第3章 森 5
どれほど時間が経過したのか。
焚き火をはさんで、二人は目を合わすことも言葉を交わすこともなく過ごした。まだ日の浅い付き合いだが、こんなことははじめてだったかもしれない。
森は深く広い。横行する獣の数も知れない。
苓南の砦までの逃避行はある程度人数もおり、夜間も移動したためさほど警戒する必要はなかった。
しかし、こうして二人きりとなれば気を緩めることはできない。火を焚いていてもその危険性はさほど変わらないだろう。それでもないよりはましだった。
それにこの雨。湿った冷気は初夏といえども身にこたえる。怪我人もいる。火の番を怠ることはできない。
焔の向こう側で、青蘭は膝を抱えたままほとんど身じろぎしなかった。沈んだ目で揺れる火焔を見つめている。
時折、遠吠えや不意な物音がするとぴくりと肩をふるわせる。放心しているわけではないらしい。
顔色は悪い。干し肉を湯で戻しただけのスープも、すすめればおとなしく口をつけた。傷口を確認する時も、始終体をこわばらせてはいたが、抗いはしなかった。
その傷口が赤くなり、熱を帯びはじめていたことが、気がかりだった。化膿しかけているのかもしれない。酷くなるようならば、もう一度手当てしなおさなければならない。
傷の化膿を防ぐという薬湯を与えると、顔をしかめながらもなんとか飲みほした。そのまま横になるように勧めたが、黙って首を振ると膝を抱えて丸くなってしまった。
風が吹き、雨滴が木の葉を叩く。その思いがけない大きさに、青蘭はまた肩をふるわせた。小さく息をのむ。不安そうに自分の肩を抱く指先に力がこもっている。
「そろそろ休んだ方が良い」
「――はい」
おとなしく頷き、のろのろと横になる。碧柊は外套を脱ぐと、そっと近づいた。それに彼女は警戒心をあらわにする。碧柊は手にした外套を掲げるようにしてみせ、「これをかけよ」と声をかけた。
「けれど」
「今宵も冷えよう。遠慮するな。吾は慣れておる」
傍らに膝をつき、遠慮がちにその体を外套で覆ってやる。青蘭は伏し目がちに小さく礼を述べた。荷の一部を枕代わりに仰向けになるしかない。どちらかを下にすれば、圧迫された傷が痛む。
そっと外套を肩まで引き上げる指先が、かすかにふるえている。
碧柊は彼女が心底自分を怖がっているのだと思い、そんな思いをさせてしまった自分に小さくため息をつく。それはほぼ無意識の行為。やりきれなさのにじむその吐息に、青蘭がぴくりと身じろぎし、また唇をかんだ。
「――痛むか?」
「いえ」
決して目を合わそうとしない。
かたくなに背けられる視線に、碧柊は仕方なくその場を去った。
それからどれほど経過したのか。
うとうとしかけた碧柊は慌てて頭を振って眠気を払い、枯れ枝をたした。
雨で湿っているため、一度にくべられる量は限られる。それでも火勢でぶすぶすと燻されて乾くと、焔は勢いよく燃え上がった。
朝までもつだろうかとその量を眺め、それから焚き火の向こうで青蘭が膝を抱えて丸くなっているのに気づく。
両腕の傷が痛むため、寝返りをうちかけては小さく呻き、結局は仰向けで眠っていたはずなのだが。
膝を抱えて丸くなった姿勢が気にかかり、そっとその顔をのぞきこめば、眉間にしわを寄せて小さく震えていた。
額には細かな汗が浮かんでいた。
「額に触れるぞ」
起きているのかどうか定かではなかったが、驚かさぬように声をかけ、遠慮がちにその頬に触れる。やはりびくりと肩を動かしたが、それ以前にがたがたと全身を震わせていた。
恐る恐る触れた頬も熱かった。恐れていた事態に至ったかと、碧柊は唇をかんだ。
ひどい熱だった。
歯の根もあわぬほどに身を震わせる体を抱き起こし、解熱剤のまぜた湯冷ましを飲ませようとした。震えのあまり、その口の端からこぼれていく。
碧柊は眉間にしわの寄せたのち、小さく息をつくとそれを何度かに分けて口うつしで与えた。
