第3章 森 3
肌寒さを感じ、目を覚ました。炉の火は消えかかっている。火をかきおこして薪をくべると、火のはぜる音がして徐々に焔が大きくなる。
まだ闇は深い。
明るさを増した炉辺で、彼女の安らかな寝顔が明らかになる。掛物代りの彼の胴衣がややはだけ、白い肩があらわになっていた。それから目を逸らしながらぎこちない手つきで隠し、碧柊は小さく息をついた。
明け方が近いのか、冷気が増している。
そっと立ち上がり、立てつけの悪い扉の隙間から外をうかがう。夜の闇は深く、雨は未だに続いている。霧がたちこめているようでもあった。幸い、雨脚は和らいでいる。
干した衣類は未だ湿っている。それを火にかざし乾かしているうちに、青蘭がもぞもぞと身じろぎした。
案じたとおり、寝起きのためか無造作に動こうとして呻いている。
碧柊はその頭の上に彼女の衣装一式をのせてやる。
「だからゆっくり動けと云うておるに。まぁ、目は覚めたろう」
「――おかげさまで」
やや強張った声がかえってくる。皮肉な物言いをされ、またむっとしているのだろう。それと同時に戸惑いも伝わってくる。
碧柊は彼女に背を向けた。
「全部乾いておる。袖を通せ……というても、自分でできるか?」
「ありがとうございます――難しいようでしたら、手を貸していただけますか?」
「無論だ」
静かな室内に衣擦れの音が嫌に耳につく。
碧柊はわざと音を立てるように火をかき起こし、底の凹んだ鍋に水をうつし炉にかける。干し肉を湯に入れ塩をたすと、かすかに空腹を刺激する香りがたつ。
その背に、ためらいがちに声がかかる。
「なんとか整いました」
「痛みは?」
「自制内です」
「では朝食だ。まだ暗いが、明け次第発つ」
湯気の立つ椀を押しつけると、彼女は黙って受け取った。
腕を挙上するなど大きく動かさなければ、痛みもさほどではないらしい。
息を吹きかけて冷まそうとしている姿を横目で見ながら、碧柊は自分の衣類を乾かしにかかる。青蘭にかけていた胴衣が戻ったので、肌寒さは遠のいた。
「殿下は?」
「椀は一つしかない」
「では」
「慌てるな。火傷をするぞ。そうでなくとも唇をまた噛み切ったのだからな」
じろりと窘めるように一瞥すると、彼女はばつが悪そうに口元を椀の影に隠した。
ふっと小さく息をつき、再び焔に向き直る。
じきに椀に口をつけようとしたものの熱さにやられたのか微かな呻き声が聞こえ、碧柊はやれやれと肩を落とした。
「慌てるなと云うておろう。今はそなたにしっかり滋養をつけてもらわねばならぬ。いざとなれば岑州へ案内してもらわねばならぬのだからな。まずは傷をしっかり治せ」
「……はい」
苦笑した末に、彼女は冷めるのを待つことにしたらしい。
「少し、おうかがいしてもよろしいですか?」
「なんだ?」
「綾罧殿もおられぬのに、手慣れておられますね」
仮にも王太子だ。日頃からこういったことを手ずからこなしているわけではない。砦でも日常的なことは主に綾罧や他の側近たちの役割で、彼は悠然と座っていた。
「必要に迫られてな」
「とおっしゃると?」
「昔、翼波との戦いで軍が総崩れしてな――そのとき、指揮を執っていたのは吾だったのだが。数日、一人で国境をさまよったことがある。あれで懲りたのだ」
自嘲の笑みを浮かべつつちらりと隣を見れば、彼女は意外そうな顔をしていた。
「吾は戦略家ではない。むしろ戦下手だ。兵法家として優れているのは明柊だ」
碧柊は十代後半頃から父に代わり何度も出陣している。戦勝を重ねてきたため、戦上手との評判も高い。彼女がそんな表情を見せたのも、そのためだろう。
「ほとんどは明柊の手柄だ。吾は明柊の提案を承認しただけのこと。とは言うても、吾ら二人だけで諮ったわけではない。老練な父の参謀達も加わっておったしな。自ら軍略をたてるまでもなかった」
「……けれど、それを是とするかどうかをお決めになったのは殿下でいらっしゃるのでしょう?」
「そうだが」
