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まだ見ぬ君に  作者: 苳子
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第3章 森 4

 不意にがたんと大きな物音がした。碧柊へきしゅうはとたんに身を翻し、太刀を手にすると音のした扉の傍へにじり寄る。 

 そっと外をうかがい見れば、立てつけの悪い扉の隙間からひときわ強い風が吹きこみ、炉の炎を大きく揺らした。外には薄明のなかに霧がたちこめている。

 息を殺して外をうかがうことしばし。警戒をといて小さく息を吐き――そしてはっと我にかえる。

 恐る恐る振り返れば、炉の前に蹲り俯いている少女の姿があった。呆然とした様子で口元を押さえていたが、視線を感じたのかゆっくりと顔をあげる。

 その目が合う寸前に、碧柊はさっと立ち上がった。青蘭はそれにびくりと肩を震わせる。

 それを眼の端に捕えて、碧柊はわずかに口の端を歪める。動揺しているのはお互い様だ。何故あのような振舞いに出てしまったのか。自分でも不可解だった。分かっているのは愚かしいことをしでかしたということだけ。

 腹立ちまぎれに舌打ちをうってしまう。

 それを耳にして、ようやく青蘭も我にかえった。なにをされたのか咄嗟に理解できずにいたが、忌々しげに舌打ちした碧柊を、何故か愕然とした思いで見上げた。

 碧柊は青蘭の方をちらりと見ることもせず、険しい表情で外套を手に取り素早く身につけた。干してあった青蘭の分も手にすると、ようやく向き直る。


「夜明けだ。発つぞ」


 かたい口調で告げ、青蘭のそばに膝をつくと傍らに置いてあった鎖帷子を手に取った。さすがにこれだけ重量のあるものを、両腕を負傷した青蘭は一人では身につけられずにいた。


「重いだろうが身につけておいた方が良い。まずは腕を通せ。あぁ、腕はあげずとも良い。吾がやる」


 帷子を着せかけてもらう間、青蘭は一言も発しなかった。碧柊もそれ以上なにもいわない。

 最後にふわりと外套を肩にかけ、留め金をしっかりとめてやる。その間、青蘭は身を強張らせてうつむいたままだった。

 碧柊はそのまま立ち上がるわけにもいかず、自分の膝をぎゅっとつかみ、視線をさまよわせながら呟いた。


「悪かった――だが、もうあのようなことは云うな」


 青蘭は顔を上げようとしない。上げられなかった。先ほどの彼の舌打ちが耳をついてはなれない。

 同時に鼓動が増す。聞こえがよしの舌打ちや大きなため息を、青蘭は知っている。物心つく前から耳慣れたもの。優しい声ややわらかな温もりよりも、青蘭に親しかったのはそういうものだった。

 随分前から――雪蘭がやってきてからはあまりに耳にすることはなかったが、それでもそれに伴う胸の疼きは未だに心の奥底で確実に脈動している。痛みは今でも簡単に鮮やかに蘇る。

 ぐっと唇をかみしめる。やめるように言われたことなど耳には残っていなかった。

 泣けば泣いたで鬱陶しいと嘲られ、涙を見せなければ可愛げないと罵られた。泣いた時の方が屈辱感は強かった。

 涙をみせればあきれかえったように溜息を吐かれ、さらに厭味な言葉を二つ三つ浴びせられればすむことが多かった。

 泣かなければいつまでも苛みは続いた。泣きだしたくて顔を歪めれば、それはさらにひどくなった。それでも涙をこらえ、相手が飽きるまで耐えた。そんな時はひどく疲れたが、泣いてしまった後に残る、呼吸すら億劫になるようなうつろな気持ちになることはなかった。

 だが、打ちのめされることにかわりはない。次第に心を凍らせ、表情一つ変えずにすませられるようになった。

 七つの頃の青蘭は、笑うことを忘れていた。いや、それまで笑うことなど知らなかったのかもしれない。それを教えてくれたのは雪蘭だった。

 俯いたきり身じろぎしない青蘭の肩に、碧柊は仕方なく触れようとした。先ほどのこともあり、たやすく触れるのは躊躇われたが。


「雪蘭殿?」


 肩に指先が触れた瞬間、青蘭ははっとして身を引いた。凍りついたような眼差しとこわばった表情は、明らかに彼を拒んでいた。再三言い聞かせてきた唇をかみしめる癖もそのままだった。

 碧柊は行先を失ったその手を戻し、事態を持て余すあまり小さくため息をついた。それは主にこんな状況を作り上げてしまった自身に向けられたものだったが、さらに青蘭がきつく唇を噛みしめたことには気づかなかった。


