第3章 森 7
風が頬をなぶっていく。
窓は北向きに設けられている。窓の外には格子がはめられ、それは花と鳥を模した文様を成している。模様の部分には色硝子や鉄板がはめられ、外の景色を見ることはできない。風は鮮やかな模様の隙間から吹きこむ。
窓辺の椅子に腰かけた少女の髪が流れる。吹き抜ける風は涼しく、直射日光のさしこまない部屋は真昼であっても心地よい。
「雪蘭さま」
香露が湯気のたつ茶器をさしだす。それを受け取ろうと体をねじりかけ、雪蘭は眉をひそめた。
「ご無理なさらずに。まだ痛んで当然です」
「そのようね」
声に波はないが、その手は腹部に触れている。昨日、青蘭の兄蒼杞の蹴られた痕は、未だに内出血と痛みとなって残っている。
雪蘭は小さく息をつき、背もたれに身を預ける。
「この窓では外も見えない。これほど東葉は葉の王女を封じたかったらしい」
東葉の始祖はおよそ百年前の葉女王の同母弟。二人は双子だったという。
姉が女王として即位し祭祀を司り、それに基づき弟が政をとりしきった。
治世の最初の十年は葉に繁栄をもたらした。その後、葉は二つに割れた。
弟が姉を退位させ、自分の妻である王女を新たな女王に祭りあげようとした。
旧勢力は女王をかついで反撃に出て、主に新興勢力と軍の指示を集めていた弟側と衝突した。
その結果、弟側が敗れ、東葉に逃れた。
その頃の東葉はまだ鉱脈も見つかっておらず、深い森と厳しい気候、農業に適さない土地柄から辺境扱いされ、葉の中央政権による支配は完全には及んでいなかった。
それどころか翼波の民の居住地も点在しており、実質的には両国の広大な緩衝地帯となっていた。
その当時、実質的には東葉は葉の一部とはみなされていなかった。
王弟勢力を東の辺境へ追いやったことで、女王側は安心してしまった。その数は警戒するには値しないと見なされた。
東葉に逃れた人々は元々住み着いていた人々を取り込み、時には翼波の民すら飲み込みつつ確実にその数を増していった。
西葉から逃れてくる人々もあった。
西葉国内では絶えず陰謀術数が渦巻き、敗れたものは一族諸共に滅ぼされる。その敗者たちが東葉に逃れるようになった。
その頃には鉱脈が次々と発見され、東葉は確実に経済力をつけていた。それは農業の育成と様々な技術力の向上に回され、軍備も拡張されていった。
東葉は航海技術をも発達させ、翼波を通さず遠方の国々との交易経路を開発した。
その金の匂いを敏感にかぎ取った西葉の商人たちは、ひそかに東葉と取引をはじめる。そのために東葉に移住する者も少なくなかった。その当時、西葉にとって東葉は未だ存在しない国であった。そのため表立って咎められることもなかった。
技術者には西葉の数倍の報酬が支払われ、その噂につられて移住してくるもののも後を絶たなかった。西葉ではごく少数の人々にその利益が集中し、職人たちへ還元されることはほとんどなく、彼等の暮らしは貧しかった。
国の東側でのこの動きを、西葉も見逃していたわけではなかった。
彼らが東葉に見出した価値は、金蔵という意味においてだった。東葉にとって不都合な様々なことを見過ごす代わりに、彼等の手元には少なくない金がもたらされた。確実なもう一つの勢力の胎動に、彼等はその金のために気付かないふりをした。
そして、それも終わりを迎える。
確実に力をつけた東葉は、ある時を境にその存在を明らかにする。それは確実に“国内”に存在するもう一つの葉の国を認めようとしない、西の葉に対して独立を宣言するものだった。
まず、東葉の民との混血を拒んだ翼波の人々が追われた。
東葉と翼波の確執はここから始まる。東葉こそわが故郷と唱える翼波側にも、歴史的背景を持つ言い分があった。
東葉の独立を、西葉が認めるわけはなかった。一地方の叛乱としか見なさず、その正確な実力をはかろうともしなかった。
一万にも及ばない一個師団を派遣しただけで、それを押さえようとした。当時の東葉の軍は五万。それも訓練の生き届いた精鋭ぞろい。一方の西葉軍はろくに練兵すら行っていないような状況だった。
結果は火を見る明らかだった。西葉軍は惨敗したが、東葉はそのあとを追って攻め込むようなことはしなかった。
それから半世紀以上たつ。西葉側の軍の立て直しなどもあり、戦況は一進一退で決着はつかなかった。
その理由の一つには東葉が自国の育成に専念し、無駄な戦を避けてきたという事情もある。翼波との戦いの方が切実であり、西葉との戦いはその次だった。
西葉側は決して東葉を認めなかった。もう一つの“葉”を名乗る僭称者を誅滅しようと“討伐”軍を何度もさしむけた。
東葉が敗れることはなかったが、勝利したからといってその勢いに乗じて西葉へ攻め込んでくるはなかった。そのため西葉側は東葉をただの山師であるとみなし、女神の真の末裔たる“葉”を畏れて侵入できないのだと勝手に解釈した。
ただ、東葉側は適切な時期を見定めていたにすぎない。
そして、いよいよその時の到来を確信した東葉は、この春に西葉へ攻め込み、瞬く間に西葉王都を落とした。
その百年の間。
西葉王室内部での権力闘争に敗れた葉王家直系の王女をいただく勢力が、東葉に亡命することは何度かあった。その王女たちは東葉王に嫁いだが、彼らの間に王女が産まれることはついになかった。
その逆恨みのためか、東葉では女性に対する制約が厳しい。決して王女には女王を名乗らせず、祭祀にたずさわる時以外は後宮にとじこめて表には決して出さない。
西葉でも似たような状況だが、公の場には必ず列席する。王妃の臨席は、青蘭の母が亡くなって以来王妃不在のため絶えてはいるが。
西葉の後宮のつくりはもっとゆったりしている。そこは女神の娘である女王の聖域であり、それを守るために閉ざされていた。
一方、東葉の後宮は王妃を閉じ込める意図がはっきりしている。直系ではなくとも少しでもその血筋に近い傍系の“王女”である王妃の存在は絶対条件であり、そのくせ絶対に王女を産まないその血は疎まれた。
「けれど、それも仕方のないことではありませんか。東葉にはついに一人の王女も生まれかなかったそうですから」
東葉王女は傍系王族にのみ生まれている。その傍系王女を妻に迎えても、それでも直系王家に王女は生まれなかった。
「理をもって治める東葉においても、血への信奉はついに捨てきれなかったか」
珍しく感慨のこもるその声に、香露は目を伏せる。
「西であっても東であっても、葉は葉でございましょう。だからこそ百年の時を経て、まだ葉は葉の血を求めるのでしょう」
「国が二つに割れたのも、女神の意志だと?」
雪蘭は静かに問い、そっと茶器に口をつけた。ゆるやかな芳香が身の内に満ちていく。深々と息を吐き、閉ざされた窓の向こう側へ視線を巡らせる。
「姫が――青蘭が無事であれば、その時こそ私も女神を信じよう」
その無事を確信しつつ、不安もまた拭いきれない。そんな心中をうかがわせる雪蘭の肩に、香露はそっと触れる。
そこへ、蒼杞の訪れが知らされた。