第1章 脱出 2
頬に冷たいものがはじけた。隧道に入ってから絶えず滴ってくる。最初のうちこそいちいち驚いていたが、もう慣れてしまった。髪も服も湿り気を帯び、わずかな肌寒ささえ覚える。
青蘭はそっと頬に残った滴を拭った。
「しかし、そうなるとそなたは青蘭姫と従姉妹同士ということになるな」
父の噂を知ってか知らずか、彼はそのことに興味はないようだった。
「はい」
「親しくしておられるのか」
「姉妹のように育ちました」
「そうか」
彼はわずかに歩みを遅らせ、一言断って彼女を背負いなおす。
青蘭は思わず彼の服を強く握った。体がひどく強張っていることにようやく気付く。
「――ということは、少なくとも雪蘭殿はこの件とは無縁かも知れぬな」
「……え?」
低い呟きに、青蘭は口ごもる。独り言にしては大きく、話しかけられたにしては主旨が読めない。
「このような時にそなたに行動の自由を許したのは、そなたの身の潔白を明かすためかも知れぬ」
「……姫がかかわっておられると?」
声とともに身の内から冷えていく。それに気づかぬのか、彼は落ち着いた調子で続ける。
「仮定の一つだ。その逆も考えうる。姫ではなく、そなたが関与しているということもな。あのような状況で、何故あそこにいた。それもまた考えようによってはあやしいと云えよう」
「……」
「刺客が花嫁の一行のうちにまじっていたというのは確かだ。吾があそこにいたのは、その報告を受ける故だったからな。いつまで待っても手の者が来ぬと思えば、かわりにそなたが来た。報告が遅れていたのは先に刺客が動いた故だ――まぁ、おいおい明らかになろう。それまではそなたの身の安全は保障する。無関係であればそれでよい」
無防備に背と後頸部をさらしながら、まったく頓着しない様子でそんなことを云う。もし彼の云うように自分がかかわっているとすれば、これほどの好機はないというのに。懐に刀子の一つでもしのばせておけばいい。髪にさしている簪一つでも、首筋を狙えば十分だ。
真意を読み取れないまま、声の震えを堪えて問う。
「そうでなければ?」
「利用価値があれば役に立ってもらう。そうでなければ、それはその時だ」
「……もし仰るように私がかかわっていたとすれば、この状況はまずいのではありませぬか?」
彼の肩にのせた手にわざと力をこめる。彼は振り返りもせず、小さく笑った。
「確かにそうだ。その場合は吾が甘かったということだ。だが、ここでそなたが吾に害をなさなかったからといって、それがそなたの潔白の証となるわけでもない。なにか考えがあって、今はあえて手を下さぬということもありうるからな」
「……つまるところなにをしてもしなくても、疑わしいということですね」
「そういうことになるな」
青蘭は小さく息をつく。抓ってやりたい衝動に駆られる。
「云わせていただけば、これは東葉の自作自演ということもありえます。これを口実に一気に葉の統一をはかることも可能です。東葉は西葉の姫を手に入れたわけですから」
「肝が据わっているな」
その口ぶりは楽しそうだった。青蘭はそれにむっとする。
「疑い出せばきりがありません」
「確かにな――しかし、このようなことになって恐ろしくはないのか?」
「怖がってみたところでどうにもなりません。私も姫も潔白です。それだけは明白ですから」
「後ろめたいことはない故、恐れる必要もないか」
「はい」
憤りの勢いもあってきっぱり断言すると、王太子は笑いだした。
「では、身の潔白のあかしをたててみよ」
「いいでしょう」
挑戦を受けてたつような気迫で云い返すと、さらに忍び笑いがかえってきた。一方的に青蘭が立腹しているだけで、彼は明らかに楽しんでいる。それがさらに小憎らしさをあおる。
「頼もしいことだ――泣きわめいて手がかかるようなら置き去りにするのもやむを得なかったが、その調子ならば大丈夫だな」
言葉につられて顔を上げれば、うっすらと明かりが見える。それは外からのものではなく、焚かれる炎のものらしい。暗がりの果てに揺れる灯火は、日の光にも勝る。
