第3章 森 2
ぱちぱちと火のはぜる音が雨音に紛れる。
草葺きの屋根にも激しく叩きつける雨の滴の気配は、粗末な小屋のなかにも伝わってくる。
初夏の夜。
湿気と冷気がないまぜになり、寒気と暑気の境が曖昧になり心地よさとは程遠い。
少女は炉の前でぐったりと脱力しきって眠っている。ほどいた黒髪は焔に濡れたような艶を帯びる。疲労のにじむ白い顔を縁取るそれは、彼女が流した涙で湿っていた。
碧柊は絞った布で、その額に浮かぶ汗を拭ってやる。
面にこびりついていた血痕を拭ってやると、頬に斜めに走るに傷が現れた。矢尻か刀の切っ先が掠めたのだろう。拭われた傷口には再びうっすらと血がにじむ。
青蘭が寝台から落ちたあの朝にしたのと同じようにその頬に唇を寄せかけたが、何故かためらった後に身を引いた。前髪をかきあげるとふっと息をつき、横目で寝顔を見つめる。
はじめて会ったときはふっくらとしていた頬は、この数日でいくらかこけたように見える。
夕闇のなかでも結いあげた黒髪が艶やかに光っていた。髪をあげていれば年相応に大人びた印象もあったが、こうして見ると稚さが目をひいた。
矢尻を取り除き、沸騰させた湯をさまして傷口を洗った時点で、すでに痛みのあまり青蘭はぐったりしていた。
火であぶった針に糸を通している間、彼から目をそらし、弱弱しい口調ながらもとりとめのないことを話して気を紛らわせているようだった。
いざ縫合となると勁い瞳で針先をにらみつけた後、覚悟を決めたように強張った笑みを浮かべた。
「お願いします。何度も言いますが、き、綺麗に縫ってくださいね」
「そのためにはじっとしておいてもらわねばな――怖気づいたか?」
「だ、誰が」
きっと眉尻を吊り上げる。その頭を褒めるように撫でてやると、お定まりのように嫌そうな顔をした。
「痛み止めだ。先に飲んでおけ」
鎮痛剤は常備している。それを砕いて水で溶いたものを渡すと、彼女はおとなしく口にした。薬の苦みに顔をしかめる。
「痛みより苦みの方が苦手か?」
「どちらも苦手です。今だって痛いのですから、さっさと縫ってください」
気丈にそうは言ってのけたが、実際にはじめると終始呻きつづけていた。それでも最後まで暴れはしなかった。
はやく終わらせてやりたかったが、縫い目が雑では傷口が開きやすくなる上、痕も醜く残る。それが嫌ならじっとしていろと言い聞かせながらの、悪戦苦闘だった。碧柊自身、傷を縫われたことはあっても縫ったことはない。
縫合が終わると、青蘭は深々と溜め息をつき、それから疲れ果てた笑みを浮かべた。
「ありがとうございました」
擦れた声で囁くと、力尽きたように目を閉じてしまった。眠ったというより失神したに近いのだろう。全身にぐっしょりと汗をかいていた。
血を吸って濡れた胴着は先に脱がせて、碧柊が洗った。肌をみせることに一悶着あったが、言い聞かせるとおとなしく従い、下着姿になってくれた。碧柊にとっても目の毒ではあったが仕方ない。
一仕事終えてみれば、その下着もぐっしょりと湿っている。碧柊はしばし逡巡した後、覚悟を決めるように小さく息をついた。
眼裏に焔が揺れる。
ちらちらとゆらめく灯りと頬に感じるぬくもりに、ゆっくりと覚醒へ誘われる。
頬に伝う汗を拭おうと無意識に腕を動かし、激痛が走った。呻いて体を縮こまらせると、慌てた様子でその背を撫でてくれる手があった。
「迂闊に動かさぬ方が良い。気がついたなら鎮痛薬を服用せよ。少しはましになろう」
言いきかせる声には気遣いが滲んでいる。
再び横になって深呼吸を繰り返していると、手早く整えられた薬湯がさしだされた。
それを受け取ろうと半身を起しかけ、青蘭はようやく状況に気付いて小さく声を上げた。
起き上がろうとした反動で肩がむき出しになり、確かめるまでもなく上半身になにもまとっていないことにも気づく。上に掛けられていたのは、自分のものではない一回りも二回りも大きな胴衣。見れば、木の器を手に気まずげに顔を背けている碧柊は、逞しい胸板をあらわにしている。
