第3章 森 1
森はいつ果てるとも知れなかった。
古道はなんども曲がりくねり、森を貫いている。あちこちに分岐があり、果たしてそれらを正確に選び取ることができたのか。碧柊には自信はなかった。
方角を確かめるには樹上にあがって<山の背>がどちらにあるかを確かめねばならず、そのような真似は鳥でもなければできるはずもない。
選択を違うことなくまっすぐに南下できていたとしても、苓州を抜けるには翌朝まではかかるだろう。
そこまで休憩なしに馬がもつはずはなく、また、それ以上に早急に対応せねばならないのは連れの手当てだった。
途中、森の天蓋の切れ間から太陽がのぞいた。その高度から時間をはかり、碧柊はいったん馬をとまらせた。
いつの間にか同行者は力を失いぐったりしていた。その体を片手で支え、もう一方の手で手綱をとってきた。その姿勢では、連れの顔を見ることはできない。せいぜい、その背中が力なく弛緩していると知れるのみ。
声をかけても反応はない。馬上で慌てて抱き起こせば、痛みのせいかわずかに顔をゆがめる。それだけを確認し、まずは安堵した。
そっと馬から抱き下ろす。柔らかな草の上に横たわらせ外套を脱がせてみて、碧柊はそこで眉間にしわを寄せた。
鎖帷子のおかげで上半身の体幹に傷はないようだった。問題は両上腕。両袖は血を吸ってぐっしょりと濡れている。
傷をあらためた彼は、深々と溜息をついた。両腕に皮革の袖を貫通した矢尻が残っていた。矢尻を抜けば出血が止まらなくなる恐れもある。それを案じてか、矢柄は途中でへし折られていた。
道中、なにやらごそごそしている気配は確かにあった。おそらく自力で二本の矢柄を折ったのだろう。思い返してみれば、その直後あたりから彼女の力が抜けていったような気もする。痛みの余り失神したのか、それとも失血のためか。
碧柊は己の外套の裾を破り、細い紐状にすると彼女の両碗の付け根を縛りあげた。これ以上血を失わせるわけにはいかない。しかし定期的に拘束を解いて血流を戻してやらなければ、今度は組織が壊死して腕が腐り落ちるおそれもある。
他に目立つ外傷はなく、碧柊はほっと息をついた。
乱れかかる髪を指先ですくいのけてやれば、白磁のごとき頬にも血飛沫がこびりついていた。それは返り血なのか、それとも己のものなのか。
砦から逃げ出す際に、彼女も太刀をふるっていた。その太刀は鞘に戻されていたが、血糊に汚れている。そのままではそれが固まり抜けなくなる可能性もある。
彼は彼女に渡した小太刀を抜くと、その汚れを外套の裾で拭った。刀身の刃こぼれは少なく、切っ先に血脂が集中している。
己の非力さを補うために少女がどのようにこれをふるったかを思い、眉をひそめる。奥の宮で王女に傅いてきた女官に、実戦の場があったとは思えない。
それにもかかわらずこれだけの働きができたということは、それだけ故国西葉における王女をとりまく環境に厳しいものがあったということだろう。
青蘭姫が何度も命を落としたかけたことは、公にはなっていない。それを碧柊が知る術はない。けれど、西葉東宮蒼杞にまつわる評判と状況を鑑みれば、事情を察するのは容易い。
その彼と従兄が結託したのかと思うと、彼らへの憎悪より自己嫌悪の方がより己を苛む。完全に信じていて裏切られたわけではない。常々、疑惑を拭い去ることはできなかったのだ。それがこの結果だ。甘かったとしか言いようがない。
小太刀をもとあったように戻し、碧柊はそっと息をつく。このまま手当てをしてゆっくり休ませてやりたいのはやまやまだが、日暮れまでにできるだけ距離を稼ぐ必要がある。
再び騎乗し、碧柊は先を急いだ。
森の夕暮れは一歩先んじてやってくる。
日差しが傾きはじめたことに気づいた碧柊は、そこで道を折れた。
わずかだが、古道からそれる道らしき形跡があることに気づいた。下生えのしげみのなかにわずかに残る痕跡は、確かに人が行き来したものらしい。最近はそれも絶えたのか、消えかけている。
夜になってしまえば、松明の明かりだけでこれに気づくのは難しいだろう。
どのみち、このまま怪我人を抱えて逃げ切ることは難しい。碧柊は覚悟をきめて道をそれることにした。
碧柊だけなら苓州から脱出することは可能だろう。それでも傷を負った連れを置いていく気にはなれなかった。
冷静に考えれば、彼には彼女を置いてでも逃げ切る責任がある。王太子としての責任を全うするためなら、故国を売り渡すような真似をした明柊にこのまま国権を渡すわけにはいかない。
そのためにはなんとしても生き延びなければならない。それが分かっていながら、何故ここで少女を見捨てることができないのか。
西葉国内に父の残した組織網を受け継いだというが、それがどれほどのものなのか、詳細は知らされていない。己の命を危険にさらすほどの価値があるのか、それが定かでない状況でこの選択は愚かしいの一言に尽きる。
それでも彼女を優先するのは、一種の勘に近いものがある。
塔のあの部屋で、一瞬彼女がみせた不可思議な表情。