「もうじき終わりだ。少しは落ち着いたか?」
「はい、おかげさまで」
当てつけるように云い返すと、また忍び笑いが伝わってきた。
掲げられた松明の炎はゆらゆらと揺らめく。やはりわずかながら空気の流れがあるらしい。
燈明が投げかける仄かだが確かな世界は、温もりを感じさせる。それは石壁が苔むし、絶えず天井より滴がしたたり、足元には水がたまる、冷え冷えとした環境であってはなおのことだ。
思わず明りに手をのばしたくなる。手をかざせば、不自然に強張った四肢の痛みも和らぐような気がする。そんな衝動を押し殺し、かわりに手が触れている衣を強く握りしめる。おぶってくれる背は広く、支えてくれる腕は確かに温かい。
控えめだった足音が大きく響くにつれ、松明はより高く掲げられる。
暗闇だった世界に影が生じ、眩しさに目を細める。
松明を手にしている人物を先頭に、その後ろにはうずくまる影がいくつかあった。王太子がその光の輪のなかに姿を晒すと、それまで明かりを掲げていた人物も素早く膝を折る。
「殿下、ご無事でしたか」
「ああ、この通りだ」
淡々とした返事に、その場に安堵感が満ちる。だが、じきにそこに困惑が生じた。青蘭はそれを敏感に悟る。無意識のうちに身をすくめると、王太子はわずかに振り返った。
無事に主が現れたはいいが、その背にかさばるお荷物までのせてくるとは誰も予想していなかったのだろう。しかもそれは女官で、衣装といえば西葉のもの。西葉に任務で赴いていた伺見(かきまみ:間者)だとしても、王太子の背におぶわれてくるはずもない。
「こちらは雪蘭殿――青蘭姫の従姉殿にあたられる。たまたま居合わせ、身の安全を図ったまでのこと。警戒するに及ばず」
ここで背より下ろされるかと思っていたが、彼はそんなそぶりを見せなかった。
落ち着いた物言いに、けれど彼らの戸惑いは消えない。ましてや国王を害した下手人のまじっていた花嫁御寮の血縁となれば、警戒するなという方が無理だ。
「しかし、殿下……」
「詮索はあとでいくらでもできよう。だが、今は一番肝要なのは何か。よく考えよ」
「――はっ」
松明を掲げた男は浅く頭を下げると、次の瞬間には素早い身のこなしで立ち上がっていた。
上背は王太子と同じくらい。髪の色もその顔立ちも平凡で、特にこれといった特徴もない。ただ、叩頭する途中で投げかけられた眼差しは印象的だった。眼光鋭いわけではないが、隙を見せればなにもかも見透かされそうな、油断を許さないものを秘めている。
「そちらのお方を」
「かまわぬ。このまま吾がおぶっていく。それよりも急げ。今は一刻を争う」
「しかし……」
さすがに王太子をこのままにもできないのだろう。食い下がろうとする従者の肩を押しのけ、無言のまま彼は歩き出す。膝をついていた数人の男たちも慌てて立ち上がり、主の後を追う。
押しやられた従者は黙って主の先に立ち、松明をかざして歩き出す。
この成行きに青蘭は慌てた。
「あの、私なら歩けます」
「転んで怪我でもされれば、ゆくゆくは足手まといになる」
「けれど――」
言い募ろうとしかけたところで、唐突に断りもなく背負いなおされた。その拍子に言葉を飲み込む。
「うるさくするならここに置いてゆく」
「……承知いたしました」
「それでよい」
彼はちらりとふりかえり、わずかに笑みをみせる。
ほのかな灯りのなかで見るそれは、嫌に印象的だった。とっさに目をそらし、青蘭は顔を伏せる。
「私は姫の身の潔白のあかしをたてねばなりませんから」
「やるべきことを心得ているなら生き延びねばな」
「――はい」
素直に応じると、「なんだ、妙にしおらしいな」と小憎らしいことを呟く
肩につかまる指先に力を籠めて爪を立てると、彼はまた小さく笑った。
[補足]
伺見をあえて「かきまみ」としています。「うかみ」とすると忍者の別称になってしまうので、違う読み方にしました。典拠は古事記。