「ともかく猶予はない。行くぞ」

「……はい」


 青蘭は低く応じて立ち上がった。




 外套は雨をはじいてくれたが、湿気を伴う寒さにも似たものは確実に忍び込んできた。

 馬に乗る前に再び鎮痛剤を飲まされ、馬上に抱え上げられる。体を支えてくれる碧柊の腕が時折傷口に触れて痛みが走るが、堪えるしかない。

 この時点で古道に戻るのはもはや危険だと思われた。小屋へと導いてくれた小径こみちは、頼りないながらも森の奥へ続いていた。それをたどる。

 時間の経過も分からず、ただ肺腑へと忍びこむような霧雨だけが変わらずに降り続いている。

 青蘭はうつらうつらと馬上で過ごした。途中で何度か大木の下のわずかに雨を避けられる場所で休憩もとったが、ただぼんやりと雨を眺めているしかない。

 森は薄暗く、果てしない。覚めない夢のようだと思う心地は、まるで他人事のようだった。

 碧柊はできる範囲であれこれと心を砕いてくれた。それは青蘭にも伝わったため、礼こそ述べたがそれ以外になにを言えばいいのかわらからなかった。

 なにかを口にしてまた溜息を吐かれるのが怖く、何故つい先刻まであんな風に気安く会話ができたのだろうか。自分でも不思議なほど、大切ななにかを見失ってしまった。

 碧柊のあの振舞いについては、極力考えるのを避けていた。どう考えればいいのか分からないというのが一番近い。あれがどういうことを意味する行為かは知っている。が、あの状況は嫁ぐ前に故国で教え込まれたどんな状況にもそぐわない。どう解釈すべきか見当がつかず、それを考えようとすると心が揺れる自分をどうしようもなくなる。

 八方ふさがりな心地で膝を抱えて小さく息をつくと、少し離れて幹に凭れていた碧柊が遠慮がちに顔をのぞきこんだ。


「痛むか? それとも具合が悪いか?」

「いえ」


 目が合うのを避けるように視線を落として小さく頭を振ると、「そうか」と安堵したように呟き、また気配は遠ざかる。

 先刻までなら、力づけるように肩か頭あたりを軽く叩いてくれのかもしれない。それを寂しく思いながら、青蘭は今度はそっと息を吐いた。

 



 再び夜が巡ってきたが、雨はやみそうにない。道はなんとか続いていたが、今夜は雨風をしのげる屋根を期待できそうにはない。

 ひときわ大きな大木の下の地面が乾いているのを確かめると、碧柊はここで休もうと提案した。

 もはや自分でもどこにいるのか見当もつかない。未だに苓州内なのか、それとも王領に入っているのか。ただ徒に森の中をさまよっているだけなのか。

 まったく先の見えない状況は、精神的にも厳しい。その上、連れは黙然と口を噤んでしまったきりだ。あのような振舞いに及んでしまった自業自得故に仕方ないとはいえ、気づまりな空気はさらに気を滅入らせる。

 まだ明るいうちに支度をはじめる。

 馬をつなぎ、荷の大半はそのまま馬の背にのせたままにしておく。

 完全に乾いた落ち葉だけを集めると、苦労の末になんとか火をつけられた。相変わらず雨は降っている。古道から完全に離れてしまっている分、人目を引く心配は低くなっているかもしれない。

 焔が大きくなったところへ、やや湿っているが細い小枝を足す。ぷすぷすとくすぶったのち、無事に燃えうつる。さらに石を拾ってきて、火を囲むように小さな炉をこしらえた。

 小屋から失敬してきた鍋に雨水をためると、その上にのせる。

 あとは湯が沸くのを待つだけとなるころには、すっかり日は暮れていた。その間、彼女は黙っておとなしく木の根元に蹲っていた。

 火のそばに呼べばおとなしく従うが、碧柊からやや離れて腰を下ろす。手を伸ばせば届く距離だが、隣ではない。気軽に触れられないその距離に、碧柊は仕方ないとそっと息を吐いた。

 沸かした湯をこれまた勝手に拝借してきた椀にうつし、鎮痛剤を混ぜて手渡すと、彼女はおとなしく受け取った。

 いかにも熱そうな湯気に息を吹きかけるわけでもなく、ただぼんやりとその水面みなもを見つめている。


「傷は痛むか?」

「それほどでも」


 答える声に生気はない。碧柊はわずかに眉をひそめる。


「あとで傷を見せてもらうぞ」

「はい」


 機械的な応えに、碧柊は小さく息をつく。すると、ぴくんと青蘭が肩を震わせる。


「……如何した?」


 訝しげに問うと、青蘭は小さく首を振った。


「なんでもありません」


 俯き加減で湯気の立つ椀を見つめる横顔は、ひどくこわばっている。

 碧柊は目を眇め、手をつくと青蘭の方へ身を寄せた。顔をのぞきこもうとすると、ますます下を向いてしまう。


「なんでもないという顔ではない」

「本当に、何でもありません」


 溜息が怖いのだとはどうしても言い出せず、青蘭は身を固くする。


「なれど」


 納得しない碧柊はその華奢な肩に触れようとする。その寸前、気配を察したのか、青蘭は身を引いた。


「触れないで」


 絞り出すようなか細く悲痛な声音に、碧柊はびくりと身を震わせて手を下げた。


「――悪かった……」


 碧柊は静かに詫びると身を引き、元の位置に戻ると薪をたした。

 小さくなりかけていた焔が再び勢いを取り戻す。

 雨は相変わらず音もなく降りしきり、時々高い梢から雫が滴り落ちる。

 火のはぜる音が時折響き、夜はまだこれからだった。


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