ずり落ちかけた彼の胴衣で慌てて肩まで隠し、警戒心もあらわに見据える。
「……どういうことですか?」
「仕方なかろう、汗ですっかり濡れていたのだ。あのままでは体温を奪われる。それに着衣も清潔にしておくにこしたことはない」
ともかく早く飲め、と器を押し付けられる。その間も、王太子はそっぽを向いている。青蘭はおずおずとそれを受け取り、ほっと息をついた。
よく見れば、彼は明らかに目のやり場に困っているらしい。その横顔が赤く見えるのは、焔の照り返しではなく赤面しているのだと気付き、青蘭は今更ながら気恥ずかしくなってきた。
それを誤魔化すように一気に薬湯を飲みほし、結局むせてしまった。咳きこむと傷にひびく。痛みと息苦しさに涙がにじむ。
「苦しいだろうが、飲め」
湯冷ましを口元に押し当てられる。むせる衝動を堪えてなんとか一口二口飲み、さらに軽く背を叩いてもらっているうちに、次第に治まった。
「いちどきに飲むからだ。迂闊な」
「……」
いつものように反射的にむっとしたのだが、どう返していいかわからず俯いてしまう。予想外の反応に戸惑ったのか、彼も口ごもってしまった。
気まずい沈黙がしばらく続いたのち、碧柊は黙ってごろりと横になり、背を向けてしまった。粗末な床の上にじかに横になっている。悠々とした広い背中には傷痕がいくつもあった。
「悪いが二つとも傷跡は残ろう。そなたがよく堪えてくれた故、はじめてにしてはうまく縫えたと思うが、傷そのものが大きい故にな」
青蘭はそっと包帯の巻かれた両上腕に触れる。痛みはあるが、いくらかましになったような気もする。
「……はい」
どう応じていいか分からず、そっと息をついて室内を見回す久しく人の手の入っていないようすだった。炉の近くには青蘭や彼の衣類も干されている。寝床をおおうのが彼の外套だと気づく。となれば、彼が上半身裸でいるのも道理だった。
「殿下、外套をお使いください」
「よい、そなたが使え。藁の上で寝たことなどなかろう。明日は雨でもここを発たねばならぬ。少しでも眠っておけ。傷の治りに障ろう」
「――では、せめてもう少し火の傍へ。夏とはいえ冷えます」
「……それもそうだな」
むくりと起き上がると、焔の明りの届くところまで移動し、また背を向けて横になってしまった。
青蘭は横になったままその背中の傷を数える。
王太子である彼が陣頭に立つことはそうあるはずはない。亡くなった東葉王の即位以来、両国の戦はしだいに東葉に有利に展開するようになった。挙句、冬の終わりの戦いで西葉は大敗を喫した。
それでも何度か戦局が混乱することはあったと聞く。東の隣国翼波との戦いはさらに熾烈を極めるともいう。
彼の背の傷をつけたのは、西葉なのか翼波なのか。
もし無事に婚儀が済んでいれば、とっくにこんな風に彼の背中を見つめて眠る夜を過ごしていたのかもしれない。そんなとき、どんな思いでこの傷を見つめただろう。
「殿下、今後はどのようになさるのですか?」
「ともかく苓州を抜ける。その先は王領だ」
「……王領まで苓公の手が回っている可能性はありませんか?」
「――分からぬな」
「国王陛下弑逆の真相を知るのはごく一部のもののみです。もし、苓公がそれらすべての罪を殿下に着せた上で、自分が敵を討ったと発表すれば」
「王領でも吾はお尋ね者だな」
笑った声はかすかに乾いていた。青蘭はその背にそっと触れようと手を伸ばしかけたが、痛みにひきつり、途中で下してしまった。
「もし――もしそうだったら、西葉へお行きになりませんか?」、
「西葉だと?」
なにを言い出すのかと、驚いた顔で彼は青蘭を振り返った。
「はい、岑州へ。せつ……いえ、私は岑家の養女となっております。そして岑家はわが父紅桂の乳母をつとめておりました。山の背を越えたあちらは岑家の領地です」
「……だが、吾は敵国東葉の王太子ぞ」
なにを言い出すかと目を瞠る碧柊に、青蘭はできるだけ悠然と微笑んでみせた。