碧柊を見つめる眼差しは、彼女のものであって、なかった。彼女自身の視線にまじる他の存在を感じた。それは圧倒的な力もち、只人の持ち合わせる眼力ではなかった。後になって幻視という言葉を思い出した。
東葉王家には厳密には王女は存在しない。東葉王家に王女はこの百年の間、一人も生まれていない。それは曲げようのない事実。それ故、東葉の“王女”に神がおりることはない。
故に神がかりを一度も見たことのない碧柊だが、それでも少女のその様子にその言葉を思い起こした。
だが、雪蘭も王族ではない。母親が王族ではない以上、西葉では王女を名乗ることはできない。それでも神がかり的な様子を見せたのは、それだけ本来の“葉王家”の血筋に近い証なのだろうか。
そんな東葉には存在しない“巫女姫”を、碧柊には見捨てることはできない。
西葉に比して現実的な判断を下す東葉の人間も、先祖たる“女神”の気配には抗えないということなのか。
複雑な思いで碧柊は腕の中の少女を見つめる。
たとえ女神の影響がなかったとしても、結局のところ、彼女を見捨てることなどできないのではないだろうか。その理由こそ、彼のもっとも知りたいところではあったのだが、今のところ明らかになりそうにない。
夕闇と共に雨が降りはじめた。雨脚はあっという間に強くなり、碧柊はほっと息をついた。これで犬による追跡も防げる。
幸い完全に暗くなる前に、窪地に隠れるようにして建てられた小屋を見つけることができた。
どうやら地元の住民の狩猟小屋らしい。この時期、この地方の住民たちは農作業に専念しているはずだ。だからこそ、ここへ続く道は夏草に飲み込まれようとしていたのだろう。狩猟小屋が使われるのは、食料の乏しくなる冬に限定される。
小屋のそばには樋を用いて水も引かれていた。
荒天の気配を察した碧柊は、小屋に残されていた鍋や桶に水を汲んでおいた。
悪天候はこの際ありがたい。
炉で火を焚いても煙が目を引くことはないし、小屋は古道から離れた窪地にあるので灯りが人目をひきつける恐れも低い。馬も屋内につなぐ。
黴臭い古藁を炉のまえに敷き詰め、その上に碧柊の外套を広げて青蘭を横たえた。
木の器に水を汲み、体を支え起こして唇を濡らしてやればわずかに動く。唇はすっかり乾いてひび割れ、黒く凝った血の塊があった。また食いしばった挙句に破ってしまったのだろう。
このまま折れてしまうかと案じれば、笑顔を見せる。それはいかにもせいいっぱい笑って見せていますといういじましささえ感じさせられるものだが、その心意気は悪くない。むしろ好ましくもあった。
気丈な性質かと思えば、ふと気の弱さを垣間見せる。本来の性格はどちらなのだろうかとも思うが、こうして唇の傷を見れば、なんとなく想像はつく。弱さを自覚しつつ、それをなんとかしようという粘りをみせる。そこに『青蘭姫なら』という言葉をかぶせてしまっているが、彼女自身が持つ力のはずだ。それには気づいていないようだが。
「……」
こくりと一口嚥下した後、うっすらと目がひらいた。
焦点の合わない眼が焔を映す水を見つめる。
「もう少し飲んだ方が良い」
その言葉が耳に届いたのかどうか。少女は二口、三口と口をつけた後、むせて咳きこんだ。
「――っ」
その拍子に痛みが走ったのだろう。身を縮こまらせて顔をゆがめる。碧柊がゆっくりその背をなでてやると、ようやく人心地を取り戻したのか、顔に表情が戻った。
「……殿下……ご無事なのですか?」
ゆっくりと顔をあげ、そこに碧柊の姿を認めると確認するように手を伸ばし、その拍子にまたうめいた。
「吾は無事だ。そなたこそ」
「私は大丈夫です」
顔をゆがませながら笑う。碧柊はたまらずその頭を片手で胸に押し当てる。
「大丈夫なわけがなかろう――己で矢柄をへし折るなど」
「……そういえば、まだ矢尻が残ってますね」
へへっと誤魔化すように笑う。それすら傷に響くのか、最後に小さく息をのむ。思わず体ごと抱きしめたくなるが、傷を想ってそれは思いとどまる。
「そうだ、馬鹿もの。矢尻は取り除かなければならぬ――それにもし、そなたが耐えられるなら、その傷は縫うた方が良い」
「縫う、ですか」
「そうだ」
傷は深手だが、場所的には命にかかわるほどではないだろう。それでも傷が開いて出血が続けば生命を脅かす。かといって、傷口がふさがるまでここで静養しているわけにもいかない。最もいい方法は、傷口を縫ってしまうことだ。
「縫えるのですか? 道具は?」
「道具はある――一応講義は受けた」
頼りないことこの上ないが、他に方法はない。傷口を焼く手もあるが、化膿する危険性も高い。
胸元に抱き寄せた小さな頭がかすかに動く。ためらっているのだろう。矢尻を取り除くだけでも苦痛は計り知れない。碧柊とて想像するだけで冷汗が浮かんでくる。
「な、なるべく綺麗に縫ってくださいね。傷が残ると縁談に支障が出ますから」
冗談めかして応じる声はわずかに震えている。碧柊はぎゅっとその頭を抱きしめ、その耳元に囁いた。
「売れ残った時は吾が引き取ってやろう」
「ご遠慮します」
即答した声は、かなり本気だった。