第3章 森 6
熱はさらに二昼夜続いた。その間、碧柊はつきっきりで看病に当たった。
ようやく熱の引いた朝、青蘭が目にしたのは靄を透かしてさしこむ払暁の光だった。
靄の彼方に樹影が様々な濃淡で折り重なるように浮かぶ。いつだったか、奥の宮の女たちの無聊を慰めるために行われた、影絵で語られる物語の背景のようだ。
焚き火はくすぶり、焔は消えていた。白い灰ばかりが目につく。その向こう側に、太刀を抱え込むようにして幹に凭れて眠る姿があった。碧柊だった。
いつもきちんと結わえられていた髪はやや乱れ、こぼれた髪が頬にかかっている。日焼けした精悍な顔には、疲労の色が濃い。
青蘭が彼の眠っているところを見たのははじめてだった。
数日分の無精髭が口の周りや頬をおおい、疲労ですさんだ面は、生真面目な青年を粗野な荒くれ者に変えていた。
数日でこれほど面変わりすることもあるのかと、少し驚きつつ横たわったまま見つめた。
体はすっかり楽になっていた。熱く疼いていた両腕の痛みも和らいでいる。倦怠感に支配されているが、頭の芯はすっきりしている。
熱にうなされている間、酷い寒さでどうしようもなかった。火が傍にあっても、まるで真冬の湖に沈められているかのようだった。
以前、毒殺されかかった時もそれが抜けきるまでは酷く苦しかったが、苦痛の程を比べれば似たり寄ったりだったかもしれない。
けれどそれも途中で温もりに包まれ、少しだけ和らいだような記憶がある。熱に浮かされていたため定かではないが、夢ではなかったと思えるだけの実感が残っている。誰かが時折声をかけてくれていた。励ますように、諭すように。
朦朧としていて最初は誰か分からず、雪蘭の名を呼んでしまったような気もするが、こうして目が覚めてみれば彼以外の誰であるはずもない。そうとなれば、あの温もりが誰のものだったのかもはっきりしてくる。
青蘭は上を向いて小さく息を押しだした。幾重にもかぶさりあう枝葉を透かし、わずかに届く光に目を細める。
苓南の砦を逃れてすでに幾日たつのか。もはや青蘭には分からない。一日二日ではないことだけは確かだった。
何故、王太子は自分を置いていかなかったのだろう。怪我人にかかずらっている場合ではないはずだ。まずは自身が逃げ延びなければならないはずなのに。それが彼に分からないはずもない。
少しだけ腕を動かしてみる。痛みはあまりなかった。
無意識のうちに指先が唇を探りあてる。それに気付いて、一人で紅くなり眉をひそめた。
そんなはずはない。
あの時、彼は彼女が青蘭姫だったらと口走った。青蘭が口にした“青蘭姫”の話はすべて雪蘭のことだ。彼もそんな雪蘭の人柄を好ましく思ったようだった。
この窮地では“雪蘭”ではなく、しっかり者の“青蘭姫”のほうがなにかと心強いだろう。
それは青蘭も分かっている。分かってはいるが、ここには自分しかいない。これまでなんとか持ちこたえていた足元が、あの時いちどきに崩れてしまったような気がした。
やはり、自分では駄目なのだと。そして、それは自明の理でもあった。
眦があつくなり、こみあげそうになるものを堪えようと目をこすっていると、碧柊が身動ぎした。
「――目が覚めたようだな」
億劫そうに欠伸を押し殺しながらの言葉に、青蘭はゆっくりと起き上がった。
「はい……」
短く答えながら、継ぐ穂に迷う。ここで終わらせてしまえば、また重苦しい沈黙が戻ってしまうだろう。けれど続ける言葉が見つからない。
「痛みは如何ほどだ? 具合は?」
問いかけながら背伸びをし、次にだるそうに肩を回す。
青蘭に気を遣ってこちらを見ないのではなく、寝起きでぼんやりしているように見える。珍しいと思いつつ、ついつい観察してしまう。
「痛みはそれほどでもありません。具合もずいぶん楽になりました」
「それなら良い」
彼は安堵したようにふっと肩の力を抜き、視線を感じたように振り返った。
「また吾の顔が如何したか?」
訝しげな眼差しに、青蘭はとっさに目をそらすこともできず、誤魔化すように笑った。
「いえ、あの……ずいぶんと面変わりなさったと――けれど、また、とは?」
碧柊は自分の顔を顎から頬にかけて撫であげ、その感触に苦笑した。
「だいぶ無精髭が伸びたようだな――またというのは、あの時も、はじめて会うた時も、そなたは吾の顔をしげしげと眺めておったろう」
「……あれはお詫び申し上げたはずですが」
「根に持っておるわけではない。ただ、ふと懐かしい感じがしてな。あれからさほど日にちも経っておらぬのにな」
懐かしむように目を細め、微かに笑んで青蘭を見つめる。その眼差しの優しさに、青蘭は思わず目をそらした。
「色々ありましたから」
「そうだな」
その相槌が何故か楽しげにも聞こえ、空耳かとそっと視線をむける。
消えかけた火を再び大きくしようとしている碧柊の顔は、未だに疲労の影は去っていないがひどく穏やかだった。
「悠長にしている時間は――あれから何日経ったのですか?」
不安げな青蘭の声に、碧柊はちらりと余裕のある笑みを見せた。
「砦を出てから五日目だ」
「そんなに……」
愕然と肩を落とす彼女に、碧柊は口の端を歪める。
「そうだ。だが、まだ捕まっておらぬし、そなたの熱も下がった。これ以上悪くはなるまい」
他人事のように気楽な様子に、青蘭は拳を握る。
灰の下には火種が残っていたらしく、枯れ葉にうまく燃えうつった。そこへ水をいれた鍋をかける。
「そのようなわけがあるはずないではありませんか。私のことなど置き去りになさるべきだったのです。殿下には生き延びる義務がおありなのに」
「だが、そなたも死ねぬのだろう。青蘭姫との約束であろうが」
「それは私の事情です。それを殿下が気になさる必要は――」
抗弁する青蘭を、碧柊は冷ややかな眼差しで沈黙させた。気まずげに黙り込むのを一瞥すると、にやりと意地悪気に口の端を上げる。
「つまらぬことを言い募るようなら、またその唇を塞ぐぞ」
「――っ」
びくっと体を震わせた青蘭は、慌てて口元を押さえる。
その様子に、王太子は愉快そうに笑った。
「効き目は大きいようだな――それから、何度も言うておるように唇をかむのもやめよ。見つけたときは同じように計らうぞ」
明らかにからかわれている。青蘭は耳まで真っ赤にして睨みつける。
「な、なんということを」
「初心な娘は扱いやすうて助かる」
「お戯れも程々になさってください」
怒りもあらわに抗議すると、碧柊はひやっとするような眼差しを寄こした。
「戯れではない。嫌ならば今後はするな」
「するものですか」
切実な顔で断言すると、彼は再び笑いだす。青蘭は悔しさと恥ずかしさの入り混じった想いで見据える。何故か、その笑顔は少し切なげにも見えた。