青蘭は小さくむせたが、なんとかその大半を飲み下すことができたようだった。
「非常時だ、許せよ」
腕の中でむせる背中を撫でてやりながら、その耳元で小さく詫びた。
熱が上がりきるまでは震えはおさまらない。その寒さといえばまるで氷のなかに身を沈められているかのようだ。
それを知る碧柊は、そのまましっかり抱き寄せ、その上から外套で二人の体をすっぽり覆った。
「上がりきれば楽なる故な」
言いきかせたところで、その耳に届いているかは分からない。
それでも辛そうに時々呻きながら震えている様子を見れば、声をかけずにはいられない。
頬をよせれば、熱くやわらかい。
邂逅からの短い時間のなかで、その体を身近に接する機会は何度かあった。意識しないように努めてきたが、体を温めようと抱き寄せれ、それを嫌でも感じざるを得ない。
そんな状況ではないと己を戒めつつも、見た目より華奢でありながら、やわらかな体と甘いような香りをついつい意識してしまう。
全身で、さらには言葉でまで、拒まれたのはつい数時間前のことだ。その記憶と衝撃はいまだに生々しい。このような状況でもなければ、触れることはできなかった。後ろめたさを覚えつつ、熱さえ下がればもうこんなことはしないからなと言葉にはせず繰り返す。
人並みに本能的な欲望というものは持ち合わせているが、劣情のままの行動を自分に許すことはできない。では、あの口付けはなんだったのかと思えば、頭痛を覚える。
文字通りの口封じだった。衝動は苛立ちだった。劣情とは違う。
そもそも伴侶となる女性以外には手を出さないつもりだ。利害関係で結婚するわけだが、せめて妻には誠実であろうと決めている。
彼女の望むように自分が勝者となり青蘭姫を取り戻せたとしても、このような事態に至っては予定通り婚姻に至るかどうかは分からない。二つに割れた国を一つに戻すための婚姻でなければ意味はない。
それがどうなるか分からない以上、なおさら手をつけるわけにはいかない。ましてや彼女は青蘭姫の従姉であり、随分と二人は仲睦まじいらしい。最も情を通じるわけにはいかない相手だ。
ひとたび意識するようなことになれば、それを自制するのは難しいだろう。
彼はどちらかといえば情があつく、移り気でもない。多情ではない故に、一人の女性にのめりこむ恐れがある。その自覚があるため、できるだけ女性を遠ざけてきた。
まったく接触がなかったわけではないが、そもそも花嫁候補となりうる貴族階級の娘が人前に出てくることはない。身分の高い娘は深窓に育つものであり、初夜にはじめて互いの顔を見るというのが普通だった。結婚したのちは、夫と共に公的な場に顔を出すことも珍しくない。
王城勤めの女性たちは身分が低かったり、すでに既婚だったりで、相手となりうる若い女性の姿を見かけることはほぼ無かった。
後宮に母を訪ねるときだけはそうもいかなかったが、あの華やかさを苦手とする碧柊は、子としての義理だけ果たすと早々に退出した。そんな息子を、母は仕方ない子ねと笑っていたものだ。
その母も数年前に亡くなった。父の最期を思えば、それで良かったのかもしれない。
碧柊が生まれた時、ひどい難産だったときく。そのせいかその後子供を授かることはなかったが、最後まで睦まじい夫婦だった。
明柊の母である叔母と父が若い頃に相愛であったと知った時は驚いたが、両親の現在を見ていれば、それは過ぎ去った遠い日々の出来事なのだろうと自然と納得できた。
碧柊の短い生においても、すでに懐かしい日々がある。それは誰しも同じだろう。
どんな事情で一緒になるにせよ、伴侶には誠実であろうとする決心は、そんな両親への想いもあってかもしれない。
だからと言って、今この時に腕のなかにいる少女をこれまでのように意識せずにおられるかといえば、それもとうてい無理なように思われる。
「ともかく今は怪我人だ」
思わず声に出して呟いていた。それが己に言い聞かせるように響いたため、碧柊は力なく苦笑した。