざ知らせにきてやったのだ」
「なにをでございますか」
心情の起伏をわずかもうかがわせない無表情に、苛立たしげに足をふみならす。
「そなたの夫になろうとした匹夫はまんまと逃げおおせたそうだ。だが、安堵せよ。そのあとをそなたの夫となる男が追っておる。じきに朗報が届こう」
「――どういうことでございますか」
東葉王太子碧柊が逃げ延びたことは雪蘭も知っている。けれど、それ以上の新たな知らせはもたらされていなかった。
はじめて動揺を見せた妹に、蒼杞は満足そうな笑みを浮かべた。
「苓公明柊を知っておるか」
「――はい」
苓公は王太子の従兄であり、東葉の王位継承権は王太子に次ぐ。
知略に富み、王太子の片腕であるともいわれている。それもあってか、実際の軍務の多くは彼にまかされていたらしい。明るく華やかな人柄は一方で軽薄だとの誹謗を生みながらも、人気を集めている。
「そやつがそなたの夫となる」
「――」
「そなたを妻に迎えられるなら、東葉は身分をわきまえ、われらに臣従すると云いおってな。そなたもどうせ夫とするなら、身の程知らずの愚か者より賢明な者の方が良かろう」
得意げに語る蒼杞を、雪蘭は絶望的な心地でみつめる。
自分が把握しておけばいいと考え青蘭には知らせなかったが、明柊は二十一という若さですでに何度も疑惑の目を向けられている。にもかかわらず、のうのうと逃げおおせてきた曲者だ。
それを彼は知らないのだろうか。そんな人物の言葉を鵜呑みにしているのだろうか。
同時に悟る。
彼は自分の耳に心地よい言葉にしか耳を傾けないのだ。
そして、不愉快な言葉を口にした人間には容赦ない。何故、父が亡くなったのか。その真相の一端が見えたような気がした。
西葉の軍の解体には明柊もからんでいた。その裏側でなにが行われていたのか、雪蘭にもつかみ切れていない。それはどれほど巧妙にことが仕組まれ運ばれたかという証でもある。
それを可能にした苓公明柊。
その性質の悪さが如何程のものか、分かろうというものだ。
蒼杞を言いくるめることなど造作もなかったのだろう。
「――兄上のご深慮、ありがたく存じます」
微笑を浮かべて恭しく頭を垂れた妹に、蒼杞は訝しげな表情をちらりとみせたが、じきに機嫌をなおした。
「そうであろう。じきに不届き者の首も届こう」
「待ち遠しゅうございます」
にこりと笑ってみせる。
青蘭の心からの笑顔はややあどけなく、その分人の警戒心を解きやすい。雪蘭もとりわけ好きな青蘭の笑顔だが、それをここでは利用する。
案の定、蒼杞はすっかり気をよくして出ていった。妹の態度の急変に不審感を抱かなかったらしい。
残された雪蘭は、切実な思いで溜息をついた。
「つくづくおめでたい方だ」
雪蘭の父紅桂が亡くなった経緯は香露も知っている。それだけに雪蘭の落胆の程は、香露にも手に取るように分かった。
あのような手合いに父は命を奪われたのか。
彼自身が自ら手を下したかどうかは問題ではない。彼の意思のもとにそれが行われたということが口惜しい。
推測が当たっていれば、父を手にかけた十歳の子供は未だにその時のままでいる。
この十年、西葉では彼の手によりさまざまなものが失われた。挙句、国も存亡の危機にある。それは今や西葉だけでなく東葉まで巻き込み、“葉”そのものを揺るがそうとしている。
「私は“青蘭姫”としてどう振舞うべきなのか」
幼い頃はあらゆる質問に答えてくれる頼もしい声があった。だが、小さな問いかけに答えてくれる声はとうに失われた。
香露はやわらかな絹糸のような主の髪をそっとなでた。