それがどうしたと問うように返せば、青蘭は応じる代わりに椀に口をつけた。
ただ、考え深い眼をしているため、言葉を待つ。そうしていると一口スープをすすってにこりと笑った。
「美味しいです」
「そうか……」
「いくら良い案があっても、それを却下されれば活かされることはありません。それを用いるかどうかをお決めになったのが殿下なら、それは勿論立案者の手柄でもありますが、殿下の功績でもあるのではありませんか?」
生真面目な口ぶりは、碧柊を慰めたり阿ったりするものではなかった。それだけに、彼も苦笑する。
「吾に都合よく解釈すれば、そういう考え方もできような」
「なにを用いるかという判断力も一つの才能だと思います――それに、あれほど嫌っておられる苓公殿下のことも、認められる点は拘泥なくお認めになられる」
「それとこれとは別だろう」
「そうお考えになれることが、まずは大切だと思います。蒼杞殿にはお出来にならぬことです」
無気力で怠惰な父・西葉王にかわって戦の指揮をとったのは兄だった。そのもとで軍功をあげた将軍たちは、のちに様々な罪状のもと粛清された。それらすべてが濡れ衣だったと言い得る。
その経緯なら碧柊も知っている。ある意味、そのおかげで東葉は勝利できたようなものだ。
「自分より優れたものは認められない。あの方はそういう人間です」
「――」
「それを誰も止められなかった。西葉が敗れたのは自業自得です」
ひどく思いつめた目で焔を見つめている。
碧柊はそっと手を伸ばし、彼女の唇を指先で押さえた。
「やめよと云うておるだろう。何度云えばわかる」
「……」
青蘭は目を瞠り、次には頬を赤らめて俯いた。それでも思いつめたような険しい表情は変わらない。
「何故、そなたがそのような顔をする。従兄とはいえ、そなたにどうにかできたこととは思われぬがな」
不可解な思いで問えば、彼女は口ごもる。
「そなたの前に責を問われるべき人間は何人もおろう。それに、奥の宮で王女にかしずいていた一介の女官になにができよう?」
「できないことを言い訳にすれば、なにもせずとも良いということになりかねません」
「厳しいな――ではこうなった今、そなたがすべきことはなんだ?」
宥めるつもりで水を向ければ、しばしの沈黙ののち、彼女は毅然と顔をあげた。
「……殿下に勝者となっていただくことです」
まっすぐな強い眼差しに、思わず気圧されそうになる。
「この状況でそれを吾に求めるか」
苦笑まじりに応じても、彼女の瞳の光は揺るがない。それは彼女のものでありながら、別の何者かの力をも加わっているかのように炯炯と輝く。
「はい――殿下はそれができるお方です」
「……それは神託か?」
碧柊はそっと手を滑らせ、その頬をなぞる。その拍子に彼女は我にかえったように瞬かせた。
「――え?」
「……また神授けしたようだな……そなた、本当に王女ではないのか?」
びくりと身を震わせ、体を引こうとする。碧柊はその顎をとらえ、それを許さない。のぞきこむ瞳は、先ほどとは異なり弱弱しくたじろいでいる。
「……ち、違います」
彼女は視線を逸らす。それをどう解すべきか思案した末、碧柊はその手を放した。
「……そなたがもし青蘭姫であったなら、色々と助かるのだがな」
「……どういう意味ですか?」
「――詮無きことを申したな。悪かった。気にするな」
抗弁するように彼女は視線を尖らせ口を開きかけたが、結局再び視線を落とした。
「……私にはなにもできませんから」
かすれた声で弱弱しく呟き、悄然とうなだれる。
「そういうことではない」
「いいえ、私は役立たずなのです。愚かで、なにもできない。なんのためにここにいるのか。いつも足手まといで、取り柄もなく……」
「そうではないと云うておろう」
苛立たしく険のある声音で言葉を遮ると、彼女はまた唇をかみしめる。
「私など……」
「まだ云うか」
不快感は最高潮に達した。抗おうとする腕を封じ、強引に顎をとらえ、無理矢理その唇を唇